八 (2)
葱生は体を起こした。どのくらい眠っていたのかは定かではなかった。目線を遣らずに腕だけをさ迷わせて、脱いでいたパーカーを掴んだ。そのまま羽織る。障子を開くと朝日が眩しかった。声は上げずに、ただ目を細める。
遠くで鈴の音が聞こえた気がした。その余韻が体の内に浸透していく。
縁側から片足を浮かした。そのまま地面へと下ろす。靴下も履いていない足が土に汚れてしまうなどと、そういったことは考えなかった。幸い、ちょうどそこに雪駄が置かれていた。都合が良いとそのまま履いていく。
一歩一歩足を動かす。鈴の音に呼ばれている感じがする。
先ほどの夢の内容はすべて覚えていた。これが夢の続きであるような気がしていた。
玄関前を回る。一面に敷き詰められた白い小石を雪駄で踏むと、じゃり、と軽い音が弾む。普段なら楽しいと感じるものの、今はただ単なる音としか思えなかった。それよりも早く鈴の音のする方に行かなくてはならない。
昨日、先庭を探しにきた林の方に辿りついた。幹に手をつけながらその中を通り、抜けると開けた場所に出る。向こうに温泉の壁が見えたが、それ以外の三方は木に囲まれていた。旅館の建物付近にいればそこからは見つけられなさそうな隠れた場所だ。
すぐ足元に何か赤いものを見つけて、葱生は拾い上げた。赤い紐で、鈴が通されていた。だいぶ黒ずんだ鈴だったが、鳴らすと軽やかな音がした。
自分をずっと呼んでいたのはこれだ。
葱生は隅々まで確認するようにそれを見る。
ふっと顔を上げると、目の前に人が立っていた。互いに数歩歩み寄れば握手のできそうな距離だ。その人物は背が高く、体格も良かった。若くはないが、老いているというようにも見えない。暗い色合いの着物の上に羽織を纏っている。黒髪は肩につかない長さで、その奥の頬に、深い傷の痕があった。
「やっと来たか」
その人物は冷たい、低い声でそう言った。射すくめられて、葱生は背中にちりちりと走るものを感じた。静電気のような嫌な感覚。これは、以前にも一度感じたことがある。それでもそんな感覚には構わず、
──やっと会えた、と思った。
不思議な気分だった。明らかに相手は敵意を向けてきているし、それを身体は鋭敏に察している。なぜここまで来たのかも分からない。だが、逃げなければいけないとは思わなかった。どこか朦朧とした頭に、ふわふわとした喜びの感情が湧き上がる。それが先の感情を麻痺させる。
目の前の人物は少しずつ、少しずつ近寄ってきていた。雪駄がざり、と土を擦って音を立てる。
瞬きをすると、その姿が変わっていた。
虎のような、いや虎よりも大きい、猫だった。
動物園でも見たことのないような大きさである。その体で葱生を軽く踏み潰せそうだ。全身、灰と黒の混ざった長い毛に覆われていた。顔や背中に、いくつも傷痕があるのが分かる。
大きな瞳は縦に黒く筋が入っていた。知性と言うよりもっと昏い何かを感じる。ずっと見ているとその澱みに足を取られてしまいそうだ。
山猫が一歩踏み出すごとに、長い爪が存在を主張した。
「やっと、お前を喰らうことができる」
待ち侘びた。山猫は低い、ざらついた声音で言った。
猫が人の言語を喋っても、見たことのない大きさをしていても、最早驚かなかった。
葱生は逃げない。逃げられない。足が動かなかった。頭の片隅で、理性も本能も甲高く警鐘を鳴らしている。喰らう──食べられる。妖は他の妖や人間を喰うという。祖母の言葉を思い出す。
肌に刺さるような敵意に、捕食を容易く可能にしそうな牙と爪。危険を自覚していながら、やはりこのままでいるべきだと何かが囁いていた。まだ夢の底にいるような気分で、その声の主を悟った。赤い振袖を纏った彼女だ。夢で葱生と同化していた存在。その少女が葱生の肩へ両手を置いて、囁いている。どうか逃げないで、まだここにいて、と。
山猫は驚異的な跳躍力を持って、最後の一歩を詰めた。そして葱生の眼前で、まるで見せつけるようにその口を開けた。鋭い歯が見える。それを、葱生の首元へ突き立てようとする。迷いのない動きだった。
生ぬるい風が顔に当たる。
ああ、喰われて死ぬな。
妙に時を緩やかに感じる中で、他人事のようにそんなことを思った。
死にたくない。もう十分だと思えるほど生きてもいない。ほおずきの宿だって知ったばかりだ。やりたいことも沢山ある。痛いのだって嫌だ。次々と思いが湧き出てくる。それでも、そんな様々なことを考える自分すらも、どこか俯瞰の状態で眺めていた。葱生の表情は夢から覚めた、いや、夢の続きを見ているところから、変わらない。
