対人戦終了
真っ白い、吹雪の中のような果てのない虚無にヤクモは立っていた。
床がある。天井がある。見渡せばぼんやりと壁らしきものもある。けれど、ここにはそれだけだった。
本来在るべきものが、全て抜け落ちていた。
「驚いたろ? 落ち着くまで待ってやっても良いぜ」
穏やかに、五メートル程離れて佇むディアスが告げる。
慈悲を感じさせる物言いは自身の勝利を疑わない故の余裕。その勧めを、ヤクモは一蹴した。
「いいえ。制限時間があるかもしれないし、すぐ始めましょう」
ほう、とディアスは瞑目する。
自身の実力を恐らく少年はナズナから聞き及んでいるだろう。にも拘らず時間を気にしたのは、長期戦に持ち込む策があるという事か。
「了解した。俺もそっちの方が都合が良いからな」
同時に剣を召喚し、ヤクモは低く、ディアスは上段に身構える。
ナズナとの戦闘時は『無辜の咎人』を使用する為に敢えて身を曝したディアスだったが、ヤクモに対しては自ら動いた方が早いと踏み距離を詰めていく。
「なあお前。相手がナズナだから首を突っ込んだのか、それともそういう趣味があるのか」
ちょっとした気紛れだった。倒すだけならすぐ終わると確信出来たからこそ、ディアスはヤクモへ戦う理由を尋ねた。
「……自分でも分かりません。ただ、俺はあの時、ナズナがかわいそうだと思いました。ああいう奴は放っておけないんです」
「ふーん」
何故なのか。それは未だに分からない。ただ、守らなければならないとヤクモは思う。
誰かを護る為に、何かを守る為に生きる。そんな理想が、この世界でなら叶えられると思うから。
そして、沈黙が落ちた世界に二人の呼吸だけが残った。
射程内。男は必勝を信じて疑わず、少年は必敗の予感を拒み、どちらからともなく剣を振り上げる。
「はぁッ――!」
「ふん……!」
初手は共に『スラッシュ』だった。赤い粒子を煌めかせながら互いの剣が激突する。
「ぐっ……!?」
レベル差は二つ。初期装備である為底上げもなく、基礎ステータスで劣るヤクモは剣ごと後方へ吹き飛ばされる。
「軽いなあ!」
下卑た笑みを浮かべたディアスの追撃が迫る。
スラッシュではない振り回すだけの駄剣ではあったが、ヤクモが剣を盾に出来たのは奇跡と言えるだろう。
少年にとって男の剣は神速に等しく、視認など不可能。今更ながらヤクモはナズナの言葉を噛みしめた。
"レベルが一つ違うだけで圧倒的な差があるんだ――"。
そう、それは覆しようもない厳然たる事実。
ヤクモは負ける。このまま正攻法を続ければ早晩不可視の剣によって腕なり足なりを裂き貫かれ、慙愧の中で崩れ落ちるのは自明の理だった。
「よっと!」
「あ、ぐ――!」
ディアスの繰り出す視えない剣がヤクモの左腕を貫く。
流血はない。叫び声は痛みよりも驚きによるものだ。
だというのに、視界は急激に赤く染まり、ヤクモを焦燥へ追い立てる。
"――使ってしまえ。"
「……まだだ!」
脳裏に響いた誘惑を踏み潰し、ヤクモはポーションを消費する。
初期装備分が五つ、それに残金全てで買えた分が六つ、更にリマが染色剤を売って得たギアを借りて購入した分が四つ。計十五回の回復手段を携えてヤクモはこの戦いに臨んでいる。
これがヤクモの辿り着いた答え。
揃え得る最大数の回復手段を持って格上に当たり、長期戦に持ち込み辛抱強く勝ちを狙う。それが、ヤクモの描くシナリオだった。
視界が正常に戻り、安堵する間もなくヤクモは剣を振るう。残りは十四――!
「止まって見えるぜ!」
躱される。否、カウンターで返される。
「ぎっ……!」
迸りかけた悲鳴を噛み殺し、ヤクモは真紅に染まった視界を放り捨てて、目を閉じながらポーションを発動する。
十三回。まだそれだけの余裕があるというのに全く安心など出来ず、一撃受ける度にポーションを使わざるを得ない状況にヤクモは身震いした。
「いちいち回復してんのかよ。ポーションが勿体ねえだろうが!」
「つッ――!?」
残り十二。
視えない。反撃する余裕などない。
剣を振るわれる度に危険域へ突入する脆弱な身体をヤクモは憎む。
「スラッシュ!」
「ぐあっ!」
ポーションを使うタイミングを読まれたのか、まともに喰らいヤクモは後方へ吹き飛ばされ強かに後頭部を打つ。
しかし床に密着した耳朶が荒々しい足音を捉え、覚醒したヤクモは息つく間もなくポーションを使う。
"――それじゃない。負けたくないならアレを使え。"
粘り付く誘いに顔を顰めながら、ヤクモは寸での所でディアスの追撃を回避する。
「しつけえんだよ!」
耳元で響く、鼓膜を突き破ると錯覚する程の剣戟。辛うじて何合ぶりかに受け止めたディアスの剣を、ヤクモは肩を震わせながら眺めた。
"――使えよ。条件は整っている。じゃなきゃ負けるぞ。"
「……うる、さい……!」
気合と共に一閃したスラッシュは無情にもディアスの剣に阻まれる。ヤクモは果たして、ただの五秒のCTを終えるまで自分が立っていられるのかと、冗談ではなく本気で思った。
「うるさいだあ? そりゃそうだろうよ。こんだけぶっ飛ばされて切られての繰り返しだ、いつ頭がイカれてもおかしくない。だからまあ、俺もそろそろ飽きてきたし降参しろって。な?」
それは心底からの言葉だった。
貫いても斬り裂いても立ち上がるヤクモにディアスは辟易しており、作業と化した戦いにうんざりしていたのだから。
「うるさいのは、貴方じゃない。俺の声だ……」
「はあ?」
世迷言。そう思い、ディアスはヤクモがついに壊れたのかと剣を止める。
散々貫いたというのに出血はなく、麻布の道着は無垢なまま。けれど確実に痛みと恐怖が少年を追い詰めている。ことこの期に及んで切り札を隠し持っているとは思えない。
「まあいい。それならお前のポーションがなくなるまで斬るだけだ」
「ぐ……!」
その後は、ヤクモにとって正に拷問と言うべき時間だった。
腕を切られ、足を貫かれ、胴を薙がれる無間地獄。
痛みは少なくとも分厚い刃が己の身体へ食い込む様はヤクモの口内から水分を奪い、立たなければと戒める心を折るべく責め立てる。
"――使え。"
ポーションが残り十を切る。
"――使えば勝てるぞ。"
八。
「いい加減に寝てろ!」
"――お前は負けたいのか?"
