08 互いに自己紹介
老婆が立ち去り、大祐と雅高が残った部屋で、柚子は改めて二人と向き合う。
先ほどの緊張もあって顔を強張らせていると、そんな彼女の前では二人の会話が始まった。
「いやー、参るよなあ。宇佐子の奴、俺が帰ってきてから、ずっとあの調子なんだよ」
先に口を開いたのは大祐で、雅高も歩み寄って腰を下ろす。
「先ほど確認した時も、宇佐子は彼女の正体に気づいてないようでしたが」
「ああ。 ”河太郎に襲われていた娘を助けてる間に、件の妖獣を逃がした” と、なぜかそういう話に誤解してんだ。 ――――なにあれ。なんであんなに怒ってんの?」
「都が、 ”あの妖獣は海王様の加護を受けている” と報告したもので、叔父上が戻るまで、屋敷内はちょっとした騒ぎになっていたんですよ。それが本当なら、その妖獣を鴻上に是非とも迎え入れたいと」
「なるほどなるほど」
なるほど……と、大祐の視線が柚子に向けられ、
「で、どうなんだ?本当のところは」
改めて聞きたい、といったところか。
とはいえ、柚子は大祐に港町で簡単な経緯を既に話している。
先代のカエルの話はともかくとしても、海王とのやり取りに関しては意識的に黙っていたわけではないし、聞かれれば答えていただろう。
だが、妖獣が喋ったくらいで驚いていた大祐である。
海王の話をしたところで、『現実味がない』と一蹴された可能性は否めない。
(都さんは、どうして分かったんだろう)
柚子が二人の会話で不思議に思ったのは、都の報告の部分だった。
彼女には、この世界に来た経緯どころか、柚子の素性も海王との邂逅も何ひとつ伝えてはいない。
腕輪を気にして声をかけてきた記憶はあったけれど、それも結局、大祐が来たことで話は打ち切られたはずだ。
その時の続きをと思えば、今、改めて問われて、柚子は素直に頷く。
「ええと……はい。本当です。この腕輪も、その時にもらいました」
もとより、海王については隠すつもりもない。
この世界で生きている以上、少なくとも柚子よりはこの地に住まう人々の方が海王への見識も深かろう。
そういう思いから、ついでに海の中での出来事も簡単に説明すると、しかし、柚子の向かいで二人は黙ったまま互いに顔を見合わせた。
ややあって、
「五王の一角?」
最初に3人の間に流れる沈黙を破ったのは、大祐であった。
「はい。そう言ってました」
こくりと柚子が頷くと、そうか、とだけ呟いて、大祐は目を伏せる。
「叔父上?」
あまりに突飛な話を一気に聞いたせいで、さすがの大祐も困惑しているのかと心配した雅高が声を掛けると、大祐は自身の膝を打って顔を上げた。
そこにあったのは困惑どころか満面の笑みで、更に彼は、嬉しさをこらえきれずにその場で立ち上がったのである。
「すごい! これは、本当にすごいことだ、柚子!!」
「……はい?」
「叔父上、嬉しいことは分かりましたが、とりあえず座ってください。今は彼女のことをもっと知ることが先だと思います」
「言い伝えは本当だったんだ!! やはり五王は実在するんだな!!」
「???」
柚子としては、異世界に来ている時点でもう何でもアリだという認識があるから、龍が出ようが魔王がいようが特に驚きはしない。
しかし大祐は違ったらしく、雅高の呆れた視線の先で発する彼の声は大きい。
「はー、俺も会いたいなー!! どこにいるんだっけ!?」
「……どこって。遭ったのは、あの港から潜ったところですけど」
「よし、案内してくれ! すぐに!」
「え?」
「叔父上!!」
雅高に制止されても大祐の興奮は冷めることなく、むしろ目の輝き自体は増して、そのまま彼は柚子の手を両手で握った。
「案内は頼んだぞ、柚子!」
目の前で破顔した大祐を見て、柚子の喉元に到達したのはある一説。
「あー……でも、たぶん、あの海王様は姿を見せないと思いますよ? 海に潜ってきた雅高さんの気配で消えてしまったので、人前には出てこないんじゃないかなあ」
雅高が来たことを察知して、言いかけた頼みごとさえも半ばで終わらせてしまったほどである。
