読書をしても頭は良くならないのか?
三砂 慶明 (2022). 「本を読んでも頭は良くならない」 書店員が30年かけて気付いた"読書の本当の価値" PRESIDENT Online (2022年2月10日閲覧 retrieved from https://president.jp/articles/-/54332?page=1)
あからさまで好ましくない釣りタイトルであるが,読書という行為に対する意味づけには興味があり,ページを開いて読んだ。「本を読んでも頭は良くならない」とあるが,何らかの知的な発達はあったと思われる。読みやすいが教養を感じる言葉遣いと知識の引き出し,そして話が論理的である。この人なりの謙遜なのかもしれない。いかに考えたことをざっと羅列する。
読書を通して経験したことのない世界に飛び込むことができるという感覚は,特に目新しい観点ではない。『ヒックとドラゴン』や『ナルニア国物語』といったファンタジー作品に触れた好奇心旺盛な子どもは,概して未知の世界に触れる楽しさを味わっていたのだろう。そうした児童書を卒業してからも,未知の世界への門は開かれている。個人的な好みのラインでは,現実世界に即しながら,少しズレのある世界観が巧妙に組み合わさった伊坂幸太郎の作品が,心地よい異世界だった。村上春樹は難しくてあまり読めないが,精神世界の不思議な感覚を味わえる作品であると思う。また,こうした観点から,昨今流行りの“なろう小説”は,理想的だが経験のできない体験を求めて消費されていると仮説を立てることができる。
この記事に登場する書店員は,そうした感覚を通して,自分自身が生きる世界への見方が変わるのだという。記事中のインタビューではさらりと流されているが,これは注目すべき能力である。異なる体験をして,それを素直に受け止め,柔軟に物事のとらえ方を変えることが,実は難しい。
思うに,読書を通して慣れない世界に触れることで,これまでの自分の知識やものの見方がいかに偏っているのかに直面することになる。これを自己破壊的で,耐えられないことだと認知的に判断するか,あるいはもっと原初的に瞬間的に恐怖を覚えれば,その行為から逃げ出すことになる。眠たくなったり,スマホを触ったり,字面だけを追ったりするのは,一つにはこうした側面によるだろう。この苦しさを乗り越えて本を読み,内容をかみ砕いて理解する行為は,筋肉を破壊して肥大させるのと同じように,脳を鍛える苦痛なトレーニングに例えることが可能だ。
さて,読書にトレーニングのような側面があるのなら,読書をしても「頭は良くならない」というのはおそらく誤った(あるいはこの記事の文脈では謙遜した)とらえ方である。“頭が良い“というのはさまざまに定義できる。心理学における知能研究では,バラバラな知能の構成概念が,上位概念でひとくくりにされるかどうかについて議論がある。その一般知能因子gと呼ばれる概念を仮に仮定したとして,その下位概念にはさまざまな要素が想定されている。読書はその下位概念の一つである「結晶性知能」「流動性知能」「言語理解」をフルに活用する行為なのである。脳トレはその一般的な効果に疑問を呈されているが,特定の領域を練習すれば,その特定の領域に限っては成果が現れるのである。つまり,知能の構成概念として想定されているいくつかの要因を稼働させる読書は,その機能を高めると考えられるだろう(もちろん,本人がそれを認知するかどうかは文字通りまた別の次元の議論である)。
読書にはいろんなメリットがあり,それをメリットとして語りたくないようなところさえある。多様なとらえ方があってよく,この書店員のように,自身の読書経験と本の内容を絡めて意味を見出すのは素敵な営みである。しかし,読書をしても頭が良くならないという結論はいささか視野が狭く,もったいないと感じた。
論理性に欠ける文章だった。