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ほおずきの宿 あやかし見聞録  作者: 綿津見
猫と鈴音
3/31

一 (3)


「……葱生、葱生」


 風邪を引くよ。


 肩を強く揺さぶられる。聞きなれた声が自分を起こそうとしている。


「ああ、寝る子は育つって言うけど、ちょっと寝る習慣をつけさせ過ぎたな」


 ぼやく声。

 何を失礼な、と頭の中でだけ反論して、葱生は瞼を上げる。


「おはよう」

「……おかえり」


 目の前にワイシャツ姿の父が立っていた。仕事から帰ってきたばかりらしい、まだ着替えてもいないようだ。


 葱生は頭を押さえながらソファから起き上がり、時計を確認する。十九時過ぎ。今日は父の帰宅が早い。


「帰って来てすぐ寝ちゃったのか? レジ袋がそのままで、冷蔵庫の前にあったけど」

「ああ……うん」


 ごめん、と答えながら少しずつ目を覚ましていく。ああそうだ、卵も野菜もあったのに冷蔵庫にしまうのを忘れていた。


「急いで晩飯作る」

「葱生、その前にな」


 台所に向かおうとする葱生を、ネクタイを解きながら父が引きとめた。振り返る。


「……のとは、前からこんなだったっけか?」


 父は黒猫の前足を持って、葱生の前にびろんと掲げてみせた。のとは現行犯逮捕された犯人のように、恨めしげな眼差しを向けている。

 その尻尾は、二本に分かれていた。


「俺も疲れてるのかなあ……。これ、幻覚か? 葱生には見えてない?」


 返事をしない葱生に不安を覚えたらしい。父はのとを引っくり返したり尻尾に触れてみたり(のとが不機嫌な声をあげた)しながら一人ごちる。しかし、言葉の内容に反して声音は暢気な調子を帯びていた。


「これは、のとが猫又になった、ってことだと思うんだけどなあ」


 ああ、幻覚じゃなかったのか。

 葱生は目を瞬かせた。これは現実なのだという驚きがじわじわと浸透してくる。先ほどはひと眠りすればこんな幻覚、夢も終わりだと考えて現実逃避に走ったが、覚めたところで変わるようなものでもなかったようだ。


「俺にもそう見える」


 ゆっくりと頷くと、父は安堵したように見えた。それは猫又の存在に動揺していたというよりも、自身の感覚を息子と共有できているか不安を感じていたという様子だった。

 父はのとを一通り観察した後、


「晩御飯は、そこの弁当屋に宅配を頼もう。今日はのとの今後を話し合いたい」

「うん」


 普段は極力自炊をしようと言う父がそう提案したので少し驚いた。

 晩御飯の準備をする必要がなくなったため、葱生はおとなしくテーブルの前に座りこむ。父は携帯電話で、近所の弁当屋に電話をかけ始めた。コール音を聞きながら、


「何が良い?」


 と口パクしてみせる。フライ弁当、と葱生も口の形だけで返した。通じただろうか。父が頷く。


 電話を持っていないもう一方の腕に、のとは収まっていた。機嫌を直したらしく、振り子のように尻尾を揺らしている。葱生は頬杖を突きながらそれを見つめる。 


 猫又という存在についてどこで知ったのか、思い出した。父の本棚だ。父の部屋、趣味の雑誌が入った小さな本棚の中。そこに一冊、妖怪の絵ばかり集めた本が入っていたのだ。墨でちょこちょこと描かれた妖怪の姿の脇に名前だけが載った、薄めの本だったと記憶している。簡単な絵があるばかりで特別面白いというわけではなかった。が、小説といったフィクションの類がほとんどない父の本棚にあるのが気になって、ぱらぱらと捲ったことがある。随分と昔のことだ。

 妖怪の本を持っているくらいだ、父は妖怪について詳しいのだろうか。そんな話は今までに聞いたことがなかったが。


 父は「のとの今後」について話すと言った。この黒猫が本当に妖怪であったにせよ、そうではなかったにせよ、珍しいものであることに変わりはない。何せ生まれたときには一本だった尻尾が、完全に二又になってしまっているのだ。突然変異、あるいは進化した猫として耳目を集めることは容易に察せられる。今までと同じように町中をうろつけば、いずれ好奇心旺盛な研究者に捕まってしまうだろう。そしてその研究者が皆、研究対象に敬意を持って接するとは限らない。


 気がつけば電話が繋がっていたようで、父が注文をしているところだった。


「──はい、宅配お願いします。ノリ弁と野菜弁当を」

「フライ弁当!」

「すみません、フライ弁当だったみたいです」


 今回は読み取れたと思ったんですけど。父は電話の相手に向かって笑う。

 自分も緊張感に欠けるとよく言われるが、父も大概だと思った。葱生は唇の隙間から息を漏らす。葱生に同意するようにのとが首を振った。


 父は電話を終えて、葱生の向かいに座る。のとと戯れながら、他愛のない話をする。葱生の学校での話、父の職場での話。テレビで流れるニュースに関する雑談。いつもする親子の会話と何ら変わらない。


