幕開け
「いいか君たち。筋肉の育て方は破壊することだ。破壊された筋肉は再生する過程でさらに強く逞しく復活する。それこそ筋トレの本質といえるのだ」
……なぜ、俺はこんな目に遭っているのだろうか。
場所は大学の弓道場。他の部員たちは射技に取り組んでいるのに俺達だけはなぜか道場の端の方で正座をさせられている。
正座に慣れていないせいで痺れた足の感覚を失いかけながら、目の前で仁王立ちする女の先輩の説法を拝聴している。
隣でしきりに頷いている同期がいるが俺にはこの話の重要性が見いだせない。
そして、俺たちに圧をかけてくる張本人──道場の床にどっしりと両足を広げて立ち、腕を組んだ先輩。褐色の肌に、艶のある純黒の髪を高く束ねた姿は、見た目だけなら和風美女といっても差し支えない。
……が、その姿のインパクトは顔だけでは完結しない。
「ガタイえぐっ」
思わず口から漏れてしまう。
道着の上からでもハッキリとわかる筋肉の輪郭。ボディビルダーというほどではないが、一般人とは明らかに一線を画す密度と厚み。肩幅に至ってはもはや“水平”の領域に達しており、正面から見ると道着が四角く見える。パワー系なのにスタイリッシュという謎の矛盾を背負っている。
データなんかねえよとか歌ってそう。
そして──胸。
うん、デカい。間違いなくデカい。
けれども「胸」というより「胸筋」と呼ぶべき代物だろう。ふくよかとか豊満とか、そういう方向性ではない。戦うために進化した部位。
まるで戦艦の装甲のような厚みを持ち、呼吸するたびにピクリ、ピクリと律動する。まるで命ある筋肉そのもの。
そんな恵体に乗っかった顔は、まるで雑コラ。
いや、顔自体はめちゃくちゃ整っている。モデルレベルの美貌。なのに体とのサイズ感があまりにアンバランスで、脳が情報の処理を拒否する。
あなた……何頭身なんですか。
「ふぅむ、羨望の眼差しを向けてくれるのは有り難いが、私はまだまだこの肉体には満足していなくてね。特に背筋あたりが」
向けてません。というかこれ以上ムキムキになって何になりたいんですか?
先輩は筋肉アピールのごとく、マッスルポーズを次々にキメてくる。
サイドチェスト、バックダブルバイセップス、最後はなぜか土俵入りのポーズ。もう競技が違う。
そのたびにこちらに「どうだ?」と言わんばかりの視線を送ってくるが、出会ってまだ数分の相手にどう返答すればいいのか皆目見当がつかない。
とりあえずニコニコしてやり過ごし、隣に視線をスライドさせる。
だが俺をこの弓道部に連れてきた張本人、音崎歩飛はもはや完全に信者の目で先輩を見つめていた。
「先輩……! その美しい筋肉が美しい射を生み出すわけなんですね!?」
「違う」
違うんかい。
「ありがとうございます!!」
なんでお礼言ってんだよ。
ならばなぜ、俺は今、畳の上で正座を強いられ、筋肉講座を受けているのだろうか。
ここは確か、大学の弓道場。武道精神と静寂の美を重んじる場所だったはずだ。
なのに耳に入ってくるのは、己の肉体に対するアツすぎる情熱トークである。
疑問の視線を送ると、仁王立ちの先輩が誇らしげに胸を張り、演説を始めた。
「確かに、ここまでの筋肉を育てたいという気持ちはわかる! 破壊された筋肉は再生し、より強靭に、よりたくましく生まれ変わるッ!! だがその変化は微々たるもの……しかしな! より高みを目指すという心意気があればいずれ──必ずや──理想の自分に出会えるだろう!! そう、筋肉は裏切らないッ!!」
束ねられた長髪をなびかせながら、まるで大衆の前で語る政治家のような身振り。両手は力強く空を切り、肩で風を切るような気迫が場の空気を震わせる。
けれども、俺が聞きたかったのはそういう話じゃない。
「なぜ筋トレが始まったのか」という根本的な疑問には一切触れてくれない。恐らく、話せばわかるタイプではない。
というか、もうわかってしまった。
この人、たぶん……筋肉で会話するタイプだ。
「お前たちは、何でできている?」
急に哲学の授業が始まったかと思いきや、問いかけの目が鋭すぎてとりあえず答えるしかない。
「……七割の水分と三割の固形成分です」
「そうだな筋肉だなッ!!」
話が通じない以前に、会話を根底から破壊してくる。
いや、破壊してるのは筋肉だけにしてくれ。
「お前たちの友とは誰だ?」
「愛と勇気」
「そうだな筋肉だなッ!!」
この人の中では、すべての問いに対する答えが筋肉で統一されているらしい。
思考回路が筋トレ構造になっている。
異常発達した首から下を見ないように意識するなら、顔だけは整っている。
道着を着ていなければ、ミスキャンパスとして通っていてもおかしくない。なのに──
「肉ッ!! たんぱく質ッ!! プルォテイィィインッッッ!!」
叫んだ。
叫んで、ポーズをキメた。
見たこともない筋肉の盛り上がり方をしながら、先輩は己の限界に挑むかのように叫び散らかしている。
だが、そんな先輩を横目に──他の部員たちは、誰一人として顔色を変えず、黙々と弓を引いていた。
たぶん、これが日常なんだろう。
野獣の雄叫びかのように叫ぶ目の前の女性を前に
「弓道小説のはずなのになぜ筋肉の話をせにゃならんのだ」
俺は途方に暮れていた。