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縁露堂怪奇譚  作者: 小林龍巳
はかないもの
3/8

2話





 湯気の立つ茶を挟み、紅陽と青年は向かい合って座った。朱蓮は社会勉強を理由に、この場にいることを許されたため紅陽の隣に控えている。朱蓮が立ったままなのは、自分の店での地位は一番下で客と対するのは紅陽のみであると、朱蓮自身が考えているからである。

 紅陽と対峙するかのような状況になってしまったせいか、青年は完全に畏縮してしまっていた。無理もない、と朱蓮は青年に同情した。

 今の紅陽には覇気があるわけでも、威厳があるわけでもない。それでも、底が見えない、とらえどころのない存在だ。洞窟に落ちる光のような、流れて輝く水のような神秘的な美貌はもちろんのこと、一介の店主には不釣り合いな優雅な所作は他を圧倒する。そのせいで青年は先ほどとは打って変わり、物音一つたてていない。

 本題を切り出さない青年に我慢できなくなったのか、紅陽は茶杯を指で弾いた。

「どんな薬が欲しい」

 苛立ちを隠さない声に、ようやく自分の役目を思い出した青年はおびえながら、それでも真っ直ぐに紅陽と目を合わせた。

「眠っている人間の目を覚ます薬はありますでしょうか」

 紅陽と朱蓮は眉をひそめた。眠っている人間を起こしたいのであれば、体を揺するなり声をかけるなりすればよい。それでも目覚めないのなら、冷水を顔にでもかけてやればよいのだ。さすがにそれで目覚めないということはないだろう。もっと言うのならば、自分で目覚めるまで待てば良い。存分に寝ればいずれ目も覚める。

 頭を働かせるという意味の『目を覚ます薬』もあるが、これは資格を持った者以外への販売は禁止されている。ならば、こちらではないだろう。

「どんな、誰、に使う」

 さすがに、この聞き方では通じないと分かっているのだろう。紅陽の問いに、青年はさもありなんという顔をした。それでも詳しく説明しないのは、彼の主人に言いつけられているからだろうか。

 けれど、それでは薬は売れない。朱蓮は青年が説明することを望んだ。紅陽は己の矜恃にかけて、使用する人間に合わない薬は、絶対に売らない。だから、使用する人間の患者の容態が分からないときは、絶対に売らない。このままでは、青年は薬を持たずに帰ることになるだろう。

 そのことを漠然と感じ取ったのだろう、青年は話すか話さないか迷い始めた。

「使う人間の状態を言えないのであれば、売らん」

 本人に明言されたことで踏ん切りがついたのか、青年は口を開いた。――顔に苦渋をにじませて、ではあったが。

「…当家のお嬢様が、もう一月も眠り続けています。名前を呼んでも、体を揺すっても、顔をはたいても目覚めてくださいません」

 ここまでは理解したかと言いたそうな視線を向けてくる青年に、椅子の肘掛けに身をもたせかけ紅陽は続きを促した。

「思い切って水をかけてもみましたが、無理でした。食事をとることもできないので、お可哀想なほど痩せてしまわれました。今は何とか汁物を飲ませています」

 汁物を飲ませているとはいえ一月食べていないのであれば、痩せたのではなくやせ細ったの間違いではないだろうか。朱蓮はそう考えたが、口は挟まない。「眠り続けるのは、これが初めてか」

 先ほどのように苛立ちを含まない、真剣な声音で紅陽は尋ねた。自然と青年の肯定する声も、真剣なものとなった。

 紅陽はわずかに顔を上に向け、青年から視線を外した。おそらく、これまでに見てきた症状と照らし合わせているのだろう。

「それで、薬はありますでしょうか」

 ほんの少しの間黙り込んだあと、青年は急いたように聞いた。焦って礼儀を忘れたことには触れず、紅陽は青年に視線を戻した。

「眠り続ける理由に、心当たりはあるか?」

 彼に向けられる射貫くような眼差しよりも、その問いの内容に青年は動きを止めた。それでも何とか持ち直し、顔を歪ませてうなずく。

 その様子から令嬢が眠り続ける理由にあたりをつけたのか、紅陽はやってられないと言わんばかりにため息をついた。

「眠っている人間の目を覚ます薬はない。肉体的な理由ならまだしも、精神的な理由で眠り続けている人間の目を覚ます薬は存在しない」

 もとからそんな薬はないと分かっていたのかもしれない。青年はただうつむいただけだった。


 結局、食事をとれない令嬢のために栄養剤だけを買って、青年は帰っていった。


 ◇◇◇


「ずいぶんと冷たい対応を、していましたね。先生にしては、珍しい」

 青年の帰ったあと、紅陽に言われ椅子に腰掛けた朱蓮が意外そうに紅陽に問いかけた。入れ直した茶をすすり、首をかしげる。

 たとえどんなに焦っていようと、喧しかろうと、早急に助けを求めている必死な客に紅陽は寛大だ。あんな風に睨みつけるのは珍しかった。あの青年の隠そうとしてはいるが隠しきれていない、こちらを見下す態度がかんに障ったのだろうか。

「私は挨拶のできる人間が好きなんだ、朱蓮」

 紅陽は、知っているだろうと言いながら、新しく出された菓子に手を伸ばす。

 朱蓮はその言葉にさらに首をかしげた。あの青年は店に入ったときに改めて挨拶をしていたし、薬を渡したときはしっかりと礼を言っていた。挨拶はしていたように思う。

 朱蓮の様子に、青年を思い浮かべて嫌そうに顔をしかめながら、紅陽は言った。

「あいつは罪悪感を抱いているくせに、お前に謝らなかったから」

きょとんとして目を瞬かせた朱蓮に、紅陽は優しく笑った。

「そういえば、その、令嬢は大丈夫なのでしょうか」

 その笑みに気恥ずかしくなり、話題を変えようと眠り続けているという令嬢の話をした。ただ、言ったあとすぐに後悔したが。

「さあ」

 紅陽は、その美貌に嘲笑を浮かべた。その冷たい笑みの先にいるのは、青年か令嬢か、それとも別の誰かなのか。朱蓮には分からない。この店主は、青年から一体何を読み取ったのだろう。

「まぁ、その問題とこの店は強い縁で結ばれたから、私たちは何らかの形で関わることになるだろう」

 紅陽が嫌気がさすほどの、何か。どういった理由から嫌気がさしたのかは分からないが、関わりたくない。

 またあの青年に会うことになるのだろうかと、朱蓮はうんざりしながらもう一度茶をすすった。





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