5話
日が暮れ店を閉じたあと、朱蓮は店主の部屋に呼ばれた。紅陽はいつものようにお気に入りの椅子に座っている。しかし、今日の紅陽はなにやら紙切れに書かれた文字を読んでいた。朱蓮は、静かに紅陽が読み終わるのを待った。
「どうやら令嬢は意に沿わない結婚が嫌で逃げたらしい」
読み終わった紙切れを放り投げ、紅陽は煙管を取り出し火をつけた。
「彼女は没落寸前の下級貴族の娘で、両親は没落を回避するため大商人の息子と結婚させることを決めていた」
彼女のことも、彼女の眠る原因も知らない朱蓮に教えるために、部屋に呼んでくれたらしかった。
「使いの男は、あの娘の秘密の恋人という奴だったようだ。夢の世界の元となった街で、仲睦まじく歩いているところをそれなりの数の人間が目撃している。…彼女は顔も何も知らない男に嫁ぐのが嫌で、夢に逃げたらしい」
そこまで話し、紅陽は煙草を吸い、煙を吐いた。
「…それだけ、ですか」
何とも陳腐で、ありきたりな理由だ。
「ああ、それだけだ」
朱蓮はくだらないと感じるが、紅陽はどうなのだろう。人生経験も特殊能力もない朱蓮には、紅陽がどう感じているか読み取れなかった。それよりも、そんなことで。
「結婚相手の顔も知らないのに、逃げたんですか」
相手がどんな人物か知りもしないで、逃げたのか。悪い方に転ぶかもしれないが、良い方に転ぶ可能性だって高かったはずだ。結婚後どうなるかも分からないのに、勝手に悲観して。たとえ結婚相手と相性が悪かったとしても、改善することだって出来るかもしれないのに。
ふつふつと怒りがこみ上げてくる。先が見えないのに勝手に悲観して嘆く人間が、朱蓮は嫌いだ。
「まあ、お前には理解できない心境だろう」
ほんの少し突き放した言い方に、朱蓮は怯えた。普段なら、朱蓮が怯えればすぐに優しく微笑んでくれる紅陽は、静かに言い聞かせ始める。
「朱蓮。お前は先が見えなくとも道を進める、その意味では強い人間だ。だが、皆が強いわけではない。先が見えないことにお前は希望を見いだすかもしれないが、絶望を感じる人間も存在する」
怖いが、朱蓮は目を逸らすどころか身じろぎすることも出来なかった。
「誰かに対して何も感じるなとは言わない。自分の価値観を持っている以上、お前の怒りは正当なものだ」
本当は、ただ諭されているだけなのだろう。だが、朱蓮には叱られているように感じられた。
「けれど、自分と他人は違うのだと、知りなさい」
唇をふるわせながら、朱蓮は俯いた。
「はい……でも、夢に逃げるなんて」
辛そうに返事をした朱蓮の言葉に、紅陽は首をわずかにかしげた。
「お前は彼女が逃げた原因よりも、夢に逃げたことの方が腑に落ちないようだ」
また叱られるのではないかと不安そうにしながら、朱蓮は答える。
「だって、夢です」
「夢だからだ。甘くて優しい、思い通りになる世界だ」
紫煙をはき出しながら、紅陽は朱蓮の言い分を受け入れた。
「でも、夢は覚めます」
「目覚めなければ良い」
今、令嬢がそうしているように。
最も身近な例を出され、朱蓮は言葉に詰まってしまう。
「でも…夢です。現実じゃありません」
ただ、現実ではないと返すことしか出来なかった。縮こまってしまった朱蓮に、紅陽は目を細める。
「やはり、お前は強いね。どんなに辛くても厳しくても、現実を選ぶことが出来る」
勢いよく顔を上げた朱蓮に優しく微笑む。その笑顔を見て、畏縮していた子供は小さく息を吐いた。
「さて、そろそろ彼女を起こしに行こうか」
そう言って立ち上がり、紅陽はゆるりと笑った。