九 (1)
車とはまた違う、心地よい振動が体全体を揺らす。誰かに手のひらを掴まれてゆっくりと引き上げられたような、そんな感覚を覚えながら沼田は意識だけをもたげさせた。下ろしたままの瞼は、日光を透かして赤く色づいている。とうに陽は上っているようだ。
ぐ、と強張った首を伸ばしながら瞼を上げにかかる。無意識のうちに右手が襟元へと伸びて、ネクタイを緩める動作をしてしまう。ワイシャツ姿であるだけでネクタイなど付けていないのに、と自分で薄く滑稽に感じて、なぜ自分はスーツで寝ていたのだろうと疑問に思った。
「正次郎くん!」
そこへ慣れ親しんだ声が飛んでくる。
沼田が驚きに目を瞠ると、その視界いっぱいに、従兄妹である先庭が映った。
「……菜穂?」
沼田は姿勢を正し、きょろきょろと辺りを見回す。JRの、おそらくローカル線であろう普通列車のボックス席。小さな車両だが、他に乗客の姿は見えない。
スーツの上を脱いでワイシャツだけといういつもの姿の自分に、真向かいには従兄妹の先庭が私服姿で座っている。それもまたいつもの、落着いた色合いのトップスに膝丈のスカート、そして最早見慣れてしまった季節はずれのマフラー。
明るさと太陽の高さから、おそらく時刻はまだ午前中だ。少なくとも夕方ではない。
「正次郎くん、おはよう」
先庭は軽くそう言って、
「あ、喉渇いてる? 水あるよ」
横に置いてあるボストンバッグからミネラルウォーターのボトルを取り出し、沼田へと渡す。沼田は素直にそれを受け取って、すぐに口づけた。水を一口含んでみれば、随分と喉が渇いていたことに気付く。いつから水分を摂取していないのだったか。
「……いや」
そんな些細なことだけではなくて、食事の記憶も、そもそも家を出てJRに乗った記憶もないのだった。何をしていたのか、何のために今ここにいるのかさっぱり思い出せない。
沼田は無言のまま、携帯電話を取り出した。電源は切れておらず、現在の日時が画面に表示される。火曜の午前十一時過ぎだった。平日である。沼田は眉間へ皺を寄せた。自分で言うのも何だが、仕事はどうした。
険しい表情を保ちつつ、さらに腕まで組んで考える。頭の中に溢れる靄を掻き分けて掻き分けて、やっと思い出せたのは、土日月の三連休に加えて火曜日も有給の申請をしたことと、土曜に「明日は菜穂のところへ行く」と決めていたことだけだった。
土曜日の時点で、沼田は先庭に会うと決意していた。出来る限り早く会わなければいけないと急いていた。それは、つい先日に、先庭の首に青い痕があるのを見つけてしまったからだ。
沼田は音の出そうな勢いで顔を上げた。先庭の顔、首元を凝視する。顔はいつもの通り──少しだけ、普段より化粧が濃いだろうか? そう感じたが、口に出せば紳士にあるまじき発言だと怒られることは必至だったので口は噤んでおく──、首元は相変わらず、芥子色のマフラーと黒髪に埋もれて見えない。
「正次郎くん?」
先庭は小首を傾げた。沼田を心配そうに見遣っている。その動作は、精神的に追い詰められて、自殺を図った者のそれだとは到底思えなかった。いや、そうした先庭の様子を考慮しても悪い方向へと思い込んでしまう傾向が沼田にはあるのだが、少なくとも自分とボックス席で向かい合っている現状で、先庭が悪い何かを仕出かすとは考えられなかった。
息を吐いて、椅子に座り直す。一度上がった心拍数を正常値に戻そうと、深呼吸をしながらペットボトルへと手を伸ばした。
それを見つめる先庭はここ最近見かけた様子よりもずっと落着いているようで、寧ろ沼田のことを第一に気にかけるほどの余裕があるように見えた。改めて考えると、こうして沼田と先庭がゆったりとJRで向かい合っているのも小学生の時以来かといった話である。その頃、隣にはそれぞれの母親がいて、ボックス席は人と荷物で満杯だった。幼い先庭は自分よりも窓の外の景色に夢中で、それは沼田自身も同じだったのだが、今の状況はまた違う。先庭は真っ直ぐに沼田の方を向いているし、決して広いとは言えない席を真向かいに利用しているものだから、沼田が少し足を閉じれば膝と膝が簡単に触れあいそうだった。
「……いや」
沼田は思わずこめかみに手を当て、首を振る。
本日二度目の台詞に、先庭は怪訝と心配がない交ぜになったような顔をした。しかしすぐに真剣な目つきに戻る。