五。
"――何の為にここに来た? ポーションを浪費して戦った気になって、頑張ったけど勝てなかったと誤魔化し笑いを浮かべる為か?"
三。
「おいおい、もうやり返す気力もねえのかよ! ああ!?」
一。
限界点。そして、最後の命をヤクモは使い切る。
「あ、ぐ……」
俯せに倒れたまま、願っても視界が戻らない事でヤクモはポーションの打ち止めを悟る。
そしてこれまでとは違って立ち上がらずにもがく少年を見て、ディアスも息を付いた。
「はいはい、お疲れさん。それじゃあ終わりだ」
剣が振り上げられ、ヤクモの背中に照準を合わせて止まる。
終わる。間もなく、抗いようもなく幕が下ろされるのだ。
間際、最後に"声"が呟いたのはいつだっただろうかとヤクモは思う。
アレは必死に何を訴えていたんだっけ――。
"――使えよ。何故金兎の感謝を使わない? 装備さえすればお前はあんな奴に負けはしないのに。"
そして再び、ヤクモの中で声が響く。生まれてからずっと聞いてきたはずの、紛れもない彼自身の声。
……チートは駄目だ。
そう、辛うじて、ヤクモは答えた。
"――何故、何が駄目だ。得た物を用いて何が悪い。"
そこでヤクモは答えに詰まる。
確かにそうだろう。アレは自分が得た物で、用意されていた以上使っても許されるものだ。
そもそも自分は決めていたはずではなかったか。死ぬくらいなら救援を送ると。無理を言って両親から見送られたのだから、必ず賞金を得て帰ると誓ったのではなかったか。
"――平穏を失う事が怖いのか? ディアスを倒した後、奴に異常な力を持っていると言い振らされる事を恐れるのか?"
いいや、それは怖くないと、ヤクモは返す。
やましい事など何もない。不正を疑われたとしても胸を張れる自信がある。
"――じゃあ、どうして?"
そこで、少年は答えに辿り着く。
ヤクモにはあの指輪が『孤独』の象徴に見えたのだ。アレを持つ事が知られれば、仲間から「お前は一人で大丈夫だろう」と捨てられる――その未来を、恐れていた。
二つとない図抜けた力。現時点でソロに限れば金兎の感謝を装備した自分よりレベルの高いプレイヤーはまずいない。
二つ違うだけでここまで差が生まれる程レベルが与える戦闘への影響力は大きい。だからこそ、ならばこそ。他のプレイヤーは知れば自分を崇め讃え、甘い汁を吸う為に近づき、用が済めば離れるだろう。
……そんな恐怖と引き換えに、自分は理想を捨てようとしていたのか。
現実では不可能だから、せめて仮想世界でナイトになろうと誓った。それを伝える為に戦うだけでは駄目、勝たなければ守れないと知っている自分が、"勝て"とひたすら叫んでいたのだ。
「……ああ、そうか。俺は――」
途端、振り下ろされる刃。風を切る音を少年は耳に聞く。
けれど、とっくにヤクモは分かっていた。煩悶を続ける中でも満身創痍の身体は生き延びようと足掻き、スマホを出現させていた。
――そして、ヤクモはアクセサリを交換する――。
「終わりだ!」
ディアスが裂帛の気合と共に剣を振り下ろす。しかしそれは何もない空間へ激突した。
消えた――? 訝しむディアスはふと視線を感じ、背後を見る。
そこに、ヤクモは立っていた。
「――もう、迷わない」
刹那、僅かな躊躇いもなくヤクモは剣を振り下ろす。
スラッシュではない、ただ片手で薙いだだけの一閃はそれでもディアスを立ったまま昏倒させ、命拾いの鎧が男の意識を無理矢理引き戻す。
「……えっ? ちょ、待――」
初撃を受けてHPをかき消され、鎧の力で舞い戻ったディアスは訳も分からず顔を上げる。その左前方へ、ヤクモは高々と剣を上げ――。
「はあッ――!」
――迷いも戸惑いも、全てを断ち切るように。赤い粒子を切っ先に従えながら、全力で剣を振り下ろした。