4話
自分で調合した煙草を楽しむ紅陽は少し気分が良さそうだ。おそらく、こちらの店にやってきたのが、昼間に来た青年ではなく令嬢の父親だったからだろう。あの青年に会いたくないと感じていたのは朱蓮だけではなかったようだ。
茶を運んだときに観察したが、あの父親はそれなりに気概のある人間に見えた。あれなら、対価を支払うことを渋るということもないだろう。対価を踏み倒そうとした人間の末路を思い出し、朱蓮は少し身震いした。
「さて、往くか」
朱蓮は父親の望みを叶えるために出かける紅陽を見送ろうとした。しかし、手を捕まれる。
「あの女の見ている夢は危険なものではない。だから、お前も連れて行くことにした」
朱蓮は他人の夢に入ったことがない。これも勉強の一貫なのだろうと思ったが、令嬢の目を覚ますのに何故夢に入るのだろうか。
「彼女は、眠っているのではない。夢に逃げているだけだ」
人の心情を見透かすことに長けている紅陽は、口に出す前に朱蓮の疑問に答えた。普段なら尋ねてから答えてくれるのだが、どうやら紅陽は早く終わらせたいらしい。
分かりましたとうなずき、紅陽に近づいた。朱蓮が触れるほど近くに来たのを確認し、紅陽は何もない空間に手をかざした。すると、部屋を埋め尽くすほどの糸が現れた。色も明度も濃淡も様々な糸だ。その中で、くすんだ白い糸を手に取ると、自分と朱蓮の影からでている糸に結びつけた。すると、選ばれなかった糸が、湯に入れた水飴のように融けて消えた。結ばれた糸だけが風のない部屋の中で漂っている。
紅陽は糸がきちんと結ばれているか、数回引いて確かめる。自分の主は自信に満ちあふれていても慢心はしないと感嘆しながら、朱蓮は安全確認が終わるのを待った。
「さぁ、往こうか」
「はい」
二人は糸の繋がった方向に踏み出した。
◇◇◇
一歩踏み出すと、そこは街であった。
「え」
「これは面白い」
見覚えのある町並みだ。細かな建物の装飾や店の並びまでは覚えていないため、断言はできないが隣の区の商店街だと思う。人がいれば、現実ではと錯覚してしまいそうなほどの夢だ。
上を見上げれば、青空が広がり太陽が照っている。夢、というものはこんなにも現実に近いものだったろうか。少なくとも、朱蓮が見る夢は非現実的、非日常的なものばかりである。
「見事なものだ」
感心しながら、近くにある店の装飾を軽く叩いたり撫でたりしていた紅陽が、思わずといったように呟いた。
「たかが小娘の夢と思っていたが…ここまで精巧精緻、現実通りに作り上げるとは」
紅陽は煙管をくわえ直す。今までは皆無だったやる気が出てきたようだ。
ここが夢とは思えないほど細かく作られているということは感じていたが、現実通りに作るのは紅陽が感嘆するほどのことらしい。夢に入るのはこれが初めての朱蓮には、ぴんとこないが。
「難しいことなんですか?」
目に見えて上機嫌になった紅陽に尋ねる。可笑しくて堪らないというように唇をつり上げた顔を紅陽はこちらに向けた。
「朱蓮、特定の景色を何も見ないで、細部まで完璧に書き写すことは可能か?」
試しに自分の働く店の内部を思い浮かべてみる。どこに何があるのかは覚えているが、家具や柱の装飾が浮かばない。小物の形すらもおぼろげだ。思え浮かべることすらできないのに、書き写すなんてそんなこと――
「無理です」
一瞬、もしかしたら出来るという答えを求めていたのではと不安になったが、それで良いというように頷かれたため胸をなで下ろす。
「時折それが出来る人間も居るが、ほとんどの人間にそんなことは出来ない。夢でも同じだ」
なるほど、令嬢の行ったことのすごさが多少理解できた。はぁ、と間抜けな声を出しながら、あたりを見渡す。明るい中、人がおらず生活感のない街というのは、何とも不気味だ。そっくりではあるが、現実を感じさせないのはそのせいだろう。
「ああ、いたぞ。あの女が彼の令嬢だ」
先ほどから視線をさまよわせていた紅陽が声をかけてきた。紅陽の視線を追いかけると、こちらに背を向けて寄り添う男女の姿があった。
女性のほうは落ち着いた色の襦捃を着ている。その衣服は彼女が纏う物にしては、簡素すぎると感じられた。
