九 (3)
父が来たのは約一時間後だった。
門の外に車を止めて、父はまず祖母へ挨拶をしに来た。土産を差し出して、正座をする。畏まる姿が葱生から見て妙におかしかった。祖母を見遣れば、顔を下げる父の前で、葱生と同じように笑い出しそうな顔をしていた。
話をする父の横にいても良かったのだが、ふと思い立って葱生は廊下へ出た。陽を浴びて温かい色合いをしている木目に足を滑らせて、窓に近寄る。窓は網戸もせずに開け放たれていて、心地よい風が旅館へと届いてきていた。窓からは旅館の庭が見下ろせる。
少しだけ窓から顔を出して、風と光をめいっぱい受ける。気持ちがいい。
鳴き声がして、気がつけばのとが足元へやって来ていた。窓の外を見たそうに首を伸ばすので、葱生は手を貸して、のとを肩の辺りに乗せてやる。
しばらく雲の少ない青空と、風にそよぐ新緑を眺めていた。のとは騒がず、ただ琥珀色の目だけをきょろきょろと周囲に走らせている。そうして周囲を観察していたかと思ったら、今度は葱生をじっと見つめていたりした。
障子の向こう側からは、会話が弾んでいるのが聞き取れる。父は緊張を下ろして祖母と様々なことを話しているらしい。話題はもしかしたら母のことであったかもしれなかったが、今は部屋に急いで戻ってまで話を聞きたいとは思わなかった。
葱生が顔を外へ戻したとき、のとのいない側の肩へ、何かがふわりと降り立ったような感覚がした。左肩へと目を遣る。が、そこには何もない。ただ何かがやって来たような、乗っているような感じは覚える。のとも目を見開いてそこを凝視していたが、視線では肩に乗ったものを炙り出すことはできなかった。
「……何だ、これ」
座敷童や煙といった、悪戯をする妖怪の類だろうか。葱生がおそるおそる肩へ手を伸ばすと、手のひらが微かに熱くなった。目に見えないが、熱をもった何かがある。カイロのような温かさで、火傷をしそうなほどではない。それを掴もうとすると、
「──あの」
声が響いた。
「貴方がこの宿の外へ出るときに、私も一緒に連れて行ってくれませんか」
幼く、高い声音だった。
「私、一人じゃあここから出られなくて……。でも、こまを探しに行きたいの。今ならまだ追いつけそうだから。お願いよ」
葱生は伸ばした手を止めて、自分の肩へいっそう注目する。廊下には葱生とのとしかいない。祖母と父の声は別に聞こえる。今聞こえる少女の声は明らかに、葱生の肩にいる何かから発せられている。葱生ものとも目立った反応を示せずにいると、少女の声は慌てた調子でさらに続けた。
「ごめんなさい、こまがあんなことをした後で、許せないって思ってるでしょう? 思ってるわよね……。でもね、こまは何が何でも貴方を食べたかった訳ではないのよ、私に裏切られた自分のように、その子──そこの猫又が傷つかないように、人間と離したかっただけだと思うの……」
声は捲くし立てたが、最後は自信無さげにすぼんでいった。その後はぼそぼそと、よく聞き取れない独り言が漏らされる。
「ええと」
葱生は手を下ろして、肩口へ話しかけた。電話も持っていないのに、何も見えないところへ話しかけるというのは奇妙な気分だ。
「あなたは──こまの、飼い主さん?」
名前を呼ぼうとして、少女の名を知らないことに気付く。
聞こえる声も話す内容も、葱生が朝方に夢で見て、山猫と対峙した時に共にいるように感じた少女そのままだった。
「そうよ!」
弾んだ声が聞こえた。
「私はこまの飼い主で、友達……いいえ、友達だった、と言った方が良いのかしら……」
再び声が暗くなる。浮き沈みの激しい様子に、葱生は慌てて次の質問を放った。
「その、一緒に連れてくっていうのはどういう……?」
「貴方の肩に、今みたいに乗らせておいてほしいの。宿の門をくぐったら、勝手に離れていくわ」
そんな簡単なことか、と葱生は頷いた。この少女の存在が意識を占めていた時よりも、はるかに簡単で客観的に見ても不安のないことだ。どうぞご自由に、と答えた葱生に、
「ありがとう。貴方にも、猫又ちゃんにもごめんなさい。それから、ありがとう」
拙さの残る喋り方に涙を滲ませながら、少女は礼を述べた。そして陽に反射してきらきらとした光を見せたかと思うと、何事もなかったかのように重みを消した。もう肩には何も感じられない。
「…………、」
腕をぐるぐると回してみる。もう大抵のことでは驚かないな、と思いながら葱生がのとを見ると、のとは機嫌良く鳴いて、二又の尻尾をゆらりと揺らした。
やがて音を立てて障子が開いて、父と祖母が姿を見せた。
「葱生、待たせたな。ついお義母さんと話が弾んじゃったよ。帰ろう」
父が楽しそうに言う。字面に反して、悪びれた様子が全く見られない。疎遠であった父と祖母の関係が今後良好になるのであれば、悪いこともないと葱生が気分を害することはなかった。
「ところで声が聞こえたけど、誰か来てたのか?」
「ん? まあ、来てたと言えば来てたかな……」