 二十分ほど経った頃、バイクの止まる音が二人と一匹の耳に入った。


「葱生」

「うん?」


 父が珍しく真面目な顔をして、葱生にのとを渡す。


「のとを押さえといて。絶対に玄関に出てこないように」


 その忠告は適格だった。数拍後にチャイムが鳴り、それを耳にしたのとが一目散に玄関へと駆けて行こうとしたのだ。葱生に捕獲されていたため、その試みは幸い失敗に終わったが。葱生の手の下で、のとは足を突っ張るようにして抵抗する。玄関の来客が気になって仕方ないらしい。


 しかし、ここでのとに玄関に出て行かれては困る。弁当屋の人が二又の猫を目にして固まってしまう可能性は大いにある。あるいは驚き、叫んでしまうかもしれない。「二又の猫なんてどこに?」そう言ってとぼけるのもさすがに無理があるだろう。葱生と父の方針がまだ定まっていない以上、事を広めるわけにはいかなかった。


「……そうだ、飯、食べるか? 新しい缶詰買ってきたんだけど」


 葱生が咄嗟の思いつきで提案してみると、のとはぴたりと動きを止めてその琥珀色の眼を葱生に据えた。本当だろうか、と言いたげな目で見つめる。


「嘘じゃないぞ」


 これが嘘だったら怒られるんだろうなあ、と考えながら葱生は答えた。買い置きの缶詰が戸棚に入っているはずだ。のとをしっかりと抱えたまま、戸棚の中身を見せる体で立ち上がる。


 そこに父が二人分の弁当を持って戻ってきた。


「お待たせ。おお、のと、ちゃんとおとなしくしてたんだな」


 父に褒められ、のとは誇らしげに返事をする。賢いと言うより世渡りの上手い猫である。


 葱生と父は弁当を、のとは猫缶を夕食とした。午後八時を回った頃だ。

 人間二人と猫──猫又と言うのが正しいかもしれない──の会話であるのに妙に噛み合った会話が繰り広げられた。のとは喋りこそしないものの人間よりも人間らしく、生き生きとした反応を見せる。元々こうしたところのある猫だとは思っていたが、妖怪のような特徴を見せ始めた今、そのうち二足歩行を始めたり喋り出したりしても、そう驚くことではないかもしれないと葱生は思った。


「……さて」


 ごちそうさまでした。父と葱生は両手を合わせた。空のプラスチックケースを片付けてゴミ袋の中へ放る。やかんで湯を沸かし、お茶を用意してそれを啜った父は、閑話休題とばかりに足を組みかえた。


「さて、のとは妖怪の一種である、猫又になってしまった。そういう前提で話を進めていいか?」


 やはり落ち着いて見える。それで思わず葱生は尋ねた。


「父さんは、今までに妖怪を見たことあんの?」


 我ながら声に怪訝の色が滲む。二又の猫が目の前にいるという事実を目の前にしても、やはり、妖怪がいるとは素直に頷けないところがあった。妖怪などこれまで十六年と少し生きてきて一度も見たことがなかったし、現代日本には存在しないはずなのだ。

 疑惑を抱く葱生に対して、父は飄々としていた。


「うん? いや、ないよ。前は、視えなかった」

「……見えなかった?」

「そう。その話をするには、奏枝の実家の話をしなきゃならない」

「母さんの、実家?」


 父はダッシュボードの上に目線を遣った。

 そこにはいくつかの写真立てが並べられている。写真の一枚にはランドセルを背負った葱生と今より若い父、そして母が収まっている。入学式の時のものだ。その隣の写真では、結婚前の母が朗らかに笑っている。


 母は葱生が八歳の時に亡くなった。父の話では、もともと体の強い人ではなかったという。病気で臥せってそのままこの世に別れを告げることとなってしまった。しかし病弱という言葉の似合わない、底抜けに明るく笑う女性だった。


 母さんの実家、と、葱生は再び言葉を舌の上で転がす。


 父の実家には年末や夏休みになると短くとも数日間は滞在する。母が亡くなった後、葱生はしばらくそこで生活していたこともある。父方の祖父母ともに今なお元気で、遊びに行くと歓待される。その度に祖母は食べきれないほどの料理を拵えてくれる。他に孫が二人しかおらず、その二人が遠方住まいでなかなか会えないことも理由であるかもしれない。


 対して、母の実家には行ったことがなかった。記憶を遡れる限り一度もない。どころか、祖父母の名や顔さえ分からない。今改めて考えると不自然だが、それを不思議に考えたこともなかった。「祖父母」と言えば父方の二人を表す言葉で、それ以外の何でもなかったのだ。


 あまりにも母方の親戚に関することを知らないため、いつからか、母は駆け落ちしてきたか、あるいは親から縁を切られたのではないかと考えていた。暢気であっけらかんとしたこの両親からは想像しにくいことではあったが、それ以外に納得できそうな理由が思いつかなかった。


