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ほおずきの宿 あやかし見聞録  作者: 綿津見
猫と鈴音
22/31

七 (1)



 先庭の部屋は隣室同様、縦に長い作りになっていた。引かれた障子からは、暗い部屋の全貌を見てとることはできない。照明は点けられておらず、月明かりは部屋の中までは届いていなかった。ただずっと暗い部屋で待機していたせいで、少し時間が経つのを待てば夜目も利きそうだった。


 沼田が部屋へと踏み込んで、葱生(そうき)も後に続く。


 葱生の目にふと入ってきたのは、すぐ足元にあった行灯だった。横向きに倒れていて、その弾みで中の火が消えたのだろう、温もりは全く感じられない。先ほどの音はこれが倒れたせいだろうか、と葱生は考える。火が畳や框に移らなかったのは幸いだ。しかし、箱型に作られたこれが倒れたのだとしたら何故なのか。自然と倒れそうには見えない。


 疑問を抱きながら視線を外して、葱生は沼田が立ち止まっているのに気づいた。


「……沼田さん?」


 小さく尋ねて、横に並ぶ。

 沼田は答えない。その見開いた両目が向かう先を、そろそろとなぞるようにして追う。そして葱生も、言葉を失った。


 部屋の奥、闇に溶け込むような暗がりに、横向きに布団が敷かれていた。


 乱れた掛け布団の上に座り込む一つの影。彼女は旅館に備え付けの、細い水色の線が入った浴衣を着用している。


 やや緩んだ襟元から伸びるのは、浮き上がるほどに白い、長い長い首。


 それは長すぎて、到底、人間のものとは思えないような。


 しかし人間の形をした、胴体、手足、そして肩のあるものから伸びているのだった。


 普段見慣れているものの一部が変わってしまっただけであるはずなのに、強烈な違和感が背筋を走る。


 部屋の壁に沿うように伸び、うねっている白さは、骨が入っているとは思えない。形容するなら、昔話の蛇だ。


「────っ」


 声が出ない。沼田もまた声を発さない。


 部屋を出ようにも、影を縫いとめられたかのように動けなかった。

 ただ辛うじて目だけを動かして、細く長い首の先を見る。


 首の先に繋がっている頭は、やはり人間のそれと変わらない。俯きがちな横顔は、葱生と沼田よりも高い位置にあった。黒く長い髪に遮られて、その顔を、表情を見ることはできない。


 網膜に張り付くような白さを、葱生はそれでもじっと見た。思考が停止しそうになる中で、顔を覆うように広げられた黒髪と、肩、そしてそれをうねりながら繋ぐ首を視界に収める。それらは、動かない。まるで時が止まったかのように、葱生も沼田もまた動けない。


「…………あ」


 音を発したのは、沼田だった。喉下から搾り出すような、気をつけなければ拾えない声だった。

 その声に反応したのは葱生だけではなかった。布団の上で身動ぎしなかった影が、びくりと震える。一瞬だったが、葱生はたしかにそれを見た。


「……け、……」

「え?」


 葱生の唇から零れ出た音は、それを聞き返すものではなかった。もう一度言って欲しいという気持ちからではなく、沼田の言葉が信じられなかったゆえに、零れ落ちてしまったものだった。

 そしてそれ同様に、一度流れ出た水は、止まらない。


「──、化け物……!」


 沼田の言葉は、堰を切って溢れ出す。


「……お前、菜穂を、菜穂をどこにやった。菜穂を返せ……!」


 沼田は震えながらも、右足を一歩前に出す。重心がずれてぐらりと今にも倒れそうになる。暗闇の中に、目を爛々と光らせて沼田はそれを見据える。目に覗くのは怯えよりも強大な怒りだった。


「知ってるんだろう。菜穂をどうした……答えろ化け物……!」


 重ねられた青い炎のような言葉に、白い首がゆうらりと動く。決して滑らかとは言いがたい、ぎこちない動き。黒髪が首の上部を流れるが、それでもなお顔は見えない。そこにある口元を動かす素振りも見えず、それがいっそう沼田を焦らせる。


 部屋の中には、先庭がいるはずだった。沼田のよく知る従姉妹が。早まったことをしようとしていたのなら、頬を張ってでも、あるいは抱きしめてでも止めようと思っていた。物音は勘違いで深夜に押しかけたことを驚かせたなら、平謝りでも何でもしようと思っていた。


 違う。


 壁いっぱいに伸びる、細く長い首──何かを脳裏に刷り込むような白さ。どう捉えても人ではないもの。


 違う。


 では、先庭はどこに行ったのか。

 目の前にあるのは、ただ、人ならざるもの。


「菜穂……!」


 悲痛な叫びが、相手を失って床へと落ちていく。それが足元に澱みを作る。暗闇よりも暗い何かが沼田の足元を覆う。

 気だるげにも見える緩慢な動作で、沼田は部屋全体を見渡した。そしてそのまま、戸の方向へと足を進める。右手をさ迷わせ、手の平が先を求めてふらついた。


「沼田さん」


 葱生は振り返り、声を発する。あれだけ硬直していたのが、今は動くことができた。揺らめく炎のような沼田の背中を見る。


 沼田は、部屋の入り口にあった、行灯の框を手に取ったところだった。


「沼田さん!」


 意識せずとも、より大きな声が出た。嫌な汗が額を伝う。


 沼田は答えず、ただ手首の力で行灯を揺らす。中に炎がなければ、それは照明器具ではなくただの木框だ。それを手にして部屋の奥へと戻って来ようとする沼田を、葱生は遮る。


「やめてください、何する気ですか……先庭さんは……」


 沼田は口を噤んだまま、葱生を肩で押しやる。葱生の言葉など何も聞こえていないかのように、ゆっくりと、しかし着実に歩を進めようとする。


「沼田さん……!」


 葱生は力づくで止めようとして、沼田の腕を掴んだ。

 沼田はその木の塊で、先庭を奪った相手に殴りかかるつもりらしかった。それだけは絶対に、絶対に止めなければならないと思った。今の沼田は聞く耳を持たない。それでも止めなければならない。沼田の方が体格が大きく、葱生が縋るかのような形になる。


 その光景を、細く長い首の主は、ただ見つめていた。いや、顔が隠れていた以上、本当に見ていたのかは分からない。ただ逃げも隠れもしなかった。観念したのか、待ち構えているのか。


「止めんな」


 沼田は吐き捨てるように言って、葱生を引き剥がした。弾みで、葱生は後ろに倒れこむ。それを見下ろした沼田の両目は、吊り上げられているのに今にも泣きそうだった。


「…………」


 葱生は何も言えず。ただ、背中を向けてゆっくりと進む沼田を見ながら、パーカーのポケットに手を入れた。倒れたときに弾みで音のしたほおずきを、また、鳴らす。


 沼田には、ほおずきの音色は聞こえないようだった。からん、からんと軽やかな音が、脳内に直接届けられる。


「やめてください。やめましょう。……先庭さんが、悲しんでます」


 沼田は部屋の奥まで辿りつく。そう広い部屋ではないため、急がずとも壁まで来てしまう。部屋はこの壁で終わりで、首の主に逃げ場はない。これだけ長い首が横に伸びていれば避けようもない。


「……菜穂」


 沼田は木の箱を、高く持ち上げた。


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