ニ (1)
葱生は女性に続いて門をくぐった。
中は広かった。一面に白い小石が敷き詰められ、そこに飛び石のようにぽつりぽつりと、灰色の石が道を形作っている。その石に沿って進むと、旅館の玄関へと辿り着く。
旅館は二階立ての建物だった。木造で、木そのままの色を残している。随分と大きな建物で、葱生は見上げて思わず息を吐いた。華美な装飾はないが質素というわけでもない。落ち着いた趣である。
旅館の向こうには山が見える。この季節、山は爽やかな緑に染まっている。敷地内にも、塀沿いを中心として多くの木が植えられていた。
足を踏み出すと、石の擦れる音がした。この音が楽しくて、幼い頃同じ場所をぐるぐると回ったことを思い出す。案内の女性もいる今、そんなことをしようとは思わなかったが。
腕に抱えたのとは借りてきた猫のように静かだった。眼だけは積極的に周囲に走らせている。
数歩進んだところで女性が振り返った。高い位置で括られた髪が揺れる。
「葱生さま、お荷物お運びいたします」
「えっ、いや、大丈夫です……!」
猫一匹を抱えているから大荷物のように見えるが、葱生が他に持っているのは空のエナメルバッグに、財布や文庫本、着替えが入った程度の小さな鞄だった。これを持たせるのは逆に申し訳ない。それに、葱生は旅館の客として来たわけではない。客同然の扱いをされているが、宿泊料金も払っていないし予約もしていないのだ。
「あの」
「はい、何でしょう」
「名前、様をつけなくて大丈夫です……俺、お客さんじゃないので」
女性は一瞬きょとんとした反応を見せ、思わずといった調子で笑った。この女性の年齢はわからないが、落ち着いた丁寧な接客を見ていると、今の反応の方が年相応だという感じがした。
「大事なお客さまだということに変わりはないですが……そうですね、では、葱生さんとお呼びしてもよろしいでしょうか」
「ああ、その方が」
まだ気が楽だ。
葱生は頷いた。呼び捨てされればそれはそれで慌ててしまうだろうと思うが、様などと敬称で呼ばれるような身分でもない。
「申し遅れました。私は昼顔と申します。『ほおずきの宿』で、女将の真純さまの下で働いております。よろしくお願いいたします、葱生さん」
「昼顔さん」
「はい」
よろしくお願いします、と葱生は礼を返した。
昼顔という名は、苗字なのだろうか名前なのだろうか。珍しい名だ。それを尋ねようか迷って黙り込んでいると、のとが自己主張するように鳴いた。葱生も昼顔も、どこか不服そうにしている猫に着目する。昼顔はのとの方に向き直って身を屈めた。葱生が名を伝える前に、
「……のとちゃん?」
昼顔が尋ねた。にゃあ、と首肯にとれる返答。昼顔もまた満足げにする。
「え、何で分かったんですか」
まさか、のとと話ができるのだろうか。これまでなら一笑に付していたような想像も、猫が猫又になるという怪異を目の当たりにしてから、有り得てもおかしくのないのではと考えるようになってしまった。
昼顔はふふ、と笑ってみせた。謎解きの答えあわせをするような調子で言う。
「葱生さんのときと一緒ですよ。真純さまが教えてくださったのです」
そして辿りついた玄関の戸を引いた。どうぞ、と促されて葱生は旅館の中へと入った。
玄関は広く、そこで葱生は靴を脱いだ。
左に行くと階段から二階へと、右に行くと縁側へと行けるようだった。正面には、すっと廊下が伸びている。随分と長い。
廊下の左側は白い漆喰の壁、右側は障子となっていた。障子を開ければ部屋へと繋がっているのだろう。床は艶やかで埃ひとつない。掃除が行き届いているのを感じさせた。
旅館の中は静かだった。
物音ひとつ聞こえない。ほかに客はいないのだろうか。
葱生は周囲を見渡して耳を澄ます。やがて、鼓膜が小刻みに響く物音を捉えた。とんとんとん、と板に何かが触れるような音だ。それはとても聞き覚えのある音だった。まな板に包丁が触れる音。調理場から来る音に違いない。午後二時という昼食にも夕食にもそぐわない時間ではあったが、これだけ大きな旅館では食事の準備にも大変な時間がかかるのだろう。
