雨の日の
不意に雨の空気を吸いたくなった。
いつの間にか暗くなった部屋には、傘やレインコートから弾け出るのよりずっと優しい雨の音だけが響いている。大矢は、そっと手をヘッドライトのスイッチに寄せる。ぱちっという自己完結した素っ気ない音がを鳴らし、ぼわぁっと部屋全体が柔らかな夕焼け色に包まれる。試しに、外の明るさを見ようとカーテンを半分くらい開けてみると、予想よりずっとはっきりと人影が見える、夕方というより昼間の雰囲気を持った空だった。鼠色の雲がもくもくと迫ってくる恐怖感もその明るさでは、大した効果を発揮しなかった。
大矢はそのままウェディングドレスのような美しい半透明さを持った白いレースを手繰るようにカーテンのところまで寄せる。
その瞬間、震源が耳元の大地震のように轟が襲う。このまま脳震盪で、俺は死ぬのかと本気で思ってしまう。が、その恐怖はぴちゃりぴちゃりという木琴のように可愛らしい水の弾ける音のおかげですぐ溶けていく。この無数の雨たちは一体どこから来たのだろう。大矢には、幼稚園児の頃からずーっと届きそうで届かないあの雲から落ちてきているとは思えなかった。小学校の理科や中高で叩き込まれた地学の知識をもっても、この淀みは消えないのだ。大矢は大きく息を吸ってから、横開きの窓を開ける。網戸まで掴んで一気に開けようとするその手は既にびしょ濡れだ。手の甲からベールを纏っていく。早く体全体で。手だけではなくて、全てを赤い血流に載せて、心臓に届けてやりたい。大矢は、それはもう野生の狼のように、細胞から唸る。
言葉にできない興奮を人間としての大矢がありったけの理性を抱えて、本能を制御する。
窓を十センチくらい開けたところで、肺が湿った空気に満たされる。夜6時の住宅街からは、カレーやトマトスープや生姜焼きとか言う王道料理の匂いが詰まって、雨と混じってエキスになる。懐かしい匂いだ。実家に帰ったような感覚になり、そしてその後、こんなこと前もあったなとデジャブに気づき、ハッとする。ピカッと周りが青みがかった白色が何コンマレベルで現れ、消える。1.2.3と数えたところでゴロゴロっという音が聞こえる。大分近いみたいだ。そして、不意に大矢の腹が、ギュルギュルールルと鳴らした。まるで別の生物が威嚇するように、本能が夕御飯を求め始めたのだ。きっと、もう降参だと、理性が自然に負ける瞬間だ。
大矢は、キッチンに無作為に置かれたレーズンロールの袋を引きちぎり、片手で口に入れる。
サンダルを履いてくればよかった。
そう後悔したのは、レーズンロールが唾液で湿り、ゴクンとまるごと飲み込んだときだった。
マンホールに写る、歪んだ街頭のLEDが妙に人懐こく見えたのは生まれて初めての経験だった。