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イブが目覚めたのは、数時間後だった。
男の前で泣き続けたイブは、そのまま疲れて眠ってしまっていた。
「おはようイブ。よく眠れたみたいだね」
イブの身体には、男の着ていたジャケットがかけられていた。寝ぼけてむくりと起き上がったイブの身体から、ジャケットが滑り落ちる。
「イブ、目が腫れてすごい顔になってるよ」
男がくすくすと笑いながら言う。それを聞いたイブは真っ赤になって顔を隠す。
「ごめんって。謝るよ。そんなに腫れてないよ」
イブは指の隙間から、恨めしそうに男を睨む。そんな顔すらかわいい、と男は微笑ましく思う。
そのとき男の持つ端末が、ピーという機械音をたてた。赤外線の網を抜けると察知し警告するトラップだ。部屋に緊張がはしる。男はイブを壁にやり、自身の身体で覆い隠す。そして銃をドアに向け、現れるであろう敵を待つ。
「エバ、探しました」
現れたのは、ひとりの少年だった。小柄なその少年は、白い髪に、真っ赤な目をしていた。
「侵入者さん初めまして。僕の名前はノア。武器を下ろしてください。非戦闘員の技術者です」
「それならきみも、その身体のトラッププログラムを解いてくれないか。きみの身体に触れた部分が、細切れになる。そうだね?」
ノアは屈託無く笑う。
「失礼しました。ですが、あなたが変な気を起こさなければ、これは無意味なものですよ。保身のために、一応付けさせておいてください」
男はゆっくりと武器をおろす。しかしノアから視線は外さない。
「エバ、アダムから通信です。今繋げますね」
そう言うとノアは手に持っていた端末をイブの方に向けてみせた。それまで黒一色だった画面に、アダムと呼ばれた黒い髪の男の顔がうつる。
「エバ、戻ってこい」
イブが震える。
怯えているのだろう、イブの身体が固まるのが、男の背中越しに伝わる。
「侵入者に告ぐ。今すぐエバを解放しろ。そうすればここから出してやる」
高圧的。その言葉しか似合わない口調だった。しかし男はそれにも屈しない。
「塔の主要人物かな?それなら話が早い。僕達の要求を聞いてくれないか」
男は続けようとするが、次のアダムの言葉を聞いて絶句した。
「侵入者。彼女は女性だ」
「な…」
男の顔が戸惑いに歪む。イブは男の背中を掴み、動揺を露わにする。
「女性…?女性は氷河期以前に滅んだはずじゃあ…」
「お前たちの認識ではそうだろう。幾つかの細胞を残し滅び去ったと。しかしエバは生きている」
「彼女は、生きた被験体なんだ」
イブの身体が崩れ落ちた。泣いているのだろうか。さっき泣き止んだばかりなのに、と、男は空虚に思った。
「僕も、エバの卵子から産まれた人間です。カインとアベルもそうですよ」
ノアが続ける。
「彼女は人類の希望だ。お前たちには勿体無い。返してもらおう」
動揺した男とイブを嗤うようにアダムが告げる。ふたりは硬直し、動けずにいた。
「判断はお前たちに任せる。これが最後の温情だ。もしエバを返さずにこのまま逃げるなら、お前の命はない。よく考えるといい」
そう言うと画面が消えた。ノアは端末をおろすと微笑んだ。
「帰りましょうエバ。アダムもああ見えて心配しているんです」
混乱のなか、男は、自分の服が引っ張られるのを感じた。振り向くと、イブが男の背中を掴んでいた。そして、音をたてない唇が動く。
た・す・け・て
「こっちに来てくださいエバ。案内します」
「いいや、イブは渡さない」
男はノアに向きかえり言い放った。イブとノアが男の方を見る。
「行こうイブ。言っただろう?僕がきみを守ってみせる。きみが望むなら、いっしょにここから逃げよう」
一瞬、狼狽を瞳に映すが、イブは意志を持った瞳で頷く。
「きみたちが追ってこようと構わない。失敗したらもとから死ぬ予定だった身だ。イブは渡さない。帰って伝えるといい」
男は部屋に響くように言う。それを聞いたノアは微笑みを絶やさず、しかし残念そうに言う。
「わかりました。でも、そんなに死に急がなくてもいいと思いますよ。ではこれで」
ノアは背中を向けて歩き出した。ドアが閉まり、部屋はふたりだけになる。
「…そういうことだったのか」
男はしゃがみ、イブの顔を覗き込む。イブは視線を逸らし、なにかに耐える。
「大丈夫。僕がきみを守るから」
イブが男に向き直る。
「きみが何者だろうと構わないよ。ただ、きみはここを逃げ出したくて、僕に助けを求めた。それだけだ。さあ行こう」
イブは涙を拭うと頷く。男は微笑んで、イブの髪を撫でる。
ふたりは歩き出す。塔の外の自由に向かって。