九 (2)
時刻は午前八時を回ったくらいか。空は青く透きとおっている。雲はほとんど見られない。風が温泉の湯気を流していった。
改めて傷がないか確認して消毒をした後、葱生は温泉へと放り込まれた。傷、疲労回復にも良いのだという。万能な湯だ。内出血や擦り傷は触ると少し痛いが、幸いにも湯が染みるということはない。
葱生の前に現れ、山猫から庇ってくれた少女もまた、葛西とともに温泉に入っているらしい。
湯に沈む。
昨夜から色々なことがあり過ぎて脳の整理が追いつかない。先庭と沼田が帰っていったのがだいぶ前の出来事に感じられた。
ほど良い温かさの温泉が体を解していく。腕も足もめいっぱい伸ばすと、緊張も混乱も溶けていくようだった。
河童は姿を見せなかった。眠っているのだろうか。葱生もまた今日で帰るのだと直接告げられなかったのが残念だが、会えないのなら仕方ない。
肩まで全身をお湯に浸からせたり、温泉入り口付近の浅い箇所にいたりと、逆上せないように場所を変えながら葱生は長時間滞在した。先ほどまで着ていたものは土に汚れてしまって着られる状態ではなかったのだが、祖母が気を利かせて先日のものに洗濯と乾燥をかけてくれていた。有難く着替え、パーカーを羽織る。髪から水分を払い、男風呂の暖簾をくぐる。
朝食を摂るのにも使う、よく沢山の人が集まっている部屋には誰もいなかった。葱生は何となくそこへ入り、畳の上に座り込む。
大きなテーブルに、お猪口と徳利が一揃い置いてあった。濡れた髪をタオルで拭いていて、ふと顔を上げるとその徳利に目が現れていた。徳利が目を開いていた、という言い方が正解かもしれない。くりっとした丸い目が葱生を観察している。
しばし無言で目を合わせる。徳利はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、自身をお猪口の方へ僅かに傾かせた。倒れる、と思ったが絶妙なバランスで元の位置へ戻る。初日に温泉から上がってきたときと同じ。飲んで良い、ということなのだろう。
葱生はテーブルへ近づいて上から徳利を覗き込む。酒と見せかけて実は水という、透明な液体が入っているものと考えたが違った。暗い色とともに甘い香りが漂う。嗅いだことのある香りだ。どうやら中はコーヒー牛乳のようだった。瓶でも紙パックでもなく徳利にコーヒー牛乳とは。
徳利を手にして、すぐにお猪口へと中身を注ぎはしなかった。たぷんと揺れる液体をじっと見つめる。色も香りも強い飲料。これをつい最近別の場所で見ている。結局誰も飲まずに持ち帰られ、なぜ出してきたのかその時はよく分からなかったものだが。
「このコーヒー牛乳には何も入ってない? ……例えば、記憶を飛ばす薬とか」
ぽつりと呟くように問う。徳利は目を見せて、何度か瞬きを繰り返した。それが肯定なのか否定なのか分からない。そんなことはない大丈夫だ、と断言しているようには見えなかった。分からない以上、
「ごめん。これは飲めない」
徳利をテーブルへと戻した。酒と勘違いした前回と合わせて二度も断ることになって心苦しいが、確認する相手がこの場にいないので飲むことはできない。
もしかしたら葱生は試されていたのかもしれなかった。沼田に薬を飲ませるとき、薬師は瓶のコーヒー牛乳を用意していた。あれはきっと、記憶を飛ばす薬の味を隠すためのものだ。沼田が薬を摂取したときは本人に意識がなかったため結局不要だったのだ。
目の前のコーヒー牛乳に、本当に薬が入っているかは分からない。入っていたとして何日分の記憶を飛ばすものかも分からない。山猫に襲われた今朝のことだけではなくて、この三日間のこと全て忘れてしまうかもしれない。
この徳利にコーヒー牛乳を注いだ人は、葱生が飲みたかったら飲んでも良いと、あるいは薬のことになど考えが及ばず飲んでしまっても仕方がないと考えていたのだろうか。もし本当にそうだったなら、憤りを覚えるだろう。たしかに今朝のことは衝撃的だったし、忘れたくとも忘れられるようなものではない。だからと言って綺麗さっぱり捨てて良い、捨てたいという訳ではない。最終的には祖母たちが助けに来てくれた。それもまたこの旅館での思い出の一つだ。
「俺はこの旅館でのことを忘れたくないんだ。間違って薬を飲んでしまったら嫌だから、これは飲めない」
徳利はじっと葱生を見つめた後、納得したのか目を閉じた。そこに悔しそうな表情は見られなかった。何の変哲もない徳利に戻る。
葱生はそれを見届けて息を吐く。
静かだ。調理場に板倉の父はいるのだろうか。息子の方は先庭と沼田を送っているところだ。もう引き返してきているかもしれないが、少なくとも調理場にはいないようだ。賑やかな声がない。
祖母の部屋に行くべきか、と考えて、組んだ足を解いたところで、絶妙なタイミングで祖母が姿を見せた。先ほどと着物が変わっていた。やはり土に汚れてしまったのだろうか。知識はないが、着物は洗うのが大変そうで汚させてしまったのが申し訳ない。
「葱生」
祖母はテーブルを挟んで葱生の向かい側に座った。徳利とお猪口にちらりと視線を遣る。それが使われた形跡がないことに、どこかほっとしたように見えたのは気のせいか。
葱生は姿勢を正し、改めて祖母へと礼を述べた。祖母と葛西、天狗が来てくれていなければ本当に喰われて死んでいたかもしれない。思い出して微かに背中が震える。二度と経験したくない体験ではあった。
