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Siren

・友人のサイト管理人さんが作ってくれた「自然に綴る28のお題」の「14.水の城」をもとに作成されています。お題は現在公開停止中です。


 面白いものを手に入れたんだ。

 ひさしぶりに再会した彼が、そう言って見せてくれたものは、信じられないくらいきれいなさかなでした。



---------



 部屋の中は電球ひとつ点いていないというのに、そのさかなの全身はぼんやりと銀色に光っていました。

 大きく長く、薄みどり色に透き通ったひれは、まるで上等の絹のドレスのようです。

 ほっそりした体の上にきっちりと並んだうろこは真珠の光沢を放ち、さかなが動くたびに何とも言えない繊細な色彩に輝きました。

 さかなの水槽――いままで見たことがないくらいに大きな――には、色とりどりのサンゴやイソギンチャクがいっしょに入っていましたが、そんなものはまったくわたしの目に映りませんでした。

 それほど、そのさかなは美しかったのです。



 きれいだろう。


 彼の言葉に、わたしははっと我に返りました。彼は、さかなの水槽に近づくと、ガラスの上に指を滑らせます。まるでいとおしむように。

 そして、それに答えるように、さかなも彼のほうへ寄ってくるのでした。たとえば犬には自分の主人がわかるように、ひな鳥には自分の親がわかるように、そのさかなも彼のことをわかっているのでしょうか。

 さかなが大きなひれをはためかせます。彼はその様子を、目を細めて眺めます。


 おれの財産じゃあ、こいつだけしか買ってやれなかった。なにしろ、べらぼうに高くてなあ。


 彼の言葉にうなずきながら、わたしはさもありなんと、あらためて水槽に目をやりました。話に聞いたことくらいはありましたが、実際にこれを目のまえに見るのは初めてだったので。



 そのさかなは、人間の胴体をもっていました。

 そのさかなは、人間の腕と手、指を、それぞれ人間と同じ数だけ持っていました。

 そのさかなは、人間の首筋と喉、そしてその上に、水にたなびく海藻と同じ色をした長い髪と、人間の少女――それも、とびきり美しい少女そっくりのかっこうをした頭を持っていました。

 ただ人間と違うのは、ゆるやかな輪郭をえがいた腰のさらに下、本当ならすらりとひきしまった脚があるべきところに、真珠色のうろこにおおわれた、大きな魚の尾びれをくっつけているところです。



 知っているか。こいつの声は、ひとを惑わすんだ。


 彼は水槽をなでながらつぶやきました。それはわたしに対してというよりも、虚空にむかって放ったひとり言のように聞こえました。

 さかなが口をあけます。ほんのり色のついた可愛らしい唇からは、しかし震える泡が二つ三つこぼれただけでした。

 不思議に思ってよくよく見ると、さかなののけぞらせた首に、どうしてついたのか、ひきつれたようなひどい傷あとがありました。あらわになったあごの裏から喉にかけて、白い肌にくっきりと刻まれた、赤黒く変色した傷あと。


 そう、歌えないんだ。こいつは。


 彼はうっすらと笑いながら、水槽をのぞきこむように額をおしつけました。上げたあごを戻して、さかなも彼の顔をじっと見ています。その瞳は、深いふかい海の色をしていました。


 もう歌えないが、それでもおれは、こいつに惑わされているんだろうなあ。こいつの身体が、こいつの顔が、髪が、唇が、瞳が、いとおしくて仕方がないんだ。声を失った海妖に、ひとを惑わす力を失ったセイレンに、なんでだか、おれは。