 そう告げると、父は思わずといった調子で笑った。


「まあそう思われても仕方ない……でも別に、仲が悪いだとか結婚に反対されただとか、そういうことではないんだよ」

「本当に?」

「うん。年賀状や暑中見舞いなんかは今でも遣り取りしているけど……見せたことなかったっけ?」


 首を傾げる父に、葱生は否定した。父宛の葉書だからと、差出人も裏も見ずに渡していたのだろうか。


「直接会ったのは──お義母さんは奏枝の葬式に来てたし、そのとき葱生とも話してるはずなんだけど。覚えてないか?」

「……覚えてない」

「そうか。まあ、奏枝はちょこちょこ里帰りしていたよ。葱生を連れて行ったり、三人で行っても良かったんだけどね。あそこはちょっと特殊だから、俺も結婚の挨拶のとき含めて二回くらいしか行ったことがない。お義母さんには、波長が合いにくい、って言われたかなあ」

「ふうん……?」


 あまり事情を飲み込めぬまま、葱生は相づちを打つ。


「ええと、祖父ちゃんは?」


 これまでの会話には一切出てこなかった祖父について問う。顔の思い浮かばない人のことを血縁といえど馴れ馴れしく呼んで良いものか、一瞬躊躇った。


「お義父さんは随分早くに亡くなったそうだ。奏枝と何回か墓参りに行ったな」

「そっか」

「それで、お義母さんは旅館をやっていてね。旅館の女将さんなんだ。住み込みの仲居さんと一緒に暮らしていて、まだまだ元気だそうだ」

「旅館」


 身内に旅館を経営している人がいるなど知らなかった。父も別に隠していたわけではないだろうが、もっと早くに知っていても良かったというのが本音だった。なぜ今まで、母方の祖父母について疑問に思わなかったのだろう。父と母方の祖母が別に不仲ではないと知った今、母方の祖母に会ってみたいという気持ちが唐突に湧いてくる。まだまだ元気というならば、会いたいと言えば歓迎してくれるだろうか。祖母が健在なら会って、母のことも含め話をしてみたかった。旅館というのもどんなものか見てみたかった。少なくとも仲居の居る規模の旅館である。民宿よりは大きいに違いない。


「お義母さんは妖怪や伝承に詳しいそうなんだ。それだけじゃなくて、旅館には不思議なお客さんが来ることもあったらしい。お義母さんと奏枝はそれが視えていたそうだよ。俺が行ったときはまるきり駄目だった。それで、お義母さんに言われて、俺がその後行くことも、葱生を連れて行くこともなかったわけだけど」


 父は残念そうに鼻をかく。先ほど「視えなかった」と言ったのはこのことらしい。


 不思議なお客さん。

 葱生はそれこそ自身が不思議な話を聞いているような気分になりながら、話の続きを促す。思わず身を乗り出したところで、


「それで、のとのことは、まずお義母さんに相談してみて、できるようならそっちに連れて行ってみるのが良いと思うんだけど、どうだろう」

「旅館に?」

「旅館だからというわけではないけど……ここにそのまま置いておくよりは良いと思う」


 葱生は頷いた。


 このアパートはペット禁止の物件であるから、のとをいつまでも置いておくことはできない。隠し通そうとしてもいずれは見つかるだろうし、仮に大家を説得できたところで外出させないのもストレスが溜まるだろう。かと言って今まで通りに、自由に外で暮らしてもらうことにも不安はつきまとう。


 のとは姿かたちからして、「普通」の猫とは異なるのである。珍しいどころではない「二又」の猫だ。それが本当に妖怪化したにせよただの突然変異であったにせよ、人間の興味を引けば簡単に捕らわれてしまうに違いなかった。


 捕らわれて、その後どうなるのか。様々なところに引っ張り出されて、挙句実験動物として扱われるのではないか。


 その考えに至るのは容易だった。のとが連れて行かれる事態は避けたい、と、葱生と父は話した。幸いにも当てがないわけではなかった。その分余計にそうした意見に辿りつきやすかったのだろう。


「まずは明日、お義母さんに電話してみよう。どんな反応を貰えるかはわからないけど、まあ何とかなるだろう」

「うん」

「とりあえず今日決められるのはこのくらいかなあ」


 父は伸びをして、腕を伸ばしきったあとに視線をさ迷わせた。目的を発見して「あ」と声をあげる。葱生もつられてテーブルの下を覗き込むと、のとが丸くなって眠っていた。静かだと思ったらいつの間にか眠っていたようだ。自分のことなのに随分と暢気な猫だとも思ったが、拾って来たときのように暴れるよりは遥かに良い。親子二人してそれをじっと見つめる。


「父さん」

「何だ?」

「ずっと思ってたけど、全然驚いてないな」

「俺は昔視れなかったからなあ、今、視れていることに驚いてるぞ、寧ろ。そういう葱生の方が落ち着いてるだろ。まあ、落ち着いているというか鈍感というか」

「父さんの子だからね」

「そこは母さんの子と言え、母さんと」


 笑う。

 のとから目を離し、葱生もまた上半身を反らした。


 夜もだいぶ更けてきていた。葱生と父は就寝準備を済ませて布団に潜り込んだ。



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