表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ほおずきの宿 あやかし見聞録  作者: 綿津見
猫と鈴音
27/31

八 (3)


「小娘……お前から先に喰ってやろうか」


 山猫は苛立ちを募らせ、地を這うような暗い声で唸る。それでも葱生(そうき)に試みたのと同じく、いきなり仕留めようとはしていないようだった。地面に倒れる少女へ近づく様子はない。それが却って幸運なのかどうかは分からなかった。


 少女は木の幹に当たってぐったりとしていた。見るからに痛々しい姿に葱生は目を背けたくなる。それでも背けてはならないと強く思う。自分を助けに来たがためにこの少女を死なせたり、重症を負わせては悔やんでも悔やみきれない。


 しかしそもそもこの少女を逃す以前に、葱生自身も逃げられるか分からないのだった。隙を見て走り出したところで、山猫の脚力にあっという間に追いつかれてしまうだろう。不用意な逃走はきっと山猫の苛立ちを増長させて終わりだ。 


 山猫は少女がまた立ち上がって来るのを待っているようだった。少女が気絶したままでいれば、あるいは少女のことは見逃すかもしれなかった。葱生が素直に喰われることを条件に、少女を助けるよう提案することも選択肢としては思い浮かんだ。


 それでも葱生はこんなところで死にたくなかったし、山猫が約束を守り少女のことは助けるという保障もなかった。


 まともに向かっていって助かるとは思えない。このままでは二人とも喰われてしまう。考えろ、と葱生は逸る気持ちを抑えながら自身に念じる。


 身動ぎ一つしていなかった少女が、ぴくりと手を奮わせた。木の根元で体を支えながらふらふらと頭を起こす。視線をさ迷わせ、葱生を見つけてほっとしたような顔をした。ああ、そのまま気絶した振りをしていればまだ良かったかもしれないのにと思いながら、葱生は少女の琥珀色の目にどうしてか既視感を覚える。


 山猫もまた不可解に感じているようだった。葱生には背中を向けて少女を見ている。太い尻尾が苛立たしげに地面を叩く。


「なぜ歯向かう……お前はこっち側だろう。そんなにも喰われたいのか。なぜこいつを庇おうとする」


 低い声。尖る歯の隙間からさらに、どうせ裏切られるものを、と言葉が漏れる。その最後の部分は葱生の耳には届かなかった。


 少女は何も言わず、代わりにきっと山猫を睨みつけた。山猫を敵と見なしている顔だ。懐柔されそうな様子はない。満身創痍でありながらも屈しないとばかりに両目を強く吊り上げる。


「それならば望み通り」


 山猫は、強く地面を踏みつけた。衝撃が林を渡る。少女はそれでも目を瞑らなかった。

 前足が少女へ到達する前に、小さく、しかし確かに、鈴の音が響く。


「……こま」


 葱生は右手に赤い紐を握り、それに下がった鈴を鳴らす。夢で見た、そして先ほど山猫に遭遇する前に拾った鈴。旅館で何度か聞いた音でもある。


「こま、……聞こえる?」


 再び右手を振ると、りりん、と甲高い音がする。


 山猫は少女から離れ、ゆうらりと振り返った。眼は昏さの中で異様に光っていた。ふつふつと怒りが煮えたぎっている様子が遠目にも分かった。


 山猫の気を引ければ何でも良かった。今は少しでも時間稼ぎがしたかった葱生は必死だったが、声にその様子は反映させない。


「こま、分かる? 私よ。ずっと貴方と一緒にいた……」


 夢に見た少女を思い出す。と、意識せずとも少女が自身に重なっていく。唇を開けば考えもしないのに言葉が零れ出てくる。肩口にいた少女がすっと自分の中へ溶け込んでいったような、また夢に浸っているような感覚が甦ってきた。自分は夢の少女であり、夢の少女は自分になる。葱生はただ時間稼ぎをしようと精一杯で、自分が何を話しているのか分かっていないような状況だった。湧き出す言葉をそのまま放った。


