八 (1)
夢を見た。
視界はどこかセピアがかっていた。
不思議に思って右手を目の前にかざすと、記憶にある自分の手よりもだいぶ小さく、ふっくらとしていた。Tシャツで寝たはずなのに、手首より上は袖で覆われている。大振りの花が散らされた赤い布地。長く垂れ下がった部分が、腕を動かすたびに揺れる。下ろしたての着物だった。そういえばこれを着るのを楽しみにしていたのだった、と口元を綻ばせる。母が選んでくれて、周りも似合うだろうと称賛してくれたものだった。
握った手のひらの中には鈴と、赤い紐。落としてしまわないように注意しながら、木の幹を伝って塀近くまでやって来る。きょろきょろと辺りを見回して誰もいないことを確認すると、そうっと門を出ていく。一度出てしまえばこっちのものだ。気持ちとともに髪が跳ねる。
竹やぶへと向かった。
青々と伸びる竹の合間を縫って、視線をさ迷わせる。口に手を添えて、名前を呼ぶ。
幾ばくかして、小さな猫が顔を見せた。嬉しくなってもう一度、名前で呼びかける。自分のことを指している自覚がないのか、きょとんとした眼差しだけを返す猫。
近寄って、猫を腕に抱え込む。長い毛に覆われた頭を撫でてやる。知っている猫よりもだいぶ毛が長く、傍目に温和な雰囲気はないのだが、抱きしめても抵抗しないし、こうしているといつも癒される。
ふと存在を思い出して、手のひらに握っていた紐と鈴を猫に見せた。少し幅の太い紐と、小さな金色の鈴だ。鈴を紐へと通し、さらにその紐を猫の首へかけてやる。苦しくないか確認して、満ち足りた気分になった。これで、父に見せても納得してもらえるだろう。どこからどう見ても飼い猫だ。
もう一度猫を抱え上げて、家の方角へと踵を返した。
不幸ばかりが続いた。
まず、女中の一人が病に倒れた。主従の関係を無視して看病をしていた母もやはり病魔に侵された。それを柱の影から見ていた。近寄ってはいけないときつく言い含められていたのだ。自分にできそうなことは何もない。父は気難しそうに考え込んだり、八つ当たりに言い散らすことが多くなった。寂しさを埋めるように猫と戯れた。言わずとも機微を察してくれる、賢い猫だった。
一人また一人と、召使たちが病床に伏せていく。自分までやられてはたまらないと去っていく者も多くなった。近所に慕われ、あんなに賑やかだった屋敷が急速に静かになっていった。それは冷たい静けさだった。
隣町に優秀な医者がいるという噂を兄が聞きつけてきた。久々に明るい顔をして、その医者さえいれば皆助かると言う。そうして数人の召使を引き連れて、意気揚々と出かけていった。
けれど、事故に遭ってしまった。医者に会う前に道半ばにして死んだ兄の顔は、明るい気性が嘘のように無表情に見えた。
その衝撃が大きかったのか、母も後を追うようにして亡くなった。病と闘う気力が失せてしまったのだろうと誰かが言った。
父はますます塞ぎこんだ。眠れないと言って晩酌の量も増える。かつて甲斐甲斐しくお酌をしてくれた人の姿がないことに気づいて、最終的に徳利は壁へと飛んだ。陶器が砕け散る音を遠くに聞いて、思わず泣き出しそうになる。代わりに猫をぎゅっと抱きしめた。慰めるように猫は鳴いた。
自分だけは明るくいようと華やかな着物ばかり選んで着た。病は気から来るのだと、口にこそしなかったが示そうと思っていた。不謹慎だと避難する人はいない。召使はますます少なくなっていた。
そして、ついに父まで病にやられた。
どうしてこんなことになったのかと泣き喚きたかった。それでも父を心配させまいと、父の前では笑っていた。うまく笑えていたかは分からないけれど。
父はろくに栄養もとらず痩せた腕を出してきた。その腕を両手で包み込む。目だけが変に光っている。父は目を細めて、そして直後、驚いたように見開いた。その視線の先には猫がいた。
