六 (2)
間違ってほおずきを鳴らさないようにと思いつつも、ついついポケットの中で転がしながら、葱生は一度自室へと戻った。
スマートフォンを取り出して、のとが見守る中電話をする。電波の先は、父の携帯電話だ。今日のこの時間帯であれば出られるはずだった。
「はい」
ぷつ、と回線が繋げられた音。
「父さん? 俺、葱生」
「おお、元気そうだな。どうした、今日帰ってくるんだったよな」
「それが、ちょっと事情があって。……明日でも良い?」
「明日?」
不思議そうな父の声。それもそうだ、明日は火曜、三連休明けで、普通に高校の授業がある日だった。明日帰りたいと言うことは、学校をさぼりたいと言っているのと同義である。
「……うん」
「何か事情があるんだな?」
「うん。それも明日話す」
「お義母さんには伝えたのか?」
「伝えた。で、父さんに連絡しろって」
しばし沈黙が続いた。どちらも話さないまま通話時間だけが伸びる。そして、
「分かった」
父がきっぱりと言った。
「明日の昼前に、車で迎えに行こう。明日なら行ける。俺もお義母さんに挨拶しなきゃいけないと思うし」
ありがとう、と葱生は述べた。
「うん」
あとは二言三言交わして、電話を切る。
次は板倉だ、と言わんばかりにのとが鳴いた。葱生はのとに頷いて、今度は調理場へと足を向けた。
階段を下りて、調理場の様子を伺う。板倉親子はいつものようにそこにいた。今はやるべきことはないらしく、二人とも椅子に腰掛けていた。息子の方の視線の先には、以前見たような白い靄が滞留していた。ガス台の近くにあるが、鍋からの蒸気とは違うのが見て分かる。換気扇の方へと流れていかないし、靄の密度が高すぎる。
「こんにちは、すみません」
葱生が暖簾に頭をくぐらせると、親子がこちらに気づいた。白い靄はやはり、前日の朝に寝坊した葱生を焦らせたものと同じようだった。煙の表面に、祖母の怒り顔が浮かぶ。昨日の朝だったか、廊下に現れて、葱生を狼狽させたそれと同じものだ。
「もう騙されないぞ」
と、葱生が小声で返すと、靄は振動してから今度は悲しげな昼顔を映し出した。
そこを仲介するように板倉の息子が立ち上がる。
「葱生くん、どうしたの?」
「あ、はい。板倉さん、申し訳ないんですけど……明日帰ることにしたので、今日送っていただかなくても大丈夫です」
すみません。頭を下げる葱生に、板倉は大丈夫だと朗らかに笑う。
「もともと買い出しには行かなきゃいけなかったし。あれ、で、明日はどこから帰るの?」
「明日は、うちの父が来てくれるって話がつきました」
「父……ってことは、お嬢の旦那さん!」
板倉が急に声の温度を上げる。板倉父もまた、興味を示しているようだった。
「ああ、お嬢の旦那さんや息子──つまり葱生くんだね──には、皆興味津々だから」
板倉は笑うが、葱生本人としては理解しきれないところがあった。従業員や客が、祖母、そして今は亡き母と密接に繋がっていることを実感する。この年になるまで母方の祖母のところを訪れなかったというのは、今になって考えると勿体ないことをしていたと思う。
ひとまず、帰宅を延期したことを父にも板倉にも伝えられたので、葱生はやるべきことを終えた。
調理場の二人に礼を言い、のとを抱えなおしたところで、今度は別の人物に出くわす。
「浅川さん」
ちょうど廊下を通りかかった、先庭だった。
葱生は先庭の姿を見とめ、ばっと首を調理場へ向ける。暖簾が、調理場の中が見えない形に戻っているのを確認した。先ほどの靄が見えたら大変だ。
「……?」
先庭は近づいてきて、やや怪訝そうな色を目に浮かべる。何でもない、と示すように葱生は笑って見せた。
お互いが姿を見とめた地点から、半分ずつ歩み寄るような形で対峙する。
先庭は再び、先ほどの捜索の件を謝った。
「正次郎くん、思い込みが激しいところがあって……特に最近は、私が一人で行動すると何か危険な目に遭うとでも思ってるみたいで。わざわざ探してくださりありがとうございました」
「いえ」
まさか、彼はあなたが自殺するのではと疑っています、なんてことを本人に言える訳もなかった。葱生はただ短く答える。
先庭の首に巻かれたマフラーは、彼女の髪をくるりと浮かせていた。その奥の首がやけに青白く見えてしまうのは気のせいだろうか。じろじろと見るのは首の痣のことを知っていると伝えるようなもので、しかしそれ以上視線を落としては別の意味で危険で、葱生は目線の先に困らされた。幸い先庭はそれには気づかず、
「その猫」
黒猫を興味津々に覗き込んだ。正しくは「黒猫又」だが、先庭にそれが分かるはずもない。葱生はほっとしながら、万一にも向こう側から尻尾が見えないよう手の平でぎゅっと押し込めた。
「のとって言うんです」
にゃあ、と愛想良くのとが鳴く。
「可愛いですね」
撫でても良い? と、先庭はのとに尋ねた。再び愛想の良い返事。先庭は手を伸ばして、すっと毛に触れた。すべすべ、と柔らかく微笑む。
のとを撫で続けながら、
「のとくん? それとも、のとちゃんですか?」
先庭は尋ねた。
「ちゃん、だと思います」
「女の子。美人さんになりそうですね」
そう言って、先庭は満足したのか去って行った。これから温泉に入ってくるのだという。葱生には「ありがとうございました」と礼を言って、のとには「またね」と手を振って離れていった。
のとが満足げに喉を鳴らす。それを見下ろしながら、葱生はどこか不思議な気分を味わっていた。
あんな風に柔らかく笑った先庭は、追い詰められているようには見えなかった。無理をして笑っているという印象は全く受けなかった。しかし、だからと言って先ほどの沼田の話は「思い込み」の一言で片付けられる問題だとも思えない。
葱生は首を傾げたまま、ひとまずは、夜に手伝えるようになったと沼田に報告しに行こうと、縁側沿いの部屋へと歩き出した。
──りりん。
どこからか、ほおずきによく似た音が聞こえた。思わず足を止める。
──りりん、りりん。
さらに重ねられる、小さな音。
「……これ」
しかしよく聞くと、ほおずきの音とは少し違うようだった。こちらの方がもっと金属質で、鈴の音に近い。
葱生は音の鳴る方へ、どうしても行きたい衝動に駆られた。
この音は何なのか。誰が鳴らしているのか見てみたい。いや、見なければいけない気がする。
ふらり、足の向く方向を変える。それは庭のある方を指していた。何の躊躇いもなく、縁側から片足を宙に浮かす。
「痛っ」
唐突に腕に走る痛み。見ると、のとが爪を立てていた。
「何するんだよ、のと……!」
引っかかれたとまではいかないが、痕が赤くなっている。非難するように問いただすと、のとは険しい目つきを返してきた。全くもって可愛らしくない鳴き声を上げる。葱生はそれに対抗してみたが、のとに謝る気持ちはないようだった。こんなところで、人間と猫又の喧嘩を繰り広げても仕方がない。納得のいかないところではあったが、これ以上追求するのは止めにした。のとが意味もなく爪を突き立てるような猫ではないことは知っている。
気がつけば鈴の音は鳴り止んでいた。その発生源を探してみようという気持ちも、急速に葱生の中から失せていた。
「……まぁ、良いか」
当初の予定通り、沼田の部屋を目指す。
炎が舐めて広がっていくような、ちりちりとした感覚が微かに背中を覆っていた。