柚子が仲介をかって出たところで、彼の再登場は望み薄だ。
それを口にした柚子の前で、今度は大祐の笑顔が凍りつく。
「…………えっ?」
「えっと、なぜか私もカエルから人の姿になってしまいましたから、海王様と繋がりがなくなったかもしれないんです。だから、もしかしたらあまり大祐さんのお力になれないかもしれません」
現段階では、何がどうなって人の姿に戻ったのかもわからない。
第一、海王はその部分について何も言っていなかった。
条件がそろえば戻れるとは教えてくれたが、肝心の条件とやらは謎のままだ。
ということは、柚子はもうカエルの姿に戻れない可能性もあり、このままの姿で目的を無事に達成できるのかという新たな問題も生じる。
「お世話になっているのに、恩返しらしいことが何も出来なくて、すみません……」
急に申し訳なくなって言葉を切った柚子を前に、大祐はゆっくりと手を離した。
そこへ、横から雅高が声をかける。
「柚子殿、叔父上のことは気にしなくていい。今は自分のことだけ考えていればいいから」
励ます雅高と対照的に、大祐は柚子にどう声をかけていいか分からず、部屋の中央で立ったまま、困ったように頭をかくだけ。
「……すまん。気を悪くしたな」
そのまま気まずさに部屋を出て行ってしまいそうにも思えたが、ややあって、おもむろに大祐は懐からなにやら書物を取り出し、柚子の前に置いた。
「これを、見てくれ」
柚子が顔を向けると、そこには優しい笑みがある。
「この国で誰かが聞いたこと、体験したこと、そんな色々なことを物語にしてまとめたものだ」
誰がまとめたのか、とは問わなかった。
見れば、表紙には大祐の名前がある。
題名や中身なんかは達筆すぎて読解が難しいものの、ところどころ分かる文字もあるにはある。
そうして無意識に読める名前をなぞっていると、大祐はじっと柚子の手元に視線を置いて口を開いた。
「俺は、少し前に大病を患ってな。国中から色々な話を集めて治療法を探しているうちに、いつしか話を集める方が楽しくなっちまったらしい。五王の言い伝えも、その時に知ったんだ」
「……大病?」
そういえば、カッパと対峙した時に、柚子を逃がすための口上にそんな話があった気がする。
「いわゆる不治の病だな。治療法も未だに見つかってない」
唐突に重い話が飛び出して返事に困ると、大祐は慌てる。
「す、すまん! あんたを暗い気持ちにさせたいわけじゃないんだ。病気だっていっても、今日明日にすぐにどうにかなるわけでもないと思うし。ええと……まいったな」
また頭をかいて、
「あんたはまだ生まれたばかりで、この世界のことを何も知らないんだろ? こっちの事情も少しずつ話していけたらと思ったんだ」
彼の中では、『柚子がこの世界で急に生まれた説』が健在らしい。
柚子としては否定も肯定も出来ないから困るところである。
雅高はそんな叔父を横目に、首を横に振った。
「それにしたって、最初に話すなら、まずは名乗るべきですよ、叔父上」
「いや、だって、街道では話す暇がなかったんだよ。河太郎が急に現れて、逃がす時に一方的に話したまんまになってたから、こいつも気になってるかなって」
なあ、と話しかけた大祐を見て、柚子もカッパのことを思い出した。
「そういえば、その河太郎というのは無事に倒せたんですね」
身を引き裂かれた生々しい感触はまだ体に残っている。
大量の鮮血が視界を赤く染めた……はずなのに、どうして自分は無傷で済んだのかが謎のままだが。
そんな柚子の問いに、大祐は背後を指さした。
「いや、そこにいるけど」
「えっ」
言われて振り向くと、部屋のスミ、不自然に置かれた水瓶の後ろから、小さな生き物が顔を出す。
それは体長70センチほどの小さなカッパ。
青い身体と白いお腹に加え、だいだい色のお皿と甲羅と嘴は紛れもなく、あの大きなカッパと同じものだった。
「えええええ?! 小っさ!!」
「キュ」