「正次郎くん、あの……気持ち悪かったりしない? ほかに、頭痛かったりとか」
「うん?」
沼田は目を閉じて、改めて自身の体調を確認する。気持ち悪さはない。列車酔いもしていないだろう。ただ、
「若干……頭の底で、がんがんするような……」
「本当!?」
沼田が軽い頭痛を訴えると、先庭は驚くほどの食いつきを見せた。それが沼田が慌ててしまうような驚きようだったので、いっそ言わなければ良かったかもしれないななどと思う。まるで子供と心配性の母親の図だと感じながらも、弁明を加えた。
「いや、と言っても、すぐ治るだろうし。意識しなければ気付かない程度のもんだよ」
「そう……なら良いんだけど」
先庭は神妙な面持ちで言って、すとんと席へ戻った。
沈黙が下りる。しかしそれは全くの無音ではなかった。その隙間をぴったりと埋めるかのように列車の走行音が響いていく。快速運行ではないはずなのに、次の駅は随分と遠いようだった。
しばらくの間、窓の外を眺めていた先庭が口を開く。その右手は、なかなか解かれることのないマフラーへとかかっていた。
「正次郎くん、私、正次郎くんに話さなきゃいけないことがあるんだけど、」
ぽつりぽつりと、途切れながらの話し方。しかし沼田はそこに口を挟めなかった。まさかここに来て告白だろうか、もしかして脈有りだっただろうかと浮き足立つような場面ではないのは勿論分かっている。先庭の手はずっと、首を隠すマフラーへ伸ばされたままだ。その手で今にもマフラーが剥がされそうで、しかし動かされない。
「…………、必ず、必ず私から伝えるから、もう少し、待っててくれる……?」
顔をマフラーに埋めながら先庭は言う。耳を傾けなければ聞こえないような小声の問いに、沼田は頷いた。
「分かった」
首に残る痣について、思い悩んでいることについて、どれだけこちらから問い詰めても先庭はきっと言い出さなかっただろう。先庭は一度決めたら、周りがどれだけ言おうと貫き通してしまう人間だ。だから、これで良かったのだろう。なぜ今ここにいるのか、全く思い出せない二日間に何があったのか、気にかかることは山ほどあったが、一番の懸案事項であった先庭の問題は、どうやら解決に向かっているようだった。抱え込まずに人に言うことができるようなら安心だと、沼田は胸を撫で下ろす。
「……ん、いや、まさか伝えるって手紙とかでってことじゃないよな?」
「手紙?」
「いや、違うなら良い。直接なら良い」
「うん」
先庭はマフラーに顔の半分以上を入れたまま頷いた。その目元は心なしか下がっているように見えた。
沼田も笑う。口の端を上げると、途端、頭の内側がやや強く痛んだ。ずきりとした痛みだ。先ほどまで気付かない程度の頭痛だったのだが。
痛みを表に出せば再び先庭を心配させてしまいそうで、沼田は無視を決め込む。子供の頃のように窓の外を指差して、通り過ぎる景色について大げさなまでに興味を持って先庭に尋ねてみる。
幸い先庭はそれに乗っかってくれた。列車が進み続けているにも関わらずしばらくは車窓に映っていそうな畑を見ながら、植えつけられている作物を推測しあう。車両内には二人しか乗っていないのに俄に騒がしくなった。子供の頃に戻ったかのごとくはしゃぐ。二人とも無邪気に笑った。
「……もう一度、チャンスをください」
先庭が小さく呟いた言葉は、列車の走行音に紛れて線路のはるか後方へと流れていく。
「菜穂、何か言ったか?」
「ううん。何も」
沼田は尋ねたものの、さして気にした様子も見せない。
「ところでこのJRってどこに向かってるのか、菜穂、知ってるか?」
「え? 正次郎くん、もしかしてここまでそれ気にならなかったの?」
心底驚いた様子の先庭に、沼田は良いじゃねぇか、と拗ねた調子で返す。
ずきり、と再び頭の奥底が痛む。
それは何だか、沼田を責めているかのような調子で。
「……いや」
目の前に先庭がいて、彼女が笑っていて。あれほど心配だったことも、当の本人がこうして目の前で明るく振舞っているのだからきっとどうにかなるのだと思える。これで十分なのだ、と思う。一過性のものだろう頭痛など気にするようなものではない。
いまだ駅へと辿り着かない、片田舎の普通列車。そのボックス席で沼田と先庭は向かい合って、久方ぶりにゆっくりと話をしている。行き先が分からないことなど、今は気にならなかった。




