八 (4)
「葱生、大丈夫かい!」
駆け寄ってきたのは祖母だった。語気を荒げ、着物が汚れるのも構わず膝をつく。その腕に支えられて、葱生は体を起こした。咳をし、荒く呼吸を繰り返して酸素を取り戻す。感謝の意を込めながら祖母の顔を見ると、祖母は何も喋らずとも良いという風に、葱生の頭に手を置いて立ち上がった。
葱生は少女のいると思しき方へ顔を向けた。木の幹に体をもたせかけた少女の傍らに、葛西がいた。森の中でも波打った金髪が目立つ。少女の傷を見ているようだった。
そして祖母の隣には、天狗が立っていた。初日の夜以来会っていなかった天狗を低い目線から見ると、その体躯の大きさに改めて驚かされる。嘴に似た口を持つ黒い顔は険しい表情で引き締められている。がっしりとした腕は、天狗の身の丈よりも長い棒を構えていた。その先は、山猫が消えた先へと向けられている。その気迫は山猫の威嚇に劣らないように見えた。
祖母と葛西、天狗が来てくれた。それだけでもう大丈夫だという気がしてくる。先ほどは、駆けつけた天狗がその手の棒で山猫を不意打ちしたのだ。山猫は鳩尾に当たる部分を突かれ、いとも簡単に飛ばされた。あの大きな体が飛ぶとは思いもしなかった。
やや間を置いて、祖母、天狗、葛西に見据えられながら山猫が姿を現した。瞳のぎらつきは先ほどより鳴りを潜めているように見えた。それでも敵対心や警戒心を顕わにしながら、山猫は立ち止まる。
腕を組んだ祖母が口を開いた。
「どうしてこんなことをしたんだ」
厳しく重苦しい声音の問い。山猫はしばらく押し黙っていたが、観念したように口を開いた。その目線は地面へと落とされ、決して祖母のそれとは噛み合わないよう逸らされていた。
「……簡単なことだ。その人間を喰らってやろうと思った」
祖母は頷かなかった。代わりに天狗が棒を下ろさぬまま言葉を発する。
「ほう。では我がお前を喰らうとしよう……猫を喰らったことはまだない。何が良い、鍋か」
誰も笑わなかったし、天狗にも冗談を言って笑い飛ばすつもりはないようだった。ただ祖母は天狗を諌めるようにして続けた。
「まさかそんな理由で私が納得すると思ってはいないだろう? 毎年ここに療養に来ているお前が、不用意に宿泊客に手を出すはずがない」
山猫の説明に誰も納得していないようだった。
「これ以上暴れるつもりなら容赦しないが……どうする。おとなしく出て行くかい」
祖母の言葉に、葛西も少女を庇う形で立ち上がった。
三人の厳しい目に晒されて、しかし山猫に口を割る様子はなかった。視線を落としてしばらくそのままでいて、再び顔が上げられたときにはその目はひどく疲れているように見えた。瞬く間に、山猫の姿は人間のものに変わっていた。羽織を着た男の姿だ。両腕を落とし、葱生や少女にもう手は出さず、抵抗の意思がないことも示す。
祖母は右腕を前へかざした。開かれた手からは、紐に繋がれたほおずきが下がっていた。
「一年後のこの時期に、お前が望むなら答えを聞こう。それまでこの宿の主である私が、お前が結界内にいるのを許さない。自分が何をしたのか省みることだ」
そう通告して、祖母はほおずきを揺らした。鐘が鳴り響くかのごとく、ほおずきの音が大きく響き渡る。その余韻が浸透するに伴って、山猫の体が透けていった。山猫は驚いた様子で自身を見つめたが、暴れたり喚いたりはしなかった。ただ少女と葱生を一瞥した。その目からは何の感情も読み取れなかった。
そして最後にその姿は、ばつんと、電化製品の電源を切るがごとく掻き消えた。
そこに山猫がいた痕跡はなかった。
しばし沈黙が流れ、ただ風が皆の髪を掬っていく。
そこにはとうに上った太陽が葉の隙間から光を零す、爽やかな森だけがあった。
「……はぁ」
祖母が小さく息を吐き、そして慌てた様子で葱生を確認し始めた。そこに重苦しい空気を纏う祖母の姿はなかった。
「あの、こまは……」
「この結界から追い出した。ここには入って来られないし、動向はしばらく追うつもりだよ。それより葱生、大丈夫かい? 見たところ無事で良かった……」
葱生の肩や腕に触れて安堵の胸を撫で下ろす祖母は、どこにでもいる「孫を心配する祖母」だった。
葱生は頷く。まだ喉元に息苦しさはあったが、外傷はほとんど負っていなかった。せいぜいが打ち身や擦り傷だろう。それよりも、心配なのは少女の方だ。葱生が少女の様子を伺うと、ちょうど葛西が少女を負ぶっているところだった。葛西は葱生と目が合うと、大丈夫だと目で語った。
葛西は少女を連れて、旅館の方へと向かっていく。それを見てひどく安心した。手を伸ばして、鈴とほおずきを回収する。パーカーのポケットに戻した。
祖母と天狗に見守られながら、ともに旅館へ戻ろうと立ち上がろうとする。足に力を込めて、しかし、立てなかった。
二人は顔を見合わせて、会話することなく次の行動を決めた。声を上げる間もなく、葱生はひょいと天狗の背中に乗せられていた。
この年になって負ぶられることになるとは思わなかった。しかも、相手は人でなく天狗である。自分で歩けると主張しようにも、立てなかった以上説得力がなかった。顔を赤くしつつも、黙って背中に体重を預ける。天狗の背中は広く、暖かかった。