思わず叫んだ柚子の声に反応し、カッパはとことこと歩いてくる。
「その子は、叔父上が君を担いで戻った時に一緒についてきたんだ。君が寝ている間も、ずっと心配そうに部屋のスミにいたよ」
「……どうしてこんなに小さくなってるんですか?」
「それが妙な話なんだが、俺もよく覚えてないんだよな。確かにあんたは爪で裂かれたはずだが、その後、急に目の前が真っ白になってな。気づいたら皆が無傷だった。……さっきのあんたの話を聞いた限りじゃ、もしかすると、その海王様の加護ってのに救われたのかもしれないな」
カッパは柚子の横にちょこんと正座して、つぶらな瞳で見上げてくる。
「もう害はないみたいだし、これからは君が連れているといい。この屋敷の者には見向きもしなかったから」
「お前もその方がいいだろう? なあ、河太郎」
「キュ!」
大祐は全然知らない人ではないが、柚子がこれから連れて歩くであろう存在に勝手に名前を付けられた挙句、既にそれが定着しているのを見ると、柚子としては少し複雑である。
この世界で初めての供だ。
どうせなら、可愛い名前か格好いい名前を付けてあげたかった。
そこまで話が進んだところで、おもむろに二人は柚子の前に居直る。
「じゃあ、まあ、改めてこっちの話をしようか」
今更な気もするが、どうやら彼らは紹介を仕切り直すつもりらしい。
「港でも話したが、俺は鴻上大祐だ。こっちは甥の雅高。俺は分家の当主なんだが、本家の当主はこいつだ。まあ、鴻上家の大殿様ってやつだな」
「こうがみけ?」
「ああ、鴻上の家は代々長男が継ぐのが決まりでな。そんで、長男が亡くなったら長女に家督が移るんだが、俺の兄貴は赤ん坊の頃に死んじまったから、代わりに俺の姉が当主になって、こいつを生んだってわけ」
それで、先ほどの宇佐子の態度も納得した。
つまり、今この鴻上領で一番偉いのが、この雅高さんなのだろう。
(大きな家ともなると色々と複雑なんだな)
でも、それだと柚子には少し引っかかる点がある。
「名前は、雅高様で合ってるんですよね?」
「ん? どうして?」
「さっき、宇佐子さんが別の呼び方をしていましたから、ちょっと気になって」
「ああ、そりゃあ、そっちが本来の呼び方だからで―――って」
言うと、2人ともびっくりしたような顔になる。
「まさか、そのことも知らないのか!?」
「え? 私、何か変なこと言いました?」
「い、いや、そうか……。急に生まれたんだもんなあ。そりゃ、知らないか」
大祐はそう言って、ふむぅと唸った。
その態度からして、どうやらまたも柚子の無知が炸裂してしまったらしい。
そして彼は口を開く。
「この世界には、“守護”って呼ばれる不死の存在が居るんだよ」
「不死?」
「ある日突然、なんの前兆もなしに白い動物がやってきて、半身はお前だ、って指名してくるらしい。で、指名された奴は期限つきの不死になって、その動物の名にちなんだ守護を名乗る。こいつは白い鷹に選ばれたから、鷹守ってわけだ」
大祐は簡単に話してくれたが、柚子にとっては初めて聞くこの世界の常識である。
するりと呑み込める類のものではなく、頭の中で少しだけ整理が必要だろう。
すると、そんな柚子の様子を見た雅高が、詳しい話をと気遣って、更に聞かせてくれた話はもう少し長いものとなった。
――――この大陸が世に開かれて既に数百年。
狩猟に始まった人々の暮らしは月日とともに進化し、各地で国が興った。
人が立てば諍いが起こり、そのうちどこかで戦火が切られると、争いの種は瞬く間に大陸全土へと飛び火した。
それを見ていた天の神は、地上の嘆きを憂い、戦を止めるための白き使者をつくったという。
白き体を持つ使者は、あるじとなる者から分かたれ、天で新たに生まれ出でる。
そのため、白い体を持つ生き物は、使者以外にはこの世に存在し得ない。
そしてその使者は、己の国を繁栄させるための誓いをもって、あるじである半身に120年の不死を与える。
あるじは白き使者の名を分かち合って共に国の守り人となる。
