六 (1)
「……自殺?」
思いもよらぬ不穏な言葉に、葱生は目を瞬かせる。沼田は葱生の腕を引っ張って、部屋から離れた。先庭まで声が届かないだろうというところに来て、沼田は再び話し出す。
「菜穂はマフラーをしてただろ。あのマフラーは、首吊りに失敗したあとを隠すためにつけてる」
先庭が巻いていた、芥子色のマフラーを思い出す。どんどん気温が高くなっていくこの季節にはやや不自然だ。
「見たんですか? ……その、失敗するところを」
葱生の問いに、沼田は首を横に振った。
「でも、前まであんなマフラーは巻いてなかった。それが急にマフラーしたり、タートルネックを着るようになったりして……首元を隠そうとしてるみたいだったから気になった。で、首に青い筋があるのを俺は見た」
のとまでもが息を潜めているようだった。相槌がなくとも、沼田は全てを話す踏ん切りをつけたらしい。
「何でそんなことをしたのか問いただそうと思った。悩みがあるなら俺が聞こうかって。でも、それを訊く前に、ここに一人で泊まりに行くって話を聞かされた。友達の家にも絶対泊まらないし、泊りがけの旅行もしない菜穂が。しかも、菜穂は一度決意したら、なかなかそれを変えない奴だ。だから無理を言ってついて来た……菜穂が、自殺に走るのを防ぐために」
自殺。自ら命を絶つこと。首吊りという言葉が葱生の背中にざわりとしたものを走らせた。その痕が首元に残っているという話が余計に生々しく感じられた。
「問いただして変に刺激したくなくて……思いつめてるなら話してほしいし。それでとりあえず、明日、この旅行が終わるまでは何事も起きないよう見守ろうと思ったんだ」
沼田は伏せていた目を上げて、いきなり葱生の肩を掴んだ。のとが短く驚きを示す。
「俺は昨日一晩、隣の部屋で、寝ないで不審な物音がしないか注意してた。今日もやるつもりだ。頼む、手伝ってくれ」
近くで見ると、沼田の目元には疲労が見てとれた。昨晩は徹夜したのだろう。
葱生はすぐには答えなかった。
こちらの都合も聞かず、赤の他人にこんなことを頼むとは横暴にも感じられた。葱生は昼過ぎにこの旅館を離れる予定になっていた。夜に見張るということは、帰宅が一日ずれるということだ。
自分の都合と、沼田の都合。それを天秤にかける。後者には人間一人の今後が含まれている。
沼田は葱生の肩を押さえたまま、目線を逸らさずじっと見つめる。他人に見られたら、それこそ先庭に見られたら勘違いされそうな近さだなあと葱生は場違いなことを思った。
「……沼田さんは、先庭さんのこと好きなんですね」
答えの代わりに、呟くように言う。
それは親愛でも恋愛でも、どちらを指していても良かった。
「なっ」
沼田は勢いよく後ずさった。右腕で隠した顔は真っ赤である。
「なっ、な、なにを」
ああ、分かりやすい。
葱生は思わず笑って、沼田に声をかける。
「俺、今日帰る予定だったので、祖母にかけ合って来ます」
また後で来ます、と言うと、顔を火照らせたまま沼田が頷いた。葱生の言葉の意図が分からなかったようだが、
「先に言っときます。俺、夜弱いですけどそれで良ければ」
離れていく葱生が放った言葉に了承の意を読み取って、ようやく顔の筋肉を解した。
葱生は祖母の部屋へと向かう。
沼田が先庭のことを想っていることが分かった。先庭の事情は全く知らないが、もし思いつめた結果自ら命を絶とうとしているのであれば、沼田のような、先庭のことを心から想っている人間が一人でもいることをまず知ってもらいたいと思った。
祖母の部屋の前に来て、障子の淵を叩く。洋式のドアではないので、ノックと言うよりはがたがたと揺れる怪奇音のようになってしまった。
「葱生。どうしたんだい?」
祖母は障子を開け、葱生を招き入れて尋ねた。
腰を下ろして向かい合い、葱生は沼田と先庭のことを説明した。先庭の首に痣があるらしいということ。沼田はそれを、先庭が自殺を考えているのだと思っていること。それを防ぐために、夜見張っていること。それに葱生も付き合おうと思うこと。
祖母は話を聞くうちに、眼差しを険しくしていった。聞き終えて、ゆっくりと口を開いた祖母に、葱生も姿勢を正す。
「分かった。葱生が手伝いたいと思うのなら、自由に行動しなさい。まあ、元々言っていたとおり、葱生がここにどれだけ泊まろうと自由だ。……ただ」
祖母は指を二本立ててみせた。
「今日、板倉の車に乗せてもらう必要がないと伝える。それから、広樹さんにも帰る日程がずれると連絡する。良いね?」
葱生は頷く。広樹さんというのは葱生の父のことだ。それらの連絡は、最低限しなければならないと思っていたことだ。
祖母も微笑んだ。
「……にしても、自殺ね……」
独り言のように祖母は言った。信じていない風に思える口ぶりだった。祖母は先庭と知り合いなのかと考えて、そういえば、と葱生は思い出す。
「先庭さんが話に来たって」
「そう。ついさっき、あの子とここで話していたところだよ」
「沼田さんはそれを、先庭さんがいなくなったんじゃないかと思って探し回ってて……」
祖母は口元を隠すようにして考え込んだ。
「今夜、見張るという話。ちょうど良いのかもしれないね……。沼田さんが納得できないとどうしようもないだろう? あの子に自殺の意思がないのなら何も起きないのに、それを本人から直接聞かない限り、沼田さんは疑い続けることになる。ずっとこの旅館にいる訳でもないし、その後の生活を、四六時中見張っている訳にもいかない」
祖母の言う通り、今夜、何も起こらず日付が変わったところで事態の解決には繋がらない。やはり、沼田が先庭に何らかの行動を起こさなければ、沼田一人が納得できないまま、事態は変わらないままなのだ。
「二人ともにとって、今回のことは良いのかもしれない。葱生、手伝っておあげ」
「はい」
自分に何ができるかは分からなかったが、葱生は頷いた。沼田の相談に乗ること、自分の考えを伝えることくらいはできるだろう。
「二人で手に負えないことが起きたら、すぐ人を呼びなさい。ほおずきを鳴らせば私にも聞こえる」
祖母に礼を述べて、葱生は部屋を離れた。
パーカーのポケットに手を入れる。ほおずきがそこには入っている。指先に、植物特有のざらりとした感覚。
つくづく不思議なほおずきだった。中に鈴か何か入っているのだろうが、旅館に来たときに鳴らせば全体に響き渡るし、館内で鳴らせば祖母に伝わるという。不思議で、そして頼もしい。防犯ブザーのように持っていると安心する。防犯ブザーを持ち歩くような年齢でも性別でもなかったが、あるいはお守りのようなものだった。