それに対し、祖母は逆に謝った。駆けつけるのが送れたことと、事前に防げなかったことを。
防犯ベルや携帯電話といった機器だって万能ではないのに、助けに来てくれた祖母に落ち目はないはずだ。葱生は緩やかに首を振る。祖母と葱生は、謝罪を繰り返す堅苦しい関係でなくとも良いはずだった。
「ありがとう」
短く簡潔に述べて、葱生は笑顔を見せた。それを受けて、祖母も安心した様子で微笑む。
その後、祖母に尋ねられてあの林へと行くことになった経緯を伝えた。時折鈴の音がしていたことや、見た夢のことも教える。祖母は興味深そうに聞いていた。
「葱生は思った以上に、妖の世界に馴染んでいるのかもしれないね。『視える』以上のものを感じる」
最後にそう述べた。
話がひと段落して、祖母はそういえば、と不思議そうに部屋を見渡した。部屋に葱生と祖母以外の人影はない。
「のとはまだ温泉から戻ってきていないのかい?」
「のと?」
のとには昨夕から会っていない。昼顔が連れて行ったきりだ。そう思って聞き返す葱生に、
「今、葛西と一緒に温泉に行っているだろう? あれだけ傷を負えば、またしばらく温泉漬けだろうね」
祖母は何気なく言う。それは葱生の認識とずれていた。葛西とともにいるのは、名も知らぬ少女のはずだ。
葱生の反応に祖母も違和感を覚えたようだった。目を丸くしながら尋ねる。
「もしかして、昼顔から何も聞いていなかったのかい?」
「うん。……あ、『楽しみにしていてください』とだけ」
「ああ……」
祖母は天井を仰いだ。そんな反応を見ていると、さすがに推測ができてくる。推測と言うか、今さらながらの予感のようなものだ。そしてそれはきっと正解なのだろう。
「葱生を助けに来たあの少女は、のとだよ。まだそんなに長時間はあの姿でいられないだろうし、喋れないけれど」
山猫の前に立ちはだかっていた少女の姿を思い出す。十歳くらいの背丈にワンピース。髪は黒く、肩くらいまでの長さで波打っていた。目の色が一番特徴的で、日本人にはそうそう無さそうな琥珀色をしていた。あの色は、猫又ののとと同じ。道理で見たことがあると感じた訳だった。散々近くで見てきた色だ。
「温泉に浸かって体に妖気を取り込んで、安定してきた結果、人の姿もとれるようになったんだよ」
納得した様子の葱生に、祖母は補足してくれた。
のとが猫又になってアパートにやって来た結果、このほおずきの宿へと来ることになったのだった。あのまま街では暮らせないから何とかしてやらなければいけないと思ったことが始まりだったが、まさか人間の姿で葱生が守ってもらうことになるとは思いもしなかった。
葱生を襲ってきた山猫だって、昔はただの一匹の猫であったはずだ。それが長い間生きて巨大な体躯になり、人間の姿をとって話すこともできるようになっていた。妖怪の領域では珍しくもないことなのかもしれない。
「にしても、人間の姿を取れるようになったばかりで普通なら歩くのさえ困難なのに……よく走って駆けつけたものだよ」
祖母が感心した様子で言う。確かに、と葱生は頷いた。山猫の前に立ちはだかる少女の姿は、見た目も行動も、どこから見ても人間そのものだった。
そこで、がらがらと戸が引かれる音がする。女風呂の暖簾をくぐって部屋に来たのは葛西だった。風呂上りで頬を上気させ、金髪の先から雫をしたたらせている。そして腕に、のとを抱えていた。真っ黒い毛に琥珀色の目を持つ猫又。
「傷が残ったりはしないと思うわ。女の子だから傷が残るのはやっぱり嫌よね」
そう言いながら、葛西は葱生へとのとを渡した。葱生の膝にのとが乗る。元気
に跳ねることは出来なさそうだったが、ぐったりとして寝込まなければいけないというほど弱ってはいないようだった。背中を撫でると、ゆらり、二つに分かれた尻尾が振られる。この姿だけ見るとあの少女がのとだとは信じがたい。目の前で変化でもしてもらわないと心の底からは信じられないかもしれない。しかし、のとの琥珀色の目を見ていると本当なのだという気がしてくる。
「のと。ありがとな」
のとは長く鳴いた。機嫌の良い声だった。
「それじゃあ、朝食にしようか」
祖母が立ち上がる。調理場へと向かい、一人ひとり板倉の父が作ってくれていた朝食を受け取った。
「いただきます」
声を揃える。
朝食の盆に載っていたのは、茶碗に綺麗に盛られた白米に、カブと油揚げの入った味噌汁。白いカブが溶けかけてとろりとしているのが、体にゆっくりと染みこんでいく。それから二つの食器の奥には色の違う小鉢がいくつも並んでいて、目に鮮やかだった。手作りなのか、お玉で掬ったような形の豆腐に枝豆が一粒だけ乗っている。一口掬ってみると、冷奴というよりはプリンのような舌触りがする。他に、さやえんどうの卵とじ、春キャぺツとしらすの塩麴炒め、アスパラガスのベーコン巻き。
そのまま弁当に詰めたくなるような、ちょこちょことしたおかずのラインナップだった。祖母と葛西と三人で、これが美味しい、と言い合いながら食べる。のとが興味を示したので、葱生はのとに豆腐を一口あげてみる。醤油のかかっていないところだ。スプーンを舐め取ったのとは、苦手ではないようだが、美味しいのかこれは、と言いたげに目を白黒させていた。
笑いながら、葱生は白米を口に運び味噌汁を啜る。実際にはそんなことはないのだが、久しぶりの食事のような気がした。ゆっくりと胃に染みていく味だった。