 彼の声はしだいに熱を帯び、不安定に高くなったり低くなったりします。それはまるで、苦しみもだえるうめき声のようにすら聞こえました。

 あるいは、ほんとうに苦しかったのかもしれません。濃く濃く、むせ返りそうに海のにおいが満ちたこの部屋では、おかに棲むものたちは息がしにくくなるのかもしれません。

 わたしはただただ呆然と、そんな彼を、そして巨大な水槽のなかを踊るように泳ぎまわるさかなの姿を、見つめていることしかできませんでした。

 さかなの肢体に――おそらく彼と同じような意味で――惹かれていたから、というのもある意味では正しいでしょう。しかしそれ以上に、わたしは彼の変貌に圧倒されていたのでした。



 それはたしかに珍重なものでしょう。そしてきわめて美しいものでしょう。そのことに対して異論を挟むつもりはわたしにはありません。それでも、わたしにはどうしてもわかりませんでした。

 彼がどうしてこのさかなに固執するのか。傷ついた海妖に、歌えないセイレンに、こんなに――偏執的なまでに。

 と、さかなと目があったような気がしました。わたしは思わず息をのんで、自分の喉が奇妙な音をたてるのを聞きました。



 そして、わたしは理解しました。理解できたと思いました。

 セイレンは、ひとを惑わす。それは、その歌によってだけするわけでは多分なくて。



 彼は、水槽のぶ厚いガラスに食いつかんばかりにして、その中に目を注いでいました。物理的に不可能なことではありましたが、もし彼の顔と水槽との間に滑りこむことができたなら、彼がさかなに向かってつぶやいていた睦言を、しっかりと聞くことができたでしょう。

 そう、それは睦言なのでした。彼と海色の目をしたさかなとは、もはやどうあっても分かちがたいほどに、結びついているのです。



---------



 わたしは、黙って彼の部屋を辞しました。いとまを請う声をかけたところで、返事は返ってこなかったでしょうから。彼との再会を祝そうと持ってきたとっておきのワインは、彼のもとに置いてきました。あのさかなに酒をたしなむことができるなら、彼らふたりで――「ふたり」と数えるのは奇妙かもしれませんが、そのときのわたしには、なぜだかその表現がいちばん自然だと思えました――ゆっくりと呑んだらいい。そんなことを考えながら、わたしはひとり家路を急ぎます。

 彼は、魅入られてしまったのでしょう。えもいわれぬ輝きを放つ、真珠色のうろこに。海藻そのままにゆらゆらと踊る、長い髪に。海のいちばん深いところと同じ色をした、ふたつの瞳に。傷ついた喉の奥でうたう、声のない唄に。

 いや、魅入られたというよりは、もっと肯定的な言い方のほうが適当かもしれません。彼の目には確かに、さかなのほかに何も映ってはいませんでしたが、その表情は不思議と、ひどく安らかなものでした。

 そして、その彼へ向けられたさかなの顔――ああ、わたしは永く、その顔を忘れることはないでしょう。目が合ったときにまともに見たさかなの、美しい少女そのままの顔は、ひどくおだやかに笑んでいました。

 自分を見物する人間に、自分を飼う人間に、自分に狂おしい睦言をつぶやく人間に、さかなはまるで、慈母のように笑んでいるのです。それは、輝く南国の海よりも、透徹した北国の海よりも、あまりに清らかな微笑でした。



 片方が人間であることも、片方がセイレンであることも、片方が歌えないことも、片方がゆっくりと狂っていくことも、そんなことは何ひとつ関係ないのでしょう。彼らが「愛し合うふたり」でいる限り、あの部屋はなんぴとたりとも侵すことのできない、彼らの神聖な居城なのです。

 彼らは、しあわせなのでしょう。この上なくしあわせなのでしょう。むせ返る水のにおいに包まれた王宮で、ふたりで末永く、しあわせに暮らしていくのです。



 おとぎ話の結末めいた彼らの未来に、わたしはほんの少しだけ、複雑な嫉妬を覚えました。

 そして、満ち潮のような物寂しさに全身を浸されながら、もう彼と一緒に酒を呑むことはできないのだな、と、そこだけやけにくっきりとした頭で、わたしはいつまでも考えるのでした。

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