七 (2)
鈍器のごとく振り上げられたそれは──しかし、下ろされることはなかった。
葱生の脇をすり抜けていった影が、行灯を、持っていた本人を飛ばす。
綺麗な一本背負いだった。
衝撃はいく分か畳に吸収されたものの、それでも大きな音が鳴る。
沼田はなす術もなく、強く打ち付けられて伏せていた。畳の上に大の字状態になってしまっている。
その背中に、現れた人物は座り込んだ。公園のベンチにでも座り込むような気軽さだった。それから沼田の頬をぺしぺしと叩く。沼田は呻くだけで、目を開けなかった。どうやら気を失ってしまったらしい。
「あら、ちょっと強くやり過ぎた? 真純に怒られるかしら……」
「……葛西さん」
葱生が声をかけると、伸びた沼田の上に座り込んだ葛西が悪戯っぽく笑った。波打った金髪の奥の瞳が光る。
「葱生くん。こんばんは」
こんばんは、とそのまま返すような事態ではない。
自分ではどうにも出来なかったにせよ、気絶するほどの衝撃を与えられた沼田に思わず同情を感じたし、突然現れて沼田を飛ばした葛西に、ほおずきの音に呼ばれてきたのかと色々尋ねたくもあった。しかし、まず何よりも先にしなければいけないことがあった。
葱生は立ち上がり、部屋の奥へ足を向ける。
壁際にいる、それ──いや、彼女と呼ぶべきか。一歩も動かず、体勢は先ほどからずっと変わらぬまま。布団の上に浴衣姿で座り込み、その肩から長い長い首を伸ばしている。それは何度見ても、人とは思えぬ白さを暗闇に浮き立たせている。
葱生が近づいていくのを感じたらしい、彼女はまた肩を震わせた。その挙動は怯えているようにも見えた。許されそうなぎりぎりの位置まで近づいて、葱生は足を止めた。彼女の肩でも首でもなく、髪の向こうにあるだろう顔を見る。
開いた口はからからに渇いていた。
「……先庭さん。ですよね」
返事はない。それでも葱生は続ける。
「ろくろ首なんでしょう? 先庭さんが襲われた訳でも、喰われた訳でもなくて、先庭さん自身がろくろ首……」
微かに、髪が揺れた。少しずつ少しずつ、波打つように首が動いて髪の奥の顔が正面を向く。止め処なく涙の伝う、先庭の顔がそこにあった。昼間に会った時からは想像もできなかった、悲嘆に暮れた表情をしている。その唇が薄く開かれる。唇が何か動いたが、音にはならなかった。
ろくろ首は──先庭は、幾度か唇を動かして声を出すのを諦めたのか、ゆっくりと、恐る恐る頷いた。
ああ、……ああ、やっぱり。
膝が崩れ落ちそうになるのを葱生は堪えた。
さしたる根拠はなかった。ただこれだけ妖怪の溢れるこの旅館に、宿泊客へ害をなす存在がいるとは思えなかった。
改めて先庭を見れば、髪形や服装が変わっているわけでもなく、首の長さが違うというそれだけだった。それだけだが、その一点が、彼女という存在を決定的に、人間という枠には入れられないものとしてしまっていた。
これまで妖怪など一度も見たことのない沼田には、まさか自分の連れが、さらに言えば幼い頃より馴染んだ従兄妹が、妖怪であるなどと思いもしなかったのだろう。気絶させられた今、起こして事実を説明したとしても沼田がそれを許容できるか分からない。少し前の葱生も同じだっただろう。沼田にとって、妖怪は物語の中にだけ存在するものだ。それすらももしかすれば、くだらない話だと馬鹿にしていたかもしれない。
従兄妹がいるはずの部屋に、代わりにある、この世のものとは思えないもの。それを化け物として即座に排除しにかかった沼田の行動は、考えの足りない行動ではあったが、一概に非難することのできないものでもあった。
葱生の肩にぽんと手が置かれた。重みを感じて後ろを見ると、傍らに祖母が立っていた。深夜にも関わらず、宣言通りほおずきの音で来てくれたのだろう。
祖母の到着を確認し、葛西が立ち上がった。前に出て布団の上に座る。
そして、浴衣姿の先庭を躊躇いなく抱きしめた。子どもをあやすように、片手で背中を叩く。
「大丈夫。大丈夫よ」
とん、とん、と規則正しい手に、先庭は戸惑ったようだった。長い首を回して、自身を抱きしめる葛西をまじまじと見る。
一体この人は誰なのか。葛西が唐突に現れて自身の従兄妹を投げ飛ばしたという現状を、まだ受け入れられていないようにも見えた。
それを分かっているのかいないのか、葛西は自分の行動については何も言わず、また先庭にも何も尋ねなかった。ただほとんど身長の変わらない先庭を抱きしめたまま、背中を叩き続ける。
先庭はされるがままにしていたが、やがて肩の震えが大きくなって、しゃくり上げた。ついに人目も憚らずに声を上げて泣き出した。全てを吐き出そうとするような、子供のような泣き方である。
「大丈夫」
と、葛西が穏やかに繰り返す。
数時間前までの静寂からは想像もできない騒がしさ。ただ事態を見つめる葱生を、祖母が呼んだ。
「葱生」
「……はい」
「何て顔してるんだい。よく呼んでくれたね」
皺のある手が頭に乗せられ、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱される。こんなことをされたのは子どものとき以来だった。泣いていいのか笑っていいのか分からない。
祖母はなぜだか満足そうに頷いて、真剣な眼差しに戻った。