そんな古い言い伝えが当たり前のように認識されるようになったのは、ごく最近で、それも『守護』と呼ばれる絶対的な存在が、実際に現れ始めてからだ。
鴻上家には10年ほど前から白い鷹がいる。
その鷹が選んだとされる相手ゆえに、雅高は『鷹守』と呼ばれているという。
(思った以上に、私が居た世界とは違うんだなあ)
海王によれば、この世界は柚子がいた世界と似ており、少し前の時間軸だという話ではなかったか。
それならば、学んできた歴史の知識が少しは役に立つだろうと思っていたのに、まったくの見当違いではないか。
「「「……」」」
沈黙が流れて、柚子はあけ放たれた障子の先に、黙って庭へと目を向けた。
しとしとと小雨が降り続く中で、だんだんと1日が終わりに近づいている。
このまま夕刻を迎えたその先に、柚子はどんな生活が自分を待っているのかを想像することが出来ずに居た。
大祐は書物を膝の上に置いて、腕を組む。雅高に目配せすると、彼は頷いた。
「柚子殿」
おもむろに話しかけた声色は、穏やかなものだった。
「叔父上とも話をして、君の今後のことについて考えていたのだけれど」
言って、雅高は柚子を見る。
「君さえよければ、このままこの国で暮らしてみることは出来ないかなって」
「えっ?」
「一時的にではなくて、今後、君のことを鴻上で引き受けたいと言ったら、駄目かい?」
思わぬ誘いに、柚子は驚きを隠せない。
「わ、私は全然駄目じゃないですけど……。でも、宇佐子さんは絶対に怒りますよ! 私が妖獣だったって言っても、それを証明できるものが何もないわけですし」
この世界に飛ばされて、大祐たちに遭った。
柚子にとっては、それが紛れもない事実だが、事実だけをそのまま話したところで、この家の者たちはその話に納得して受け入れてはくれないだろう。
けれど、彼はそんな柚子の言葉を受けても意見を変えない。
「うん、そうなんだけどね。柚子殿が妖獣なのは事実だし、私たちが分かっていれば、無理に皆を納得させる必要はないんじゃないかな」
「でも、それは――――」
「それが難しいようなら、君は叔父上の病を治すために滞在しているんだ、ということにしておいてもいい」
「いや、もっと駄目ですよ!! 大祐様がすぐにどうにかならないとしても、命にかかわることに嘘をついてはダメです!!」
とてもじゃないが、何かあっても責任が取れない。
雅高は必死に反論するそんな柚子をじっと見つめ返している。
「雅高さん、聞いてますか?」
「あ、ああ……うん」
柚子の声に、彼は曖昧に頷く。
「でも、屋敷に戻ってからの叔父上は心なしか元気そうなんだ。本当に病気が治ってしまったかもしれないと思うほどにね」
「それは本当にそうなんだよなあ。明日がちょうど往診の日だから、色々と診てもらうか」
そう言って笑いあう彼らを見ていると、どこまで本気なのか、柚子は分からなくなってくる。
(もしかして私、この人たちにからかわれているのかな)
うーん、と柚子が顔をしかめてみせれば、
「大丈夫だよ」
ふいに、柚子は頭に手を置かれた。
「都の恩人である君のことを、絶対に悪いようにはしない。だから、こっちも出来るだけのことをやってみるさ」
皆の説得も、柚子のこれからも。
そう呟いた雅高を見つめ返すと、手で触れられた箇所がだんだん熱くなってくる気がする。
(なんか変だな)
柚子はこの青年を前にすると、妙な思いを抱くことを自覚しつつあった。
それは恋や愛といった類の感情ではなく、どちらかといえば、生き別れの親兄弟に会ったような感覚に近い。
柚子の本当の親兄弟は、元の世界に置いてきた。
こんな場所に居るはずがない。ないからこそ、柚子は惑い、その感情は胸をざわつかせるのだろう。
……ぐすん。
家族を思い出し、柚子は泣きそうになって目を伏せた。
その瞬間、あ、と雅高が声を上げる。
「───ああ、雨が上がったよ、柚子殿」
仰いだ空は、いつしか小雨も止んで、その薄灰色の雲間からいくつもの光の筋を地上に向かって降り注いでいた。