01 クリスマスの夜に異世界へ
「はー、ツイてないなあ。せっかくのクリスマスなのに……」
夜も更けた午前0時の大学構内。
既に他の学生は帰途につき、しんと静まり返った敷地内の一角で、一人の女学生がぼやきながら校舎を見上げていた。
遅くまで残って実験をやり終え、ようやく帰れると研究室に戻ってみれば、部屋はなぜか施錠されている。
友人とのクリスマス会に出ると言っていた博士課程の先輩に電話すると、
『ごめんねー。もうカギ閉めちゃった。明日の朝には戻るからねー』
と。
明るいBGMを背後に、そんな呑気な声が電話に答えた。
しかし明日の朝まで待てるはずもない。
部屋の中には、財布や免許証の入った大事なカバンが残されたままだ。
荷物がなければ、家にも帰れない。
どうにかして部屋の中に入る方法はないものか――――そう考えた矢先、頭に浮かんだのはある提案。
確か、窓際の席だった自分は、朝イチで窓を開けたはず。
それ以降に鍵を閉めた記憶がないから、もしかすると窓からはまだ室内に入れるかもしれない。
先輩が既に窓の施錠も済ませているとは考えなかった。
我ながら名案だ、と、深夜のテンションになりつつある頭はやけにポジティブだ。
中庭から見上げた研究室は二階の東端にあり、その外壁には、長く取り付けられたひさしが見えた。
ちょうどトイレの窓から外に出れば、ひさしを伝って部屋の窓まで余裕で辿り着くだろう。
そういうわけで、早速トイレへと向かい、自分でも驚くほどの身のこなしで窓から外へと降り立つ。
人生に無駄な学びはないと聞くが、まさか子供の頃に興じていた忍者ごっこがこんな場面で役に立つとは思わなかった。
そうしてそのままひさしを伝い歩き、目的の部屋の窓の傍に立つ。
――――ようやく来られた。
さあ窓を開けよう、と手をかけた瞬間、しかし、今度は背後からピンポイントで光が当たる。
ついで、はっきりと向けられた声は、懐中電灯の明かりと共に、
「おい! そこで何をしている! 降りてきなさい!!」
どうやら夜間警備の人が気づいたらしい。
(一応、白衣を着てるんだけどなあ)
実験を終わったばかりで白衣を身に着けているのだから、傍目には学生だと分かりそうなものなのだけれど。
冷静に考えてみれば、窓の外から研究室への侵入を試みた私が間違っていたのかもしれない。
……まあ、文句を言っても仕方ないし、この際、事情を話してカギを開けてもらおう。
……ひょっとして、最初からそうすれば良かったんじゃないか?
そんなことを考えながら振り返る。
すると――普段なら有り得ぬ失態だが――その瞬間に体勢を崩して、柚子はひさしから滑り落ちた。
2階、厳密にいうと1.5階ほどの高さから、中庭の生け垣に向かってそのまま落下する。
バリバリッと枝が折れる音がして、折れた枝葉が衣服の上から肌に刺さるような感触があった。
たしかこの辺りには、どこそこの○×教授が趣味で庭を造っていたなとか、夜が明けて事の次第が露見したら、こってり絞られるだろうとか、そういう怖い想像は今はしないでおく。
(生け垣が体を受け止めてくれたから、助かったな)
とにかく態勢を立て直そう、と立ち上がった瞬間、柚子は暗闇の中に何かを踏んずけた。
『……い』
「え??」
『……いたい……』
「うわあああ! ごめんなさい!!」
目の前には、生け垣と建物の間には、何かがいた。
淡い光を発するそれは、発した声もまた弱々しい。
「ええと、あの、大丈夫ですか??」
どこを踏んだのかは分からないながら、あわてて飛びのいた後、どうしたものかと困惑する。
暗がりで顔はよく見えないが、只事ではない様子。
「その、自分はこれから学生センターに行くので、あなたも一緒に行きませんか??」
淡い光を発する感じからして、奇抜な衣装を身に着け、クリスマスのテンションで酔い潰れた誰かだろうか。
このままにしておけないという思いから手をのばすと、暗闇の中で二つの目がこちらを見上げた。
同時に、雲に覆われていた月が姿を現し、ちょうど月光が中庭を照らす。
「!?」
そうして、光の下に現れたその顔は、人のものではなかった。
真っ白な顔に、つぶらな瞳が2つ。
髪の毛はなく、首から後ろは暗闇の中にあって、体の全体はよく分からない。
だが、男女の別こそ判断できないものの、特徴的な顔の輪郭から直観的に察するに、それは紛れもなくカエルのそれであろう。
――――いや、だが待て。早合点してはいけない。今日はクリスマスなのだ。
人でない相貌が実は特殊マスクだった……なんて可能性も捨てきれない。
少しくらい変わったことが起きても、おかしくはないだろう。
「手を、どうぞ」
冷静になって、手を差し出す。
すると、
『ああ……良かった』
手をのばした先で、人でない相貌のものが呟いた。
「え?」
『……おたのみ、します』
「あ、ああ、はい。いいですよ。一緒に行きましょう」
話が噛み合ってないのだと、ついに気づかぬままに。
『どうか、』
「ん??」
握った手はとても冷たく、わずかにぬめって鉄の匂いがした。
『おいらの、あるじを……どうか、看取っ、て……』
そう言った後、人でない相貌のものが、いずれの言語にも属さない言葉で何かを発するや、周りの空気がぐにゃりと歪む。
「え」
月明りに照らされていたはずの周りの景色が、急速に闇の色を濃くしていった。
足元から何かが崩れていくような奇妙な浮遊感に包まれ、不安定な態勢に眩暈いを覚えて目を閉じる。
――――暗転、後に強烈な光が瞼の裏に当たり、一瞬にして夜の気配が遠のく。
おそるおそる目を開ければ、辺りは明るい。
次の瞬間、夏目柚子は見たこともない林の中にいたのだった。