6話
令嬢と青年、二人以外は誰もいない世界で彼女は笑う。彼女にとって、優しくて甘い夢の中で。けれど、これは夢だ。夢は、いつか覚めるもの。
今が、その時だ。
「また来たの」
令嬢はこちらを睨み付けてはいるが、昨夜のような形相ではない。また、追い出せば良いと考えているのだろう。けれど、今夜はそうはいかない。
「帰って!」
令嬢が叫ぶが、風が巻き起こり紅陽と朱蓮の髪を揺らしただけだった。紅陽は目を閉じることすらしない。
「何でよ…」
昨日とは違う状況に令嬢は瞠目する。今まで自分の思い通りになっていた世界が、言うことを聞かない。彼女は初めての事態に、歯がみした。
「無駄だ。昨日よりも強く結んだ。私たちをここから追い出すことは、もう出来ない」
紅陽の言葉に、令嬢は怒りで頬を染める。
「帰って…」
令嬢はそんなこと信じないとでもいうように呟く。
「帰って」
先ほどよりも強い風が巻き起こるが、やはり紅陽と朱蓮の髪を揺らすだけだ。
「帰って、帰って、帰って!帰りなさいよ!」
暴風が二人の衣服と髪をたなびかせる。紅の髪を踊らせる紅陽に、状況も忘れみとれた。しかしそれは一瞬のことで、そんなときではないと朱蓮は前をむき直す。大声で叫び疲れたのだろう。令嬢は肩で息をしていた。なぜだか、とても哀れを誘う。
「もう分かっただろう。無駄だ」
紅陽が冷徹に声をかけるが、令嬢は折れない。ただ、こちらを睨み付けるだけだった。
「これから、ずっと、恋人を模した人形とごっこ遊びをするつもりか」
令嬢は顔を歪ませた。ああそうかと、朱蓮は気がつく。
彼女が一番、分かっているのだ。ここは現実ではなく、隣にいるのはあの青年ではないと。
「ええ、そうよ」
それでもここに、いたいのだ。
「現実のあの人は、私の結婚が決まるとすぐに、別れを切り出したわ。一緒に逃げることすら、考えてくれなかった」
顔を俯かせ、拳を握りしめ、体を震わせて。彼女は全身で怒りと悲しみを表した。
「本当は一緒にいたいだとか、愛してるとか…そんな言葉さえかけてくれなかった」
令嬢がゆっくりと顔を上げる。その瞳は強く、けれど悲しく揺れていた。
「だから私はここにいる!本物じゃなくても、私を愛してくれる、私だけを選んでくれるあの人がいるここに!」
彼女の言葉はもう、のどを切り裂くほどの絶叫となっていた。ありきたりでも、胸を傷つけるほどの想いがそこにはあった。
「でも、もう一度会いたいんだろう?」
静かな言葉に彼女は凍り付いた。その言葉は、彼女の心を砕き、奥底にしまい込んでいたもう一つの願いを引きずり出す。
「本当は、あいつが何を考えてそうしたかだなんて、分かっているんだろう?」
紅陽はゆっくりと、令嬢との距離を詰める。
「だから、憎めても、嫌いには成れなかった」
夢の世界でも一緒にいたいと願うほど、まだ、好きなのだ。
彼女は顔を歪ませ、涙がこぼれるのを耐えている。
「もう一度、現実のあいつに、会いたいんだろう?」
令嬢の唇が震える。朱蓮には聞こえないが、彼女は何かをか細く呟いたようだった。
空に、亀裂が入った。ばらばらと青色のかけらが降ってくる。
建物にはひびが入り、見る間に瓦礫と化す。
世界が、崩壊していった。
夢が、覚めた。