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ほおずきの宿 あやかし見聞録  作者: 綿津見
猫と鈴音
9/31

三 (2)


「はああ……」


 極楽、と言葉が漏れそうになる。


 湯は温くも熱くもなく適温で、温泉成分を含んだ乳白色が肌を滑るのが心地良かった。これが体に良いのだろう。祖母が語っていた効能を思い出す。妖怪に必要な妖気が溶け込んでいる、とも言っていただろうか。葱生にはそれは感じられないが、人間であれ何であれ、入っていれば心身ともに健康になれそうだとは思う。お湯を散々嫌がっていたのとも、これなら寧ろ好きになるのではないか。


 葱生は手足を思いっきり伸ばし、温泉は偉大だ、と思わず呟く。

 何だか全てがどうでも良く、細かいことなど気にならないような気さえしてくる。実際は「どうでも良く」はないのだが、ただ過ごしているだけで心身にかかる負荷を、温泉は溶かしてくれるような思いがする。葱生は口元まで湯に浸かって目を閉じた。あまり長い時間は滞在しないようにしようと考えていたのが、いつの間にかそう気にせずとも良いような気分になってきていた。


 ぶくぶくぶく、と後方で音がした。


 葱生が驚きに目を開いて首を回すと、少し離れた水面に気泡が沸き立ってきていた。その大きさも音もどんどん大きくなってきて、


「ぶはっ」


 水面から顔を出した顔と、目が合った。


「ん? 見ねぇ顔だな。新入りか」


 独り言のようにも聞こえる低い声。そこには純粋な疑問が滲んでいた。

 彼は葱生が入ってくる前から露天風呂にいたのだろうか。少なくとも、葱生が浸かり始めたあとに、誰かが入ってくるのは感じなかった。


 呆気に取られながら、それでも口を開く。


「……ええと、浅川葱生です。祖母がここの旅館の女将で。それで来ました」


 今日は自己紹介してばかりだ、と思いながら名乗る。


「女将の? へえぇ」


 文字通り湯をかき分けるようにして、彼は近づいてきた。

 今まで、よく分からない存在ばかり見てきたが、今回ばかりは葱生にも分かった。


 河童である。


 緑色の皮膚に、指の隙間には水かき。鳥の嘴のように堅く突き出された口。頭には白い皿が見える。人間が「河童」と聞いて想像するままの姿だ。


 まじまじと見つめる葱生に対し、


「んな警戒しなくとも。野郎に興味はないから安心しなって」


 河童はからっとした調子で言う。葱生がどう反応していいのか分からずいると、片眉を上げて続けた。


「ん、あんちゃん、河童に会うの初めてかい?」

「……え? あ、はい」

「まぁそうだよなあ、そう簡単に河童見つけられてたらマスコミ殺到するわな」


 河童は目を細め、自分の発言に面白そうに笑う。からからとひとしきり笑って、また話し出す。マイペースだが話好きのようだ。


「知ってるか? 河童を捕まえると、人間から賞金貰えるらしくてな。俺ぁ賞金首というわけさ」

「賞金?」

「おうよ。だからこの宿が困ったときには一度捕まってやろうと思ってんのよ」


 突如現れた河童は、身振り手振りを交えながら河童という種族と、現在の環境について語ってくれた。葱生は相槌を打っているうちにいつの間にか、近所に住む、気の良い男と喋っているような感覚でいた。それに気がつき、相手が妖怪なのだということに改めて不思議な気分に陥る。


 湯に潜って何をしていたのかと尋ねると、簡潔な答えが返ってきた。「寝ていた」らしい。


「この温泉な、妖気が満ちてるから気分が良いんだ」

「ああ、それ聞きました」

「人間に食事が必要なように、俺らも妖気やら何やらがなければ消えちまうからなぁ。その点、この温泉は極楽だよ」

「食事は必要ないんですか?」

「うん? ……あぁ、まぁ何の妖怪かにもよるが基本的に、人間の食べるようなものは食べなくてもやっていけるな。娯楽で食うやつもいるが」

「なるほど……」


 のとのことを思い出しながら頷く。あの贅沢な黒猫も、いずれは猫缶なしで生きていくのだろうか。いや、のとは食事が必要なくなったとしても、娯楽のために要求してきそうな気がする。


「妖怪の皆さんは、この温泉が目当てで旅館に来てるんですか?」

「そうだなあ」


 葱生の問いに、河童は大きく頷いた。


「俺みたいに好きで温泉ばっか入ってる奴もいれば、宿の中をうろちょろしてる奴もいる。きちんと宿代払って泊まりに来る奴もな」


 先ほど葱生が囲まれた妖怪たちは、姿かたちが様々だった。同様に、過ごし方もそれぞれ違うのだろう。


 あの中に白く小さい、大福を一回り大きくしたようなものがいたが、はたして温泉には入れるのだろうか。入ろうとした瞬間沈んでいきそうだ。あるいは風呂場に持ちこむあひるのおもちゃのように浮けるのか。想像を巡らす。


