弐
「……えっと、その……」
言葉に詰まる俺を、学長の丸眼鏡の奥の細い目がじっと見据えていた。
太った体に、頭頂部の寂しさが隠せないヘアスタイル。そして、陰湿そうな目つき――。役満ですねありがとうございました。
じんわりと浮いた汗をハンカチでぬぐいながら、彼は鼻を鳴らす。
この空間において絶対強者である学長は、蛇のように鋭く光る目をして、完全に“食う側”の目線でこちらを睨んでくる。
「ボクちんの話は、歴史ある本学の伝統と理念を新入生にしっかり伝えるための大切なスピーチだったのだがにゃ?」
圧のある話し方だが語尾に引っかかる。
「チミ達学生諸君の晴れ舞台のためにあれこれ考えていたのににゃ」
その語尾のクセがなければ少しは威厳が出るのだろうが、今の状況的に口には出せない。
流石に「学長キモイっすねw」と言えるほど度胸もないし空気は読める。
ただ「にゃ」と言われるたびに猫耳が脳裏に浮かび、学長の顔面が現実に据え置かれて深刻さが50%オフだ。
いや閉店間際の総菜かっ。
心の中でショート漫才をしても状況は良くならない。
「ボクちんが話し出した途端眠りだして……」
さっきまで温度調整のきいた快適な部屋だったはずなのに、急に冷房がマックスになったかのような錯覚。学長の声色が、地を這うように低くなる。
「これはつまり、ボクちんの話が心地よい子守唄だった、ということかにゃ?」
「…………」
今発言をしたとしてどう転んでも地雷だ。今、俺の足元には回避不能の選択肢しか転がっていない。
①「はい、つまらなかったです!」と正直に答える。
即死する。
②「いえ、とても素晴らしいお話でした!」とごまかす。
「では、内容を言ってみろ」と聞かれて詰む。
③「すみません、少し体調が悪くて……」と仮病を使う。
印象を良くしようと学長室に入るときに元気よく挨拶をしたためアウト。
詰んだ。完全に詰んだ。
俺は口をパクパクさせながら必死に頭を回転させる。しかし、考えれば考えるほど余計
に追い詰められていく。
そんな俺をじっと見ていた学長が、ふぅ、とため息をついた。
「この話はいったん置いとくにゃ。そもそも寝たからって一個人を呼び出すようなことでもにゃいし、ボクちんも暇じゃなにゃいし」
拍子抜けするほどあっさりと終わった。まさかの展開に戸惑いつつも、内心で安堵の息を漏らしたのも束の間。
「代わりにチミにはこのアプリを使ってほしいのにゃ!」
机の中から一枚のチラシを取りだす。
ジャンジャジャーンとセルフ効果音付きで。
「とある教授がAIを開発しているのだにゃ。それを楼律大学公式のものにするべく今試験的に導入しているにゃ。我々年長者が使っても使いこなせないし、AI需要は若い世代にこそあるにゃ。そこで君には楼律大学AI(Lou Ristu University Artificial Intelligence)、通称LU君をスマホにダウンロードして欲しいのにゃ」
そこに描かれた愛くるしいロゴと「未来の学びを、あなたの手に」というキャッチコピーのもと筋肉もりもりマッチョマンなヒーローらしき人物が光の玉らしきものを掴んでいた。
握力が強すぎて玉にヒビが入っているように見えるのは気のせいだろうか。
「入れていきんしゃ~い。たまに誤作動起こすけど」
駄目じゃねえか。
なんだかよく分からないプログラムをスマホに入れるのは、正直、抵抗がある。
最近でも、変なアプリを入れたせいで個人情報が流出したとか、カメラが勝手に起動していたとか、そういうネットの怖い話は山ほど聞く。
ここは情報リテラシー社会に生きる大学生として、しっかりと危機感を持つべきだろう。
たとえ相手が学長であっても、納得できないものは断る勇気が必要だ。そう、自分のデバイスは自分で守る。それが令和の倫理というものだ。
「ちなみにチミは、強制にゃ」
「は?」
聞き返さずにはいられなかった。
だが学長は、当然のように続ける。
「ボクちんの偉大なる話を寝て過ごしたから」
その理屈、法廷で通じるんですか?
まさかの強制インストール。理不尽極まりない。
「い、いや、それって何かの権利の侵害じゃないですか!? 学長の圧力でアプリを入れさせるなんて……パワハラですよ、パワハラ!」
勇気を振り絞って訴える俺を、学長はふぅんと面白がるような目で見たあと、ふと尋ねてくる。
「チミ、学部は?」
「……理工学部ですけど」
「そこの学部生は授業で使うから必須にゃ。まあ二年生から使うことになってるけど、チミには一年早く使ってもらう、という話なのだにゃ」
決定事項だった。
一年後には必ず使う未来が待っているなら、今入れても大差ない気がしてくる。
「入れてくれたら今日のことは不問とするにゃ」
「喜んで入れさせていただきます!」
俺は即答しながらスマホを取り出し、提示されたQRコードをスキャンした。