「でもまだ終わりじゃない。葱生の二つ隣の部屋……『桜の間』に行って、薬師を呼んできておくれ。多分まだ起きている。『二日分を、いますぐ』って言えば伝わるから」
事情は飲み込めなかったもののひとまず頷いて、葱生は部屋を出た。廊下に明かりはつけられていない。ただ進んだ先の突き当たり、壁のくぼんだ箇所に蝋燭がつけられている。まずはそれを目指す。
壁に手を添えて伝うようにして進んだ。階段を上りきると、葱生の二つ隣の部屋はすぐだ。「桜の間」……木札を読み取り、障子の奥に呼びかける。幸い部屋に明かりが点いていたので、間違って別の部屋に声をかけてしまう心配はなかった。時刻は午前二時を回っているが、まだ起きているようだ。祖母も、薬師は起きているものと考えていたし、普段から随分と夜更かしする性質なようだった。
「薬師さん。遅くにすみません、葱生です」
「……はい! ちょっとお待ちを!」
やや間を置いて声が聞こえて、ばたばたとした音のあと障子が開いた。慌てたように頭の後ろで紐を結びながら、薬師が顔を見せる。正確には、顔の前の半紙を、だが。
「坊ちゃん。こんな夜更けにどうしたんです?」
「下でちょっとごたごたがあって……祖母が薬師さんを呼んできてって。あの、先庭さんがろくろ首だったんですけど、それを見て勘違いした沼田さんが先庭さんに殴りかかろうとして、葛西さんに投げ飛ばされて気絶して、今、葛西さんが先庭さんを落ち着かせようとしてます……」
「なるほど?」
葱生のまとまっていない説明に、薬師は分かったのか分かっていないのか曖昧な返事をした。部屋に戻り、ちょいちょい、と葱生も招き入れる。
部屋の中には物が溢れていた。枝が紐でくくられていたり、新聞紙の上に葉が積んであったり、様々な風呂敷が置いてあったり。それらを白い光が満遍なく照らしている。同じ旅館の部屋を使っているとは思えないほど、室内には私物が多くあった。
薬師は座卓を、部屋の奥まで持っていって使っているようだ。その上に散らばる何かを手に抱え込んでいく。
「坊ちゃん、あと何か女将は言ってませんでした?」
「あ……あと、『二日分を、いますぐ』って」
「二日分!」
それはそれは、と独り言のように言いながら、薬師は手早く準備を終えた。すり鉢のような器や布の小袋を持っている。何か手伝いましょうかと葱生が申し出ると、
「じゃあこれ、お願いします」
渡されたのはいくつかの小袋と、二本の瓶だった。瓶の表面には「コーヒー牛乳」と書いてあった。銭湯によく置いてある、昔懐かしい形の小さな瓶だ。蓋は開けられておらず、中身もコーヒー牛乳そのものに見えた。先庭と沼田にあげるのだろうか。目を白黒させつつ、葱生は薬師を先導して一階へ戻る。
先庭の部屋は明かりが点けられていた。
先庭はだいぶ落ち着いて、もう涙を流してはいなかった。顔には泣き腫らした跡が見られるが、首は元の長さに戻っている。元の長さ、つまりどこからどう見ても人間らしい長さである。先庭は葱生が昼間会ったときと何ら変わらぬ姿で、布団の上に座り込んでいた。その隣で葛西が色々と話しかけている。
沼田は、押入れから引っ張り出してきたのだろう布団に横になっていた。祖母と葛西で移動させたのだろうか。一度は持ち上げられたのだろうが、目を覚ます気配はなかった。
「お待たせしました、と」
薬師と葱生は部屋の中に入っていく。
先庭は視線を上げて、やや呆然としたように薬師を見る。顔を半紙で隠していることに驚いたらしい。葱生は薬師の見た目に慣れつつあったが、仮装パーティーでもないのに顔を隠しているというのはやはり奇怪に感じるようだ。
薬師は荷物を下ろして、先庭の真正面に座り込んだ。葱生はどうしたら良いか分からず、座卓の上に荷物を置いて見守る。
「さて。女将から話は聞きました?」
薬師は祖母の方にも視線を遣りながら、先庭に尋ねた。気さくな、軽い口調だった。祖母が頷き、先庭もゆっくりと首を縦に振る。
「本当に良いんですね?」
念押しに、先庭は躊躇する素振りを見せたが、それは一瞬のことだった。頷いて、唇を開く。
「……お願いします。その方が、正次郎くんにも、良いと思うから」
先庭の声はひどく掠れていて聞き取りづらかった。それでもその場にいる全員の耳に届いた。
「了解です」
薬師は首を回して葱生を呼んだ。葱生は持ってきた小袋と瓶を持って、薬師の隣に向かった。薬師はすり鉢を置いて、それに小袋の中身を少しずつ投入していく。薬師に指差されるままに、葱生は散らばる小袋の口を開け、薬師に手渡していった。
すりこぎでかき混ぜられて、すり鉢の中身は赤茶色の粉になった。あまりにも濃い色だが、薬、なのだろう。薬師という名の通り、薬を扱う人物なのだからそれにも納得できるし、まさかこんなに大勢の人の前で毒を飲ませるわけがない。その薬を先庭に飲ませるのだろうかと思ったが、薬師が指示したのは沼田だった。横になった沼田の頭の下に枕を入れ、さらに腕で持ち上げて高く上げる。
薬師は粉を小さじで掬うと、水差しの水とともに少しずつ沼田に飲ませていった。先庭はそれを、じっと見つめている。瞬きひとつしなかった。
一体何の薬なのか。今聞くべきか、後で聞くべきか。迷って、葱生は結局この場で聞き出せなかった。




