三 (1)
妖怪という語はそもそも、人の理解を超えた不思議な現象を指す。人間はよく分からないもの、不可解なものを恐れる。それは死や闇に似ている。手にとって感じられないもの、解体してまじまじと見つめることのできないもの。その恐怖を少しでも解消するために、人はそれらに名前をつける。妖怪、妖、怪異。一緒くたにまとめた名称はその実、「その他」と書くのと何ら変わらない。変わらなくはあるのだが、それで人は少し、胸に滞留するもやを取り払うことができたような気分になれるのだろう。
葱生が襖の向こう側を目にしながらも黙ったままでいたのは、そういうわけで、その名に適った反応であったと言える。
座卓と座布団が置かれた和室は広かったが、そこそこの密度があり賑わっていた。「彼ら」の中には葱生の視線を感じて座布団で体を隠した者もいれば、逆に興味しんしんに見つめ返してきた者もいた。姿かたちのさまざまな彼らを見て、葱生は第一印象として、よく分からない、見たことがないものだ、と思った。
彼らは葱生が実生活に、テレビに、本や人の話に見た生物のどれにも当てはまらなかった。名前の分からない、初めて見る存在──やはりそれは「妖怪」と呼ぶのがしっくり来る。
妖怪。猫又化したのとに引き続き、こんなにも沢山の妖怪に出会えるとは。
そう思うと何かがすとんと腑に落ちた。
のとを見た祖母に驚きの様子がなかったのは、この旅館にそもそも妖怪がいたからなのだ。
「……坊ちゃん……?」
葱生を見て固まっていたうちの一人が、おそるおそる声をあげた。老人のように見えたが、それにしてはあまりにも背が低く、頭が平べったい。
葱生は返事をしようとして口を開けて、その視線の高低差に思わず膝をつく。
「……はい」
「儂らを見て驚いてないんで……?」
その声には依然として、遠慮や怯えのようなものが含まれているように感じられた。
葱生は部屋を見渡す。黒い、白い、丸い、小さいなどと形容詞で断片的にしか表現できないような「何か」がそこかしこにいる。座卓の上の急須には手足があり、くりっとした目がついている。物かと思えば手足がついているものは他にもあった。ほかに、人間かは定かではないが、人間に見える者も数人いた。和服を着た小さな男の子が二人寄り添って座っている。落ち着いた金髪の女性に、吊るした紙で顔を隠した男性。
驚いていないと言ったら嘘になる。
「いえ。いえ、びっくりしてます……」
今一度、老人とその後ろを見る。彼らは皆一様に息を潜めているようだった。妙な沈黙が下りる。
この沈黙は、旅館に来たときからずっと感じていたものと同じだ。彼らは葱生に見つからないよう静かに潜んで、ただ様子だけは伺っていたのだろう。かくれんぼのような空気を生み出していたのはこれだったのだ。
「驚いたけど、……お会いできて嬉しいです」
たどたどしく言う。我ながら下手な和訳のような言葉だと思った。
それでも目の前の老人は両目を見開いて、それから顔を皺でくしゃくしゃにして部屋を振り返った。
「聞いたか皆の者! 坊ちゃんは儂らに会えて嬉しいと……!」
わっと場が盛り上がった。小さなものたちがぴょこぴょこと跳ねている。嬉しさを体現したかのようなざわめきである。唇の端から思わず笑みが零れたところで、ふと見ると老人にぎゅっと両手を掴まれていた。
「坊ちゃんに聞きとうことが沢山あるのですよ。ささ、早く早く」
部屋の中へ引き入れられ、座卓の前に座らされる。そして、
「お嬢──奏枝様のことはどこまでお聞きで?」
「どうして今いらっしゃったんです?」
「すまあとほん!」
「さっき一緒にいた猫又は?」
「宴じゃ宴じゃ」
わあわあと騒ぐ小さいものたちに囲まれ、葱生は質問攻めにされた。