しかしその調理音のほかに話し声などは聞こえず、相も変わらず静かだった。時間の流れ方さえ違うような気がしてくる。それはぴんと張り詰めた静けさというよりは、子どもが息を潜めて隠れんぼをしていることで生まれたものだという印象を与えた。
葱生が一通り観察を終える頃合を待って、昼顔が声をかける。
「真純さまのお部屋までご案内いたしますね。二階になります」
昼顔の先導で、葱生たちは階段から二階へと上がった。
階段を上りきったときに何か煙のようなものが葱生の顔を掠めた。むわりとした湿り気だけが顔に残る。
「わっ」
思わず声を上げてしまう。一瞬のことだったので息苦しささえ感じなかったものの、不可解さを覚えた。部屋で煙草を吸う客でもいるのだろうか。それにしては煙たさも煙草特有の匂いもなかった。
昼顔が不思議そうに振り返る。しかしわざわざ報告する必要もない気がして、葱生はただなんでもないと首を振り、後ろをついて行った。
廊下を少し進んだところで、昼顔が立ち止まる。左手にある部屋が祖母、真純の部屋のようだ。柱には「松」と書かれた札が下げられていた。
「真純さま、失礼します。葱生さまをお連れしました」
昼顔の声に対して、障子越しに返事がある。昼顔は床に膝をつき、障子をすっと開けた。葱生に中を示すと、「それでは私はこれで」と去ろうとする。葱生が礼を述べているうちに、待ちきれないとばかりに、のとが懐から飛び出していった。
「あら、葱生さんも行かれないと」
昼顔の言葉に背中を押されて、葱生は祖母の部屋へと足を踏み入れた。
中は全面畳敷きの和室だった。十畳ほどの広さで、目立つ家具は四人掛けの座卓くらいである。床の間には掛け軸と生け花が飾ってあった。その隣の違い棚にはちょこちょこと小物が置かれている。奥に見える襖は片側が引かれていて、隣の間へと続いていた。そこから本棚や文机を発見できた。祖母が日常的に使っている部屋だということが分かる。
「よく来たね」
部屋の主である祖母は座椅子に座っていた。のとが慣れ親しんだ人に甘えるように、前足を祖母の膝に載せていた。
「ここまで来るのは大変だったろう。駅まで迎えに行きたかったんだけど手が空けられなくてね……迷わず来られたかい?」
「はい」
祖母は葱生に座るよう促した。葱生は示された座椅子には座らず、畳の上に正座する。そのまま祖母に向かって、
「浅川葱生です。ご無沙汰しています」
そう言って頭を下げた。祖母はわずかに驚いた様子だったが、自身もまた座椅子から下りて着物の裾を整える。
「木館真純です。奏枝の母で、この『ほおずきの宿』の女将をしています」
祖母はさすが女将と言うべきか、優雅に礼を返した。上げられた顔はとても柔らかかった。身内へこんなに真面目な挨拶をしたことが気恥ずかしくなって葱生は少し視線を落とす。祖母が丁重に返してくれたことがくすぐったかった。
祖母は藤色の着物に身を包み、髪を簪で結い上げていた。葱生が声から想像していた姿よりも若く見えた。六十歳になるかというような見た目で、足腰もしっかりしているようだ。父や母の年齢を考えると、六十よりは年上だろう。
祖母は座椅子へと戻り、今度こそ葱生も勧められるままに座椅子に座った。祖母は急須から湯飲みへお茶を注ぎ、一つを葱生へと差し出した。
「今の葱生の様子、奏枝に連れられて挨拶に来たときの広樹さんにそっくりだったよ」
本当に似たもの親子だねえ。笑いながら、
「ああ、でも」
と祖母は目を細めた。
「顔立ちなんかは、奏枝の面影があるね」
「母さんに?」
「ああ、あの子の葬式のときには気づかなかったけれど」
懐かしそうに遠い目をする。葱生も思い出に吸い込まれそうになって、湯飲みへと手を伸ばす。お茶を一口飲み下すと、想像以上に熱く涙目になりかける。それを隠そうとして更にお茶を啜り、咽て余計に不自然になってしまった。
葱生が落ち着いたのを見計らって、祖母はのとを抱き上げて膝の上に乗せる。撫でられたのとは喉を鳴らした。孫の葱生以上に早く馴染んでいる様子だった。それが少し悔しいような気がして、着物に猫の毛が付着してしまうのではないかと注意しようとしたが、祖母が全く意に介していないようなので口を噤んだ。