壱
何というか、無色だ。
俺の人生に色を付けるなら、限りなく透明に近い無色だった。
小学校、中学校、高校と、特筆すべきビッグイベントもなく、ただ淡々と時が流れていった。
もちろん、体育祭や文化祭といった学校行事は一通り経験したし、それなりに楽しかった。
でも、あと十年もすれば忘れてしまうような、そんな日常の繰り返しだった。
心を揺さぶられるような感動もなく、心臓を打ち抜かれるような出会いもない。ただ、窓の外の空の色が変わるのを眺めながら、今日という日が昨日と同じように終わっていくのを見ていた。
高校の入学式のときは、「隣に座った可愛い女の子と運命的な出会いがあるんじゃないか」と根拠のない期待を抱いていた。
修学旅行ではいつ告白されてもいいように一睡もせずにいたら周りから「早く目を覚ませ。あ、覚めてるか(笑)」と笑われたことは未だに心に刺さっているけど今日も元気です。
――そして今日は、大学の入学式だ。
秋南白空の、人生最後の入学式。
無色透明なこれまでの人生に、いよいよ「何か」が訪れる。そんな予感がしていた。
高校生という肩書きを脱ぎ捨て、俺はついに大学生になったのだ。
思い描いたキャンパスライフ、自由な学び、刺激的な出会い、そして恋愛……。
今日この日が、俺の人生を色づける第一歩になる――はずだった。
……のだが。
会場は、静寂に包まれていた。
しん、と音のない世界。
高い天井から吊るされた蛍光灯が、無機質な白い光で床を照らしている。
長机が並ぶ壇上には、誰の姿もなかった。
あまりにも整然と、あまりにも空虚な光景。まるで舞台から役者だけが消えた演劇の一幕のようだった。
まるで時間が止まったかのような静寂が、張り詰めた空気と共に俺を包む。
ずらりと並んだパイプ椅子の群れ。その中央に、ぽつんと座る俺ひとり。
ざわ……ざわ……と、遠くの木々が風に揺れている音だけが響いている。
この異様な光景に、背筋がぞくりとした。
「いったん状況を整理しよう」
凝り固まった体を伸ばし、口元の涎を拭う。
記憶をたどると、確かに俺は手続きを済ませたあと、入学式のためにこの会場に来た。席は自由だったが、前に詰めるように言われ、その指示通りに座った。そして、周りを見渡せば、そこには同じ新入生らしき奴らがいた。
異変が起こったのは、学長がスピーチ台に立った後だ。
何を喋っていたのか、記憶に残っていない。
ただ、ひたすらに単調で退屈な声が続いていたことだけは覚えている。文章のない論文を音読しているような、意味のない言葉の羅列。それは、まるで睡眠導入BGMのように、俺の意識を遠くへと引きずっていき……。
「これは……アレだ。……寝過ごしたわ」
会場に響く、自分の声。
静まり返った空間に、その軽率なひと言だけがぽつんと浮いた。
慌ててポケットからスマホを取り出す。
通知が二件。
一件目。
『今日は自由解散となります。部活サークル見学に行くなり帰宅するなりしてください。あと入学式から寝るとかやる気あるんか?』
ほぼ名指しじゃねえか。
恐る恐る、もう一件の通知を開く。
『学長室に来い』
ウフフ、大ピンチ。
スマホに浮かび上がる六文字が、心臓に直接刺さるような冷や汗を誘った。
このままここにいても仕方がない。とにかく行くしかない。
立ち上がり、式場を後にする。
通知にはご丁寧にも「学長室までのルート」が添付されていた。
ありがたいけど、怖いわ。
最初から「逃がさないぞ」と言われているような気さえする。
外に出ると、キャンパス内にはすでに楼律大学生たちの姿がちらほら。
友達らしき人と談笑する者、サークルのチラシを手に走る女子、空中に話しかける男子(?)など様々だ。
みんなもうすでに、自分の「場所」を見つけ始めている。
事前にSNSで繋がっていたのかもしれないし、たまたま隣の席だった人と意気投合したのかもしれない。
俺もそれに倣ってやっていれば寝過ごすこともなかったのではないかって?
「SNS? 考えられないね。顔も合わせず仲良くなるとか愚の骨頂。素顔もわかんないのに仲良くなるとか、怖い人だったらどうするの」
そう、俺はリスクヘッジに定評のある男――ソラなのだ。
積極性は時に仇になる。現代社会は慎重さこそ美徳。
そんな謎の言い訳を脳内で展開しながら、俺は中央館へと走る。
楼律大学でもっとも大きな建物、それが中央館。
文系理系問わず共通科目の講義が多く開かれ、生徒の出入りも多い。
その最上階――13階に、学長室はあるらしい。
エレベーターに乗り、無言で13階のボタンを押す。
何とも不吉な数字だ。
「……嫌な予感しかしないな」
エレベーターの中で、無意識に上を見上げる。
天井にある階数表示の数字が、じりじりと増えていく。
一つ上がるたびに、心拍数も上がる。
そういえば――
「エレベーターで人はなぜ上を見るのか?」という雑学を思い出した。
どうやら、自分のパーソナルスペースを守るためらしい。
人が多い中で、自分の顔の前だけでも空間を確保したい。だから、上を見る。
この雑学は役に立ちましたか? いいえ立ちませんでした。
やがて、目的階に到着する「チン」という音が鳴る。
重い足取りで奥へと進むと、ついに現れた――重厚な扉。
木目が美しく彫られたそれは、歴史ある建物の一部のように堂々とそこに立っていた。
扉の中央には、金色に輝くプレートに学長室の文字。
どこか「来たな」という圧を感じる文字だった。
できることならさっさと帰りたい。けれど、ここまで来たらもう引き返せない。
俺は、震える拳を扉に伸ばした。
そして――
面接で絶対にやってはいけない、二回ノックをした。