 足音も風の音も掻き消すように、鈴が鳴る。


「あなたの名前、この紐に刺繍しておいたの……気づいてた? 懐かしい。とても」


 声は葱生のものであって葱生のものではない。こころなしか幼い、高い声音だ。


「こま、」


 重ねるように名前を呼んだ瞬間。


ダン、と音が地面を震わせる。飛ぶように距離を詰めて、山猫は気がつけば間近にいた。山猫が上半身を屈めて、葱生の顔に近づける。


「その、名を、呼ぶな」


 一語一語を脳に刻みつけるがごとく言う。上から叩きつけるような命令だった。生ぬるい息が頬を撫ぜる。


 葱生が身を恐怖で引きそうになるよりも、口を動かす感情の方が強かった。その感情は葱生の口角を上げさせようとする。恐怖よりも悲しみと嬉しさを感じる。


「ずっと会いたかった。あれからずっと探してた。生きていてくれて、良かった……」


 ごめんなさい、と。痛かったでしょう、辛かったでしょうと続ける。


 夢の少女の、胸が張り裂けそうな悲しみを我が事のように思い出す。小さな猫の飼い主でありながら、虐げられているところを守ることもできず、山で見つけ出すこともできなかった。ずっとずっと悔やみ続けていた。


 ただ謝りたかった。生きていて良かったと伝えたかった。湧き上がる思いのままに、山猫を抱きしめようと手を伸ばす。山猫の顔に触れそうになって、そこで葱生を、少女を受け入れるかのようにそれまで動かなかった山猫がぴくりと震えた。


 山猫は勢いよく、前足で葱生の胸を押した。抵抗することも出来ず葱生は倒れる。振動とともに強く背中を打つ。痛みが背を走ったが、辛うじて頭は打たずに済んだ。山猫は前足で葱生の胸を押さえつけたまま、より力を籠めた。


 かはっ、と葱生の肺から急速に空気が押し出される。


その圧迫感に脳は、肺は空気を求める。しかし押さえつけられた体がそれを許さない。山猫の額に残る傷跡がありありと見えた。


「思い上がるな、人間が……!」


 ありったけの憎悪を籠めたような声。吐き出された暗い感情が地を這っていく。


 酸素を求めて喘いでも、押しつぶされた肺には入ってこない。熱だけが喉元に溜まっていく。太く重い前足は、抵抗してみたところで剥がせるようなものではなかった。

 山猫の吼える声は、苦しさに喘ぐ葱生の耳に入っても意味を成さぬまま流れていく。


「理解したつもりになってしたり顔をする……愚か者であることをも知らぬ愚か者が……!」


 足の力は緩められるどころか寧ろ強まった。山猫の視線が牙よりも鋭く突き刺さる。


 視界が狭まり霞んでいく。目元にじわりと涙が滲む。葱生の伸ばした右腕は、虚しく落ちた。手も力を失って開かれる。


 そこから赤い紐が離れて、鈴が最後の音色を響かせた。


 それにやや遅れて、手のひらから現れたほおずきが転がる。からん、と、鈴の音色よりは軽い音が散らばっていく。鈴もほおずきも、立ち上がって移動しなければ取りにいけない場所へ行ってしまった。


 葱生は、自身がなぜこんな状況になっているのか未だに分からなかった。それでも、夢の少女は自身の内で何度も何度も謝り続けていた。それと同時に飼い猫であった、愛しい友人であった山猫が生きていたことを喜んでいるのだった。夢の少女の魂が残滓としてでも残っていて葱生に乗り移ったのか。それともただ夢を引きずるようにして、葱生が思い込んでいるだけなのか。それは分からない。分からないが、


「ごめんなさい、ありがとう。どうか、これからは幸せに」


 最後にこれだけはと望む少女に身を委ねて、葱生は小さく唇を動かした。声は出なかった。口の動きだけで、少女の思いは果たして伝わったのか。


 山猫は何も言わなかった。ただ目を大きく見開き、それから瞳孔をよりいっそう細くした。


 ──ああ、時間稼ぎはできただろうか。


 もうやれることは何もなさそうだ。葱生はゆっくりと瞼を下ろした。鈴の音色に隠して鳴らしていたほおずきは手を離れてしまった。山猫の足が葱生の上から退かない限り、もう鳴らせない。先庭の部屋で鳴らしたのと同様に、祖母や他の者に気づいて欲しいと願って密かに鳴らしていたのだった。少女はそれよりも前に駆けつけてくれたが、そのせいで却って怪我を負わせてしまった。あの小さな体で、木に叩きつけられては酷く応えただろう。今もまだ横になっている。

 ほおずきの音に気づいて祖母が来てくれたとしても、こんな巨大な山猫に対処できる保証はない。それでも「私の目の黒いうちは大丈夫」だと述べた祖母のことを信じて、頼りたかった。この旅館の主のことを。


「──葱生!」


 叫ぶ声がして、直後、体がすっと軽くなった。


 先ほど少女が飛ばされたのと同じ衝撃が、今度は山猫を襲っていた。山猫の巨体は宙に浮かされ、体を反転させて木々の間へ消えていった。地面を擦れる大きな音が森を揺らした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