目にも耳にも新しい情報が飛び込んできて、何に視線を向け何に答えたら良いのか分からなくなる。妖怪たちの存在を認めた時点で許容量はキャパシティオーバーを起こしていた。驚きが目を見開く、一瞬固まるといった動作にしか現れないためにあまり動じない人物に見られがちだが、それは感情が外に出にくいというそれだけの話だった。あるいは、一度受け入れてしまえばなるようになるだろうという諦めの発動が早いと言えるかもしれない。
「はい、ストップ」
声とともに柏手が打たれた。
ぴたり。部屋の入口に立っていた祖母と板倉に視線が集中する。あれだけ興奮していた妖怪たちが一斉に静かになった。
祖母が葱生に向かって一直線に歩いてくる。室内には妖怪たちが点在的に散らばっていたが、自然と祖母の進む道が作られた。祖母は変わらない歩調でやって来て、葱生の肩に両手を置いた。そのまま立たせる。
「お前たち、興奮しすぎだよ。順序というものがあるだろう」
祖母はたしなめるようにそう言って、
「葱生はちょっと避難しといで。何なら入っておいで」
内心混乱したままの葱生を廊下に出し、躊躇うことなく男湯の扉を引き、そこに葱生を放り込んだ。流れるような行動だった。
閉められた脱衣所の扉の向こうから、板倉のなだめる声が聞こえてくる。
「はいはい、落ち着いてー。葱生くんが全部視えて、期待以上だったとしてもちょっと焦りすぎ。葱生くんは逃げないからさ、話す時間はまだまだ沢山あるでしょ。……は? スマートフォン? ああ、どうせ俺はまだガラケーですよ。最新機器じゃなくて悪かったですね!」
板倉の声ははっきり聞き取れる。それに対して騒ぐ、興奮した声の集合も聞こえたが、別に怒っているわけではないようだ。板倉の口ぶりから察するに、ただ好き勝手に主張しているだけに違いない。
葱生は放り込まれた脱衣所を見渡した。
奥に作りつけの棚があり、そこにいくつかの脱衣籠が積んである。隣には浴衣とバスタオルも並んでおり、祖母の言っていた通りだった。洗面台と長椅子もあり、葱生の知る宿泊施設と何ら変わらない。
妖怪がいるからといって、旅館が恐ろしい場所というわけではないのである。祖母や板倉は彼らと普通に接していた。ましてや陰鬱とした空気が漂っているわけでも、旅館が寂れた古い場所である訳でもない。妖怪は沢山いるようだが、人間の客をきちんと迎えている。
あの小さいものたちを始めとして、和室にいた妖怪たちはきっと盛り上がることそれ自体が好きなのだろう。喧騒はしばらく収まりそうにない。
ちらりと外に目をやってそう判断した。
脱衣所の奥に入って、棚を確認する。浴衣はきっちり畳まれていて、帯や羽織にも不足はないようだった。衣籠は全て空である。つまり今、男風呂は貸切状態だということだ。
せっかくだから今、少し入っていこうという考えが首をもたげた。祖母も入ってきて良いと言っていたし、問題があるようなら板倉が呼びに来てくれるだろう。
温泉に入って一息つきたい。
決意してからの葱生の行動は早かった。服を脱いで籠へと放り込み、手ぬぐいだけを持つ。大浴場への扉を引くと、溢れ帰る熱気が肌を撫でた。
大浴場は長方形の空間で、浴槽と洗い場が三つほどあった。案の定無人だ。葱生はタイル張りの床をひたひたと歩き、お湯をさっと全身にかけた後、奥の扉へと向かう。露天への入口である。
重い扉を押すと、さらにもう一つ扉があり、二重構造になっていた。全身の体重をかけるようにして二つ目の扉を開く。
途端に今までのむせ返るような空気が嘘だったかのように開放感に包まれる。緩やかな風が吹き抜けていくが寒くはない。
目の前には露天風呂が広がっていた。中の浴槽以上に、想像以上に大きかった。ゆうに泳げる広さだ。湯は乳白色をしており、それをごつごつとした黒い岩がぐるりと取り囲んでいる。立ち上る煙の向こうには木々が、その遥か向こうに山が見える。
つま先をそっと出して湯に触れてみる。温度が熱すぎて跳ねるということはなさそうだ。
底の深さを確かめつつゆっくりと中に入って、肩まで湯に沈める。葱生は長々と息を吐いた。