穴が開くほど見つめているとくるりと、彼女が振り返りこちらを指さした。朱蓮と紅陽を指したわけではない。令嬢の指線は朱蓮と紅陽を通り越し、別のどこかを示している。
彼女が振り返ったおかげで顔を見ることが出来た。紅陽や自分の知人には劣るが、梨の花の精もかくやという美貌だ。彼女をぶしつけに観察し、ああ、女性とは表現できないなと感じた。朱蓮よりいくつか年かさの、女性と少女の中間に位置する時期だろう。花の咲き始めのような艶がある。
彼女が振り返ったせいか、隣にいた男性もぎこちなくこちらに体を向けた。その容貌が明らかになる。
「あの人…」
それは、昼間店に来た使いの青年だった。何故令嬢の夢にいるのか、驚いた朱蓮はまじまじと青年を見つめる。だがその不自然な動きに眉をひそめた。芝居小屋で見たからくり人形のような、ぎこちない動き。まるで、
「機械みたいだ」
「そうだな」
朱蓮の独り言に紅陽は同意した。
二人が違和感を感じても、令嬢は機械のような青年に何も感じないらしい。いや、感じていたとしてもそれで構わないのかもしれない。令嬢はうっとりと頬を染め、青年を見つめている。青年は令嬢の頭を撫でようと、腕を持ち上げる。その動きも、歯車の音が聞こえてきそうな程、人形めいている。
機械じみた青年とそれを愛おしげに見つめる令嬢に気味が悪くなり、朱蓮は紅陽の衣の袖をつまんだ。
「動かない物は完璧に再現できても、動く生物は無理だったんだろうな。だから、ここには人が存在せず、あの男の動きも人らしくない」
得体の知れない存在に怯える朱蓮を安心させるように、柔らかな声音で紅陽は言った。その優しさにほっとしたが、これでは紅陽の『仕事』が出来ないと気がついた。袖から手を離し、一歩離れる。その朱蓮の行動に、紅陽は何故か少し誇らしそうに微笑んだ。
令嬢と紅陽の距離はそう遠くない。一つ歩を進めるだけで、話をするのには十分だ。紅陽は一歩踏み出す。自然と朱蓮は後ろに控える形になった。
「こんばんは…いや、こちらではこんにちは、だろうか」
静かに、だがしっかりした声をかけたことで、令嬢はようやく紅陽と朱蓮の存在を認識したようだ。驚愕の眼差しでこちらを見つめ、こちらの目的に気がついたのか、鬼のような形相になった。美女は怒っても美しいらしいが、この令嬢には当てはまらないようだった。怒りが前面に押し出されており、美貌が台無しだ。
「私は戻らないわ」
やはり、彼女は紅陽が自分を現実に連れ戻すために来たことを理解していた。「自分が戻らなければどうなるかくらい、知っているだろう」
鬼女と化したかのような令嬢を見ても、紅陽は何とも思わないらしい。軽くではないが重くもなく、彼女を諭し始める。
現実に戻らなければ令嬢は死ぬ、ということしか朱蓮には分からないが、それ以外にも何か起こるらしい。令嬢が少し怯んだ。彼女は唇をかみしめ、俯いてしまった。
紅陽は令嬢をまっすぐ見つめながら、煙草を吹かしている。そんな泰然とした様子がかんに障ったのか、令嬢は射殺すようにこちらを睨みつけた。
「私は、絶対に、戻らないわ!!」
令嬢が叫ぶと、ものすごい勢いで夢の世界は去って行った。いや、自分が追い出されているのだと理解したときにはもう、景色は見慣れた店のものへと変わっていた。
「繋がりを切られるとはな」
同じく夢から追い出された紅陽が、やや驚いたように呟く。朱蓮は驚くどころではなかった。この、最高の神仙たる紅陽の術が切られることなど、ありえない。
「強く結べば深い縁が出来てしまうからな。そんなに堅く結んではいない」
呆然とした朱蓮に紅陽は苦笑した。
その程度の強さだったのだと納得したが、それでも紅陽の術を切ったのはすごいことだ。思っていた以上にやっかいな依頼だったらしい。
「困ったな…」
自分よりも高いところにある紅陽の顔を見上げる。仕事で彼が困った、などというのは初めてだ。
「無理矢理目覚めさせると、対価が重くなる」
あごに手を当て紅陽は悩み始めた。
少しばかりそうしていたが、すぐには思いつかなかったらしい。もう遅いからと、朱蓮は自室に下げられた。