不思議そうに廊下を見回す父に曖昧な返事を返して、葱生は自室へと向かった。
それから車に乗り込むまではあっという間だった。櫟の間から鞄を取り上げて、玄関を通り過ぎて門を出る。門をくぐるときには肩にいる少女のことを思って緊張したが、くぐる瞬間にもその後にも、変化は何も感じ取れなかった。少女は山猫を探してすっと出て行ったのだろう、と納得することにする。
車の前には、祖母や葛西、薬師、昼顔、戻ってきた板倉とその父が並んでくれていた。のとも祖母の足元にいる。何度も宥めすかして、ようやく葱生の元から離れたのだった。
板倉の息子には料理を教えてもらう約束をした。葛西と薬師はあっけらかんとしていて、また次に来るのを楽しみにしていると笑っていた。昼顔は仲居だからか、少し後方に控えている。ただ玄関口で、
「のとちゃんのことはお任せください」
と力強く約束してくれていた。
板倉の父は気を利かせて、二人分のおにぎりの包みとペットボトルのお茶を持たせてくれていた。風呂敷に包まれたそれはまだ温かく、握りたてであることが分かる。車での移動中に空腹を感じたときのためにと、言葉の少ない板倉の父の気遣いが嬉しかった。
門を入ってすぐのところには昼顔や老人、子どもたち、天狗、跳ねる複数の白饅頭もいる。葱生に手を振ってくれたり声をかけてくれたりと、騒がしい。
葱生には全てがはっきりと視える。父には、白饅頭は認識できないようだった。そこに何かある、というぼんやりとしたことは分かるようだ。傍目に人間に見えないものは難しいらしい。
わざわざ門まで見送りに来てくれている皆に、葱生は礼を述べる。
「また、来ます」
来ても良いですか、という疑問の形ではなく断定をした。
「いつでもおいで。こちらが寂しくなる前にね」
祖母が微笑む。葱生はポケットのほおずきを手の平で包んだ。
のとが葱生の足元に擦り寄ってきた。長く鳴く。その目に寂しさが湛えられているのがすぐ分かった。葱生はしゃがみこんで、のとを抱き上げる。ここ数日一番一緒にいた猫又にゆっくりと頬ずりをする。
「またな」
別に今生の別れというわけではない。この旅館も、祖母も、のとも、また夏にでも来れば会うことができる。今からそれが待ち遠しい。
「葱生、行こうか」
「うん」
父の声に、助手席に乗り込む。勢い良く車のドアを閉めた。シートベルトをつけて、緩やかに車は発進していく。葱生は窓を下ろして顔を出した。祖母を始めとして、皆が手を振ってくれている。わあわあと騒ぐ声も聞こえる。葱生も手を振り返した。
少しずつ、旅館の塀と見送ってくれる皆が見えなくなっていく。坂を下り始めると全く見えなくなってしまった。それでも葱生はしばらく窓を開け続けていた。
短いようで、初日のことを忘れそうなほど中身の詰まった三日間だった。父に話して教えたいことも沢山あるのだが、あり過ぎてどれだけ喋り続けることになるのか分からない。気分はその日の出来事を伝えようと逸る小学生と同じだ。
鞄を開けて、中から一冊のノートを取り出す。バラ売りのノートよりも装丁がしっかりとしている、落ち着いた水色のノートだ。表紙をなぞるとざらりとした感触が伝わる。
「どうしたんだ、それ?」
ハンドルを切りながら父が尋ねた。
「貰ったんだ」
ぱらぱらとページを捲ってみる。中には罫線が引かれているだけで、何も書かれていない。まっさらなページが書かれる日を待っている。
旅館を出る間際、祖母が葱生にこれをくれた。旅館での出来事を、忘れたくないことをこれに記録するようにと。祖母もまた自分のノートを持っていて、日記として使っているらしい。
「次来たときにでも見せておくれ」
祖母は楽しそうに笑っていた。
旅館での出来事を父に話すのもいいが、ゆっくりと時間を使ってノートにも書いてみようと思った。日記をつける習慣はないが、挑戦してみるのも良いかもしれない。
「楽しかったんだな」
父が葱生の様子を見て言った。迷わず頷く。今度は父も一緒に行けたら良いのにと思った。自分の夏休みと、父の休みの日程を合わせられるよう計画しようか。
車はアパートを目指して走る。田んぼ沿いの車道は他の車も少ない。遮られることなく降り注がれる日光は、窓ガラス越しでも暖かかった。
気が抜けると、規則的な車の揺れもあって眠気が忍び寄ってくる。
「あんまり寝てないんだって? 寝てていいぞ。買い物の前には起こすから」
「……うん」
父の言葉に甘えて、少し眠ることにした。
葱生はゆっくりと瞼を下ろす。陽の光が透けて橙色に染まる瞼の裏で、ほおずきが軽やかに鳴り響いた気がした。
猫と鈴音、了
これにて「〝ほおずきの宿 あやかし見聞録〟猫と鈴音」完結になります。
もしよろしければ、感想やご指摘などいただけると嬉しいです。
次の章を書きたいなとは思っているのですが、構想段階のため完結という扱いにさせていただきます。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




