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ほおずきの宿 あやかし見聞録  作者: 綿津見
猫と鈴音
2/31

一 (2)

 放課後、スーパーに寄ってから帰宅した。


 葱生(そうき)は自宅のアパートの扉の前で、鍵を探してしばらく佇んでいた。表札には「浅川広樹、葱生」と親子の名が下げられている。


 鞄の中に入れたキーケースが、こういうときに限って掴めない。手にしていたビニール袋が邪魔になって床に置いた。中には夕食の材料や、休日になったら作る予定の菓子の材料が入っている。菓子は特別食べてもらう相手がいるわけではないが、図書館で借りてきた本やスマートフォンで見つけたサイトに載っているレシピを、週末に気まぐれに作るのが習慣になっていた。

 さて、今週末は何を作ろうか。そんなことをぼんやりと考えながら未だに見つからない鍵に手をさ迷わせる。


 がさり。足元でビニール袋が音を立てた。重みで倒れたのかもしれない。卵が割れてしまう、と慌てて目を遣ると、


「……なんだ」


 こちらを見上げる琥珀色と目が合った。


 大きなビニール袋の影に、時おり家にやって来る黒猫が顔を覗かせていた。

 薄汚れているというほどではないが、首輪の類は一切つけていない。おそらく飼い猫ではないだろう。


 葱生とこの猫は、数年前の雨の日に出会った。


 その日は朝方からずっと雨が降り続いていて、気温も低く寒かった。猫は電柱の隅に蹲っていた。しかし電柱の影で雨がしのげる訳もない。猫は濡れそぼった状態でますます黒くなっていた。


 その日も葱生は買い物の帰りだった。傘の中で低く下げた目線の先に、たまたまその黒色を見つけたのだ。はじめはゴミ袋か何かだろうか、とさえ思った。それが生きた猫だと気づいたとき、

 ──ああ、ちょうど今日買ったものの中に、ツナ缶があるな。

 そのとき中学生だった葱生は、ぼんやりとそんなことを考えた。


 猫にツナ缶を与えても大丈夫なのかは知らなかった。が、そのまま、深く考えずに猫を連れて帰宅した。猫は随分弱っていたのか抵抗することもなく抱えられていた。


 両腕は袋と猫で埋まってしまったため、葱生は途中から傘を差すのを諦めた。そのせいで自身もびしょ濡れになってしまい、帰宅していた父に、一人と一匹まとめて風呂に放り込まれることになる。

 雨は良くともお湯は駄目らしい。猫はどこにそんな力が残っていたのかというくらい風呂場で暴れた。


「拾って来なきゃ良かったかもしんない」


 ひっかき傷にふて腐れた葱生がぼそりと呟いてしまったほどである。それもまた、今となっては親子の笑い話だ。


 猫は温かい部屋と食事で順調に回復し、やがて家を出て行った。アパートはペット禁止なので飼ってやることはできない。


「さすがに猫のために引っ越してやることはできないからね」


 と、父は少し名残惜しそうに言う。そんな父の姿を見ては、葱生も我が侭を言うことができなかった。


 しかし、それでも葱生たちに懐いたのだろうか、猫はしばしば葱生の元へ遊びにやって来るようになった。


 飼ってやれない代わりというわけではないが、浅川家には猫の餌が常備されている。それも乾燥した顆粒ではなく、缶詰のものが。一度缶詰のものを出してみたらそれ以降顆粒には見向きもしなくなったのだ。野良だというのにグルメな舌の持ち主らしい。家の前で出会ったときには、缶詰をご馳走してやるのがいつからかの決まりごとになった。


 この猫にとって、葱生と父はただの「便利な人間」かもしれない。同じような別の家で、こうやって食事を貰って回っているのかもしれない。猫の食事を眺めながらそう考えるときもあった。それでも葱生はこの猫が好きだったし、もともと気ままだと言われている猫が他でどう過ごしていようとあまり気にならなかった。猫の野良生活だって、猫自身が選び取ったものかもしれないのだ。


 葱生はやっと鞄から鍵を探り当て、鍵穴に差し込んで回した。子気味良い音がする。


 扉は開けず、ビニール袋も床に置いたままで、猫を持ち上げた。


「久しぶりだなあ、のと。元気にしてたか?」


 のと、というのはこの黒猫の名前のことだ。自身の飼い猫ではない、ますます情が湧いて離れがたくなると内心分かっていながらも思わず名前をつけてしまった。雨の日に連れ帰ったあと、葱生の買ったばかりのノートの上に座り込んで、なかなか動かなかったことが由来である。


 猫──のとは、長々と鳴いた。この猫はこういう風に、人間の言葉をきちんと理解しているかのような反応をよくする。

 葱生はのとの喉を撫でようと、より引き寄せる。そこで、気づいた。


 猫の尾が二又に分かれていることに。


 息を飲んで目を見開いたまま、片手でビニール袋を掬い上げた。扉を開け、中に入る。かちゃり。後ろ手に鍵を閉める。流れるようにチェーンロックもかけた。

 そのまましばらく狭い玄関に突っ立っていた。


 のとはそれを好機と捉えたのか、葱生の腕を飛び出し、家の奥へと駆けていく。葱生はその背中を目だけで追う。やはり、尻尾の先は二本に分かれている。


 見間違いではない。

 これまで、のとが家の前にやってきたときにも抱き上げたり、食事風景を注視したりしたことはあった。あったが、そのときはまだ「普通の猫」だった。尻尾は確かに、すらりと伸びた一本だけだったはずだ。


 葱生の脳裏にちらつく語があった。


 尻尾が二本に分かれている猫を、猫又と、呼ぶのだ。


 そしてそれは、俗に「妖怪」と呼ばれる存在だった。


 あるいは「存在」と言う表記それ自体が誤っているかもしれない。妖怪は葱生にとって、現代日本に在るはずのないものであった。


「…………、」


 未だ一言も発せないまま、スニーカーを脱ぎ捨てて居間へと向かう。ビニール袋を冷蔵庫の前に置きざりにして、居間のテーブルの脇に鞄を落とす。


 のとは葱生の気分に反比例するかのように、楽しげに居間を闊歩していた。

 葱生がソファに沈み込んで手だけを伸ばすと、飛んできてぴょんと膝に飛び乗る。


 そもそも、のとの尻尾は今まで一本だった。それが今は二本に見える。しかし猫の尻尾が二本だというのは有り得ない。それでは猫又という妖怪である。しかし妖怪は現実には存在しないはずだ。


 のとの毛並みを撫でながら、葱生は思考が渦巻いていくのを感じていた。ぐるぐるぐると、いつまでも渦巻いて一向に落ち着く気配がない。紅茶に入れすぎた砂糖のようだ。いくらかき混ぜたところで溶けそうにない。


 そして、ああ、俺は疲れてるのか、と結論づけた。葱生が高校二年に進級してから、まだ一ヶ月も経っていない。クラス替えも行われたし、授業の内容も変わった。新しい環境というのはそこにいるだけで疲れるものだ。


 だからこんな、幻覚を。


 手のひらに生き物の温度を感じながら、葱生は目を閉じて、深く息を吐いた。


2015.4.14 誤字を修正いたしました。ご指摘ありがとうございました。

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