「あとは、元々いたとこに住めなくなって、とりあえず療養にやって来る奴とかな」

「療養、ですか」


 まるで湯治のようだ。「ほおずきの宿」は最初の印象で高級旅館かとも思っていたが、寧ろ湯治場に近いと、考えを改めた方が良いのだろうか。


「俺ぁ話に聞くだけだが、年々、闇が軽くなってきてるらしいからなぁ。江戸なんか特にそうだ」

「闇?」

「軽いっつうか、薄いっつうか……まぁあればあるだけ良いっていうもんでもないが」


 独りごちるように言った河童は、自分を見つめる葱生の顔を一瞥して、


「あんちゃん、のぼせたか? もう上がった方いいな」


 そう指摘した。葱生の顔はだいぶ赤く火照って見えたらしい。そういえば随分長い間入っていたなと気づき、勧め通りに湯から出た。ぺらぺらと喋る河童といれば、形を成していない疑問も自然と解決するかと思ったが、いつまでも湯に浸かっていては本当に倒れてしまうかもしれない。葱生は河童と別れ脱衣所へと向かった。あるいは知恵熱かもしれない、などと考えながら。


 白地の浴衣に紺色の羽織を着用し、葱生は脱衣所を出た。浴衣を着るなど久々のことだ。帯を結ぶのに少し手間取った。右手を差し入れることができるから、合わせは間違っていないはずだ。


 暖簾をくぐると、先ほどまでいた和室に祖母が座っていた。着物の後ろ姿が見える。


 あんなにいた妖怪たちは、どこかに散らばっていたらしくちらほらとしか見受けられなかった。祖母と板倉の叱りを受けたせいだろうか。


 裸足を涼やかな廊下につけると、足音もしないのに祖母が振り返った。


「長かったね」

「……つい」


 少し気恥ずかしくなって返すと、祖母がおかしそうに笑う。


「気に入ってくれたなら何よりだよ」

「気に入りました」


 祖母がさらに笑みを重ねるので、つられて葱生の口角も上がる。


 葱生は和室に入り、祖母の向かい側に座った。温泉で温まった体はまだまだ冷える気配がない。少し暑いくらいだ。


 テーブルの上には白い徳利とお猪口が置いてあった。葱生が何の気なしにそれらを見ていると、徳利がぱちりと、目を開いた。くるりと丸い両目が陶器の表面に現れていた。葱生は目を逸らすことができず、思わずじっと見つめる。徳利の両目は瞬きを繰り返す。向こうもまた葱生を観察しているようだった。やがて徳利は跳ねながらお猪口に近づいていく。陶器の硬い音がして、徳利は自ら傾いてお猪口に液体を注いだ。それからちらりと葱生を見て、目を閉じる。それと共に、両目はすっと消えて見えなくなった。


 テーブルに残されたのは、沈黙する徳利と、透明な液体の注がれたお猪口である。


 飲め、あるいは飲んでも良いということなのだろう。


「…………」


 しばし沈黙が下りる。


「……えっと、俺まだ未成年で、申し訳ないけど飲めない……」


 徳利が自ら注いでくれるという非常に稀有な出来事を前にして、しかしそれを飲むことができない。謝る葱生だったが、徳利は置物のごとく動かない。いや、普通、徳利は動かないので、そう言う方が特異なのだが。


 幼い頃に教えられた「物にも心が宿る」ということを目の前で見せ付けられてしまっては、むざむざ捨てることもできない。いっそ割り切って呷ってみようかとも考えたものの、父が酒にとてつもなく弱いことを思い返して躊躇われた。そこでふと、祖母に提案してみてはどうかという考えに至る。徳利が酒を勧めてくれたのは自分で、それを飲まないのは勧めを蹴るような形にはなってしまうが、誰も飲まずにお猪口を放置するよりは良いだろう。


 葱生は顔色を窺うように祖母を見る。と、目が合った瞬間、耐え切れないとばかりに祖母が吹き出した。


「──はは、葱生、……それね、酒じゃなくてただの水なんだ。飲んでも大丈夫」

「……水?」

「その徳利は酒が入ると酔っ払うんだよ」


 徳利とお猪口という組み合わせから、透明な液体はつい酒だと思いこんでしまったが、水だったらしい。徳利がちらりと祖母を見た。何か訴えるような目線を送る。祖母は依然としておかしそうにしていた。

 葱生は気恥ずかしく思いながらお猪口を手に取る。


「ありがとう。いただきます」


 徳利に礼を告げて水を飲む。口をつけてみれば間違うことなき水だった。量は本当に少なく、徳利の中身を全て呷りたいほどだったが、冷たさが湯上りの体には心地良かった。


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