あの猫を殺せ、と父は言った。あの猫が来てから全てがおかしくなった。
否定するも、錯乱した父の耳には届かない。父を絶対とする召使たちは、同情の視線をこちらに向けながら、それでも父の命に従った。猫を連れて行かせまいと、着物が乱れるのも構わず暴れた。自分よりも圧倒的に大きな腕に押さえ込まれて、離れに閉じ込められた。
離れは暗くじめっとしていた。幼い頃にも、兄と一緒にここに入れられたことがあった。悪戯が過ぎて、反省するまで出さないと言われて閉じこめられたのだ。あの時はどれだけ泣いても、夕方まで出してもらえなかった。泣き声が大人に届かないのを確認すると、無駄に大声を上げているのが馬鹿らしくなってしまって、兄と中にある物を見て回った。高い場所に明り取りの窓があるのを、そのときに確認していた。物を積み上げればそこから出られそうだということも。
散らばる木箱を必死に持ち上げて、積み重ねていく。細い腕、動きづらい着物ではいっそう大変な作業だった。それでも諦めるわけにはいかない。木箱で何とか高さを稼いでその上に乗る。足元がひどくぐらつく。
何とか外へ出られたときには、髪は乱れ、足を打ち、腕に傷を作っていた。それでも走った。
先ほどの召使を捕まえて、猫をどこへやったのか問いただす。離れを自力で出てきたことに驚いた様子だったが、早く言うように命令すると、視線を逸らしながら口を開いた。
打ち据えて、竹やぶへ捨ててきたと言った。
捨てる。選ばれた言葉に頭の中が真っ白になる。召使が何か言いかけた。それを聞く間も惜しんで門へと走った。
猫のせいで病気が広まったはずがない。あの子が悪霊だということは有り得ない。ずっと、傍にいて、自分を励ましてくれていたのだ。自分がこれ以上底へ落ち込まないように、繋ぎとめてくれていたのだ。一番近くにいた者がそう言うのだからそれ以外に何の答えがある。
竹やぶへと走った。息が切れる。喉が焼けついて痛い。それでも竹の間を探し回った。見慣れた姿がいないかと。
謝罪をしなければと思った。冤罪から守れなかったことを何より謝らなければならなかった。
痛む喉で猫の名を呼んだけれど、応える鳴き声はなかった。泣き叫ぶ声が虚しく広がっていくだけだ。山へ山へと入っていった先は足元が不安定で、ついに躓いた。咄嗟に何かに掴まることもできずに斜面を転がる。やっと止まったところで、伸ばした腕の先に、点々と滴る血の跡を見た。
大怪我を負った猫が、出血を止められないままに移動し続けているのではないか。そう思って跡を追い始めた。人間の自分と小柄な猫では、圧倒的な体格差がある。木と木の間の限りなく細い隙間に跡を見つけたりしながら、目を皿のようにして手がかりを探し、何とか進もうとした。けれど突如現れた細い川によって、血は途切れてしまっていた。
そこで力尽きて、捜索に向かっていた召使たちに連れて帰られる。離れとは別の、逃げ出しようのない部屋に閉じ込められた。
衰弱で逃走を試みる体力もなく、三日間寝込んだ。
そうしているうちに医者がやって来たらしかった。父の病気は回復に向かった。他に誰一人として、新たに病にかかる者はなく、皆徐々に良くなっていった。
探せども探せども猫は見つからなかった。血の跡は雨によってすぐに洗い流されてしまったようだ。
父や他の召使たちに猫のことはもう一切話さなかった。心を許した医者にだけ語ると、死んでしまったのだろうと悲しそうな顔をした。猫は死ぬところを人に見せまいとするからと。医者は動物好きなのか、心からの同情を示しながらも、猫の来世での幸せを願うべきだと語った。
納得できなかった。納得してはいけないと思った。冷たい布団の中で、猫の名前を呼びながら一人泣いた。
夢を見ていた。
夢のような気がしなかった。




