ニ (3)
一階に下りてくると、廊下を進んでいくうちに前方がどんどん明るくなってきた。視界が急に開ける。
縁側があった。雨戸は取り外されていて、外が直に見える。縁側はかぎ括弧の形に伸びていて、旅館の中まで開放感と明かりをもたらしていた。地面へ下りた向こうには庭が広がっており、大きな池を石や草木が取り囲んでいるのが見えた。月の綺麗な晩など、池に月が映りこんで大層綺麗だろう。木造の高い塀に沿って木が植えられており、その付近にはぽつりぽつりと灯篭が見える。
祖母はそのまま真っ直ぐ廊下を進んだ。葱生は庭を眺めつつ、少し遅れながらついて行く。
廊下を突き当たるところで、祖母は左側の障子を引いた。
「『ほおずきの間』だよ」
「……広い」
中は随分と広い間だった。見渡す限り一面畳敷きである。何畳あるのか、ぱっと見では数えられない。家具の類はなく、ごろごろとどこまでも寝転がっていけそうな具合だ。
「この旅館で一番広いんだ。食事の間だけれど、大勢で宴会したりするときにも使うね」
祖母は誇らしげに言う。
「ただ、今日の夕食は私の部屋で摂ろうか」
「はい」
こんな広い間で宴会を催してみたいと思うものの、祖母と二人ではあまりにも淋しい。異論はないので素直に頷く。
来た廊下を戻った。途中で祖母は、先ほどは通り過ぎたところで立ち止まった。右側の部屋には戸がなく、代わりに深緑色の暖簾が下げられている。聞くまでもなく、調理場だと分かった。お湯の湧く音や食材を切る音が聞こえてくる。
祖母はひょいと暖簾を上げて、
「ちょっと失礼」
と上半身を調理場へと入れた。その隙間から葱生も中を覗き込むことができる。
中は広く、業務用の大きな冷蔵庫なども見てとれた。銀色に光る調理台の面積も大きい。十分な余裕をもって食材が並べられているのが分かる。葱生の暮らすアパートの台所はお世辞にも広いとは言えないので、普段、道具や材料の置き場を工夫しつつ料理している葱生は羨望を覚えた。手すきのときにでも中をじっくり見て回らせてもらいたいくらいだ。
「女将!」
祖母の声に反応したのは、板前服を着た男だった。背が高い。筋肉質というわけでもひょろ長いというわけでもなく、威圧的な印象は浮けなかった。帽子から明るめの茶髪が覗いている以外は、丈の長い前掛けを含め全身真っ白だ。年は三十代前半から半ばと言ったところだろうか。彼は人の良さそうな笑顔で祖母に挨拶する。そこでその後ろの葱生に気づき、興味津々な様子で尋ねた。
「あれ、その後ろの方は……?」
「孫の葱生だよ」
紹介されて、葱生も「こんにちは」と頭を下げた。
「ああ、噂の! 初めまして! ここの料理人の板倉です」
前掛けで手を拭いて、笑顔で手を出す板倉。年の離れた従兄弟か、近所のお兄さんという雰囲気だった。握手など久しくしていなかったが、葱生もつられるようにして手を出す。
そのとき調理場奥の扉が開かれ、板倉と同じ格好の男がもう一人現れた。ただしこちらの方がはるかに高齢だ。
「あ、親父!」
板倉は手招きして、荷物を置いた男を呼ぶ。
「噂は聞いてただろ。こちら、女将のお孫さんの……えっと」
「葱生です」
「葱生くん! だって」
板倉の父は葱生をじっと見つめ、無言で軽く礼をした。会話に参加することなく、そのまま作業に戻ってしまう。
「ごめんねー、うちの親父、口下手っつうか無口でね」
「いえ」
寡黙だが怖い人ではなさそうだ。いかにも職人、というイメージを受けた。しかし目の前の息子の方を見るに、何とも対照的な親子だと思う。
よろしくお願いします、と葱生も頭を下げた。下げながら、先ほどから板倉の言う「噂」とは何だろうかと気になっていた。祖母や仲居の昼顔たちと話でもしていたのだろうか。しかし祖母と板倉が仕事のことで話している今、何となくこの場で本人に聞ける雰囲気ではなかった。機会があれば後で確認してみようと心に留める。
祖母が二言三言連絡を伝えて、調理場を後にした。
相変わらず廊下には調理音と、葱生たちの立てる音しか存在しないように感じられた。しかしやはり、その空気には何かが潜んでいるような、隠れているような感じがあった。かくれんぼで口元を両手で覆いながらも、息が漏れてしまっているのと似ている。不気味さは覚えないが奇妙だった。項の辺りがくすぐったい。
「あの」
「何だい?」
「料理人はあの二人だけ、ですか?」
「そうだねえ。あの板倉親子に任せているよ。昔からいた、親父さんの方が元々『倉さん』と呼ばれていたから、息子の方は『板ちゃん』なんて呼ばれてる……」