泣き叫ぶ代わりに、言葉が口から零れ出る。
「……こま」
名前を呼んだ。
喉笛に切っ先を突き立てていた牙が止まり、わずかに離れる。歯の数だけ首に痕が残り、噛まれこそしなかったもののじわりと血が滲んだ。痛い。
「……お前……その名をどこで……」
山猫の唸りにも似た声。憎しみが黒く黒く滲む。
やはり、夢で見た猫と、目の前の山猫は同じだった。どうしてあんな夢を見たのかは分からない。あの夢が葱生の想像の産物なのか、実際にあった出来事なのかも分からない。なぜ、自分が喰われ、殺されそうになっているのかも。ただ、飼い主であった少女がずっと葱生の肩に手を置き続けていて、夢の続きを見させるのだった。その姿が目に見えるわけではない。ただ、そう感じるのだ。少女の思いが我がことのように感じ取れる。今、少女は自分であると言っても良い。
山猫に鈴のついた紐を、猫の名が刺繍された紐を、見せてやろうと思った。飼い主の少女が紐の内側に、愛すべき猫の名を刻んでいたことを。その名を呼びながら、いつまでもその猫を探していたことを。ふらりと右腕を上げかけたとき、
がくん、と膝が落ちた。同時に後ろに引っ張る強い力を感じる。喉に強い圧迫感を覚え、後ろに倒れこみながら葱生は強く咳き込んだ。
葱生のパーカーのフードを引いた影は、それをぱっと離して葱生の前へと出た。咳き込んで涙に滲む視界にその姿を捉える。
十歳にいくかいかないかといった見目の、少女。
細い手足。外だというのに裸足で、白いワンピースを纏っている。肩につく程度の黒髪は、真っ直ぐではなく波打って広がっていた。少女は半袖から伸びる両手を真横へと張っている。葱生からは小さな背中だけが見える。
それはまるで、懸命に葱生を守ろうとしているようで。
「…………っ」
目が覚めた。
夢の少女と自分は違う。向けられる理由のない敵意におとなしく従う謂れはない。鈴の音色を使ってここまで誘き寄せられてしまったが、喰われるわけにはいかなかった。自分が喰われたら、目の前で両手をかざしているこの子さえも食べられてしまう。葱生よりも細い手足が抵抗できるとは到底思えなかった。その肩は震えているようにも見えた。
そして案の定、
「小娘が……!」
放心から解けた山猫が、苛立ちの籠もった声音と共に少女の胴体をなぎ払う。いとも容易く少女は地面へと投げ出された。土に擦れる嫌な音がして、少女はワンピースを土埃に汚しながら転がっていく。悲鳴すらあげられないようだった。
咄嗟に葱生は立ち上がる。首元に手をやれば微かに滲んだ血が指につく。あと少し遅ければ食い千切られて死んでいた。
今更機能し始める理性が緊張で呼吸を荒くする。立ち上がって、山猫から目を離さないまま少女のいる方へと少し移動した。旅館からは遠ざかってしまったが、どこからか駆けつけてくれた少女を置いては逃げられなかった。
山猫は葱生には意識を向けていなかった。少女を忌々しそうに見つめている。しかし先ほどのように跳躍し、少女の喉笛に喰らいつこうとする素振りは見せなかった。虎よりも大きな足を一歩前へ出すだけで、大きな圧を与える。
緊張を覚えて額に汗が滲むのを感じる。葱生の視界の隅で、少女がよろよろと立ち上がるのを捉えた。駆け寄って助けたいが、山猫の視線が刃物を刺すように鋭く放たれている。
少女のワンピースは土に塗れ、髪はいっそう広がって絡まっていた。肘や膝から血が出ているのが見える。肩で息をしているし足元はおぼつかなくなっている。それでも少女は葱生の前へと出ようとするのだった。
少女が自身の方へぎこちなく向かってくるのを見て、葱生はそれを止めようと目で訴える。しかし少女と視線は噛み合わない。少女はただただこちらへと顔を向けているはずなのに、目だけが合わない。痛みに顔を顰めながらも自身のことを省みている様子はなかった。なぜこんなにも葱生を守ろうとしてくれるのか。葱生よりも遥かに小さな体躯だというのに。
引きずるような不自然な歩き方で少女は少しずつ進んでいたが、不意に足元の小石につんのめる。驚きに見開かれ丸くなる瞳。琥珀色が残像を残しながら落下していく。
「止、めろ……!」
思わず搾り出すように声が出た。しかしその声は何の抑止力も持たない。
倒れていく少女の体の前に、不意に山猫の足が差し込まれ、強く飛ばした。再び転がっていく軽い体。まるで石ころを蹴飛ばしたかのごとく簡単に。
山猫はそれを追わなかった。ただ視線で射殺そうとするかのように少女を見つめていた。




