【2/3】
お寺から牛車がやってきました。
烏帽子に紺色の水干というおそろいの出で立ちで牛車に乗り込む三人の侍たち。水干は、もともと庶民や子どもの服装でしたが、平安時代も後期に入ると、その動きやすさから武士たちに好んで着られるようになりました。鎌倉時代の初めには正装にも使われるようになります。
牛車には下簾が下がっていました。女車によくあるように、簾から、着物の裾や袖がのぞいていません。初めて牛車に乗る三人は、緊張でそこまで気が回らなかったのかもしれません。しかし、それがかえって奥ゆかしい女車を演出していました。
「じゃあ、車を出してくれ」
「へ~い」
最後に乗り込んだ侍の言葉に返事をする牛飼いの少年。やがて牛車がゆっくりと動きだしました。
一応ここまでは男たちの段取り通りです。
しかし、先ほども触れたように、三人とも牛車に乗るのは初めてでした。しかも、当時の牛車には、例えば台車に板バネのサスペンションも、車軸にベアリングも、車輪に鉄輪もついていません。さらに、道は石やアスファルトで舗装されてもいません。
現代人の感覚からすると、乗り心地は最悪だったことでしょう。
さて、物語では、牛車に乗った三人の様子を『物が入った容器にふたをして振ったように――』と描いています。
当時の牛車の乗り方には、コツのようなものがあったのかもしれません。激しく揺れる車の中で、三人の体は大きく振り回されていました。
「いたっ!」
頭を立て板にぶつけたり、
「ぐわっ」
互いの頬が当たったり、
「うわっ」
仰け様に倒れたり、
「これはたまらん」
激しい振動に耐えられず、うつぶせの体勢になっても前後左右に転がってしまうのでした。
牛を引く牛飼いが、人が乗る部分である『屋形』の方へ、ちらりと目をやりました。しかし、『車を止めろ』というような指示が聞こえてこないので、そのまま牛を進めさせました。
やがて屋形から声が聞こえてこなくなりました。三人とも酔ってしまったようです。牛飼いの耳には、屋形がガタゴトと揺れる音と、車輪がギイギイときしむ音、サワサワとした街の音や人の声しか入ってきません。
一方、屋形の中には、四つんばいになりながら、顔を青くして虚空を見つめている侍がいました。烏帽子が落ち、髻があらわになっています。
床に落ちた烏帽子が、激しい振動で小刻みに動いていました。
「おい、お主……」
と、一人が声をかけた次の瞬間、その侍は、四つんばいのままやにわに動くと、屋形の簾から顔を突き出しました。
ゴボッ……と、侍の喉がなるのと同時に、液体を口から踏み板に勢いよくぶちまけました。踏み板とは、乗り降りに使うために、屋形の前後に渡した板のことです。
その様子を見ていたもう一人の侍から、悲痛な声が上がります。
「俺は降りる!」
「待て! ここで降りたら、男だとばれてしまうぞ!」
そうこうしている間にも、独特の酸っぱい臭いが屋形の中にも漏れ漂ってきました。
「も、もう、ダメだ……」
残り二人も、次から次へと屋形から顔を突き出し、それぞれ前後の踏み板にあれをぶちまけました。いわゆる『もらいゲロ』です。
踏み板に当たった吐瀉物が牛の尻にも付く勢いで飛び散りました。牛飼いは迷惑そうな表情を浮かべています。
一人の烏帽子は大きくずれ、残り二人の烏帽子は床に転がっていました。そろいの紺の水干は、よれよれになって、激しく乱れています。
ガタゴトと揺れる牛車。
ギイギイときしむ車輪。
通り過ぎていく京の街並み。
「あ、あまり……急ぐな……」
屋形から弱々しい声が聞こえてきます。
車を引いているのは足の速い牛でした。物語では、極めて優れた牛だったと伝えています。
三人の乗った牛車は、広い通りを同じ方向に進んでいく他の牛車をゆっくりと追い抜いていきます。
「そ……そんなに急ぐな! ゆっくりでよいと言っておろう!」
ガタガタ、ギイギイ――牛車が立てる雑音に負けないよう、振り絞った声が屋形から聞こえてきます。
同じ方向に進む他の牛車に、歩きで供をしている者たちの耳にも、その声が入ってきました。女性が乗っているはずの牛車から、やや上ずった野太い声が聞こえてくるのです。
(この女車には、どんな女性が乗っているんだろう……。東国のカラスが鳴き合っているようなひどい声色だが……)
「あの車、どんな方がお乗りなのですかねえ? 男の声にも聞こえますが……」
「声からすると、どこか東国の娘さんじゃろう? われらのあるじと同じく、祭りの行列を見に行くのであろうて……。とはいえ、男まさりの声じゃなあ……」
他の牛車の供の者たちが、怪訝そうな表情で声を潜めて話しています。
やがて、牛車は目的地に到着しました。見物場所には、先着の牛車が、すでにちらほら並んでいて、葵祭の行列の到着を待っていました。
牛飼いは、車を牛から外すと、車の前に長く延びる二本の棒『轅』を、置台『榻』の上に、静かに置きました。
車に乗っている者たちは、車の中から行列を見物することになっています。
しかし、三人の男たちが乗る車からは、か細い声が聞こえてきました。
「あ、頭がぐらぐらする……」
「き、気分が……」
「す、全てが逆様に見えるようじゃ……」
長い間牛車に揺られ、すっかり酔ってしまったのです。
「お侍さん、大丈夫ですかい?」
様子を案じた牛飼いが車の外から声をかけました。
「われらのことは案ずるな。捨て置け……」
弱々しくも野太い声が返ってきました。牛飼いは、牛を連れて一時その場を離れることにしました。別の場所で行列を見物するのかもしれません。
物語の描写を現代の言葉に直せば、『尻を上につき出したような格好で――』侍たちはそのまま寝入ってしまいました。
ピューピュルルルー……。どこか遠くから、トビの声が聞こえてきます。
(つづく)