葱生が求める答えを得られないうちに、角を折れたところで祖母が前方を指差した。
「見た通りだけど、そこが大浴場だよ」
指指す先に、青い暖簾と赤い暖簾が掛かっていた。調理場の入り口にあったそれよりもだいぶ大きく鮮やかで目立つ。青い暖簾、赤い暖簾にそれぞれ男、女と白抜きの文字が揺れている。
「大浴場と言うか、洗い場と露天という感じだね。タオルや浴衣は脱衣所にあるから好きなときに入っておいで」
葱生は大きく頷く。
先ほど散々効能を聞いた温泉だ。気になるし、せっかく来たからには入らないという選択肢はないというものだろう。今頃、のとも何かしらの方法で入っているはずである。
と考えたところで、のとの叫ぶような鳴き声が聞こえた気がした。葱生は思わず祖母を見る。祖母と目が合った。祖母と孫は同じタイミングで目を瞬かせる。
「まあ……昼顔は危険なことはしないだろう」
祖母の言葉に葱生は安心する。のとも単純にお湯が苦手なだけのようなので、いずれ克服できるだろう。
「これくらい教えておけば問題ない」
旅館の案内を終えて、祖母が二階へと戻ることを促したとき、ぱたぱたと足音がして調理服姿の男が姿を見せた。板倉家の息子の方だ。
「あ、女将。さっきちょっと確認し忘れたことが」
板倉は葱生に右手を立ててから、祖母と話し始めた。葱生は気にしないと言う風に首を振って、大浴場の暖簾を見つめる。
温泉などいつぶりだろう。葱生の想像以上に「ほおずきの宿」が旅館らしく、親戚の家に泊まると言うよりはすっかり旅館に泊まる気分である。父も来られれば良かったのに、と思う。元々行きたがっていたし、温泉にも入れると伝えればさぞ羨ましがることだろう。
そこで、泊まっていくことになったと父に伝えていなかったことを思い出す。もしかしたら泊りがけになるかもしれないと思い荷物に着替えは入れて来たが、家を出た時点ではそれは確定事項ではなかった。高校生の息子と言えど連絡もなく、その日のうちに帰宅しなければ心配されるに違いない。その辺りは、父と子二人、目に見える反抗期もなく暮らしてきた結果だった。
葱生はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点灯させる。メールも着信も来ていない。もしかしてここは電波が悪いのではないかと画面左上にさっと目線を走らせたが、その心配はないようだった。回線は何の問題もなく快速であることが示されている。葱生は指先をついと動かして、父へのメールを打ち始めた。
「今日は、泊まっていくことに、なりました……」
じっとメール画面を見つめて本文を考えていると、
「……あれが噂の……?」
「そう。すまあとほんじゃ」
「ちょっと押さないでよ。見えないじゃない」
「しっ静かに。声が大きい」
ざわざわと。一つ一つの声は囁き程度に小さいのだが、たしかに声が聞こえる。
「しかしそっくり」
「そうなの?」
「そうかお前が来た頃には家にいなかったか」
「ねえねえ見せてよ」
「だからうるさいってば」
様々な声がする。幼児のように若い声から、老人の深く低い声まで。
葱生はスマートフォンの画面を注視し続け、指先を動かしながら、「かくれんぼ」ではなくて「だるまさんが転んだ」だった、と舌の上で言葉を転がした。
あの視線は、誰かが隠れているような感じは、全部、彼らだ。
「板ちゃんのけいたいはもう古いからの……あ」
「『あ』?」
葱生はスマートフォンから唐突に視線を上げた。
そして囁き声のする方に顔を向けて、襖が少し開かれているところに、声の主が連なっているのを見た。彼らは皆「あ」の形に口を開けて固まっていた。
「……え」
葱生もまた、固まる。見開いた両目いっぱいに飛び込んでくる情報を脳が処理しきれない。
「ああああっ」
「彼ら」は驚いたせいか、少しだけ開いた襖に集まっていたのが雪崩れるようにして倒れた。ばたばたと大きな音が鳴る。
「何なの?」
座布団を積んだように倒れた彼らをいぶかしみながら、奥の部屋の誰かが襖を勢いよく開け放つ。
祖母と板倉がその音に気づき、こちらを振り向いた。二人も同様に驚いた顔をしている。ただそこには、面白がるような好奇の色も含まれていた。さすがに葱生にそこまでの余裕はない。
目を瞬かせる。しかし目に映る景色は変わらない。そもそも、のとという猫又に出会った時点で、これは予想できる事態だったのだ。その自覚はあっても、それでも驚かずにはいられなかった。
「ああ、見つかった! というか、視られたわね」
開かれた襖の奥、広々とした和室には、沢山の妖怪たちがいた。