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ほおずきの宿 あやかし見聞録  作者: 綿津見
猫と鈴音
17/31

五 (3)


 近づいてきた男性は、白いワイシャツにスラックス姿だった。ネクタイはしていないし、服装のわりにラフな印象を受ける。髪もきっちりとセットされているわけではなかった。目元が少し、疲れているように見えた。


 男性は靴下を床に滑らせて、一定の距離まで来ると立ち止まった。のとはいよいよ尻尾を曲げる。目立たないように目立たないように、足の隙間へともぐりこませた。しかし男性は葱生(そうき)の裏に潜むのとには気づかなかったようだ。葱生の顔を目利きでもするかのように見る。


「……あの、何ですか」


 葱生は思わず、怪訝さを隠さない声を出した。旅館で出会った中には板倉や葛西を始めとして、遠慮なく話しかけてくる者が多かった。初対面の相手に積極的に踏み込めない葱生には戸惑いもあったが、不快には感じなかった。葱生だって別に、親しくならないうちは断固丁寧語で話すべきだと考えている訳ではない。自分が年下の立場であればなおさらだ。しかし、この相手はどこか不躾に感じてしまう。相手の男性は葱生より少し背が高かった。彼の目を見据えるようにして視線を上げる。


「……あ、いや」


 対して、男性はわずかにたじろいだ様子を見せた。ワイシャツの襟に手をかけて、ありもしないネクタイを緩めるような動作をする。さすがに敵対心、警戒心のようなものを出しすぎたかと、葱生はわずかに相好を崩した。


「俺、浅川葱生です。ここの女将が祖母にあたりますが、来るのは初めてなのでお客さんみたいなものです」


 名乗ると、


「あ、ああ。俺は沼田正次郎。昨日からここに泊まってる」


 男性──沼田もまた自己紹介をして、右手を差し出した。葱生も右手を返す。握手は気分の悪いものではなかったが、昨日どれだけ気にしても一向に会えなかった沼田に、今日唐突に声をかけられたのはなぜなのかという疑問が頭を占めていた。


「それで……俺と一緒に来た女性が分かるか? 先庭(さきにわ)菜穂って言う」


 沼田は続けた。彼によれば、女性の方は先庭菜穂というらしい。マフラーをしていた黒髪の女性だ。


 葱生は、話してはいませんが、と一応頷いた。嘘は言っていないものの、一体どこで見かけたのかと問われると心苦しいものがある。対象を追跡するカメラのような盆で、文字通り覗き見たとは非常に言いづらい。


「そうか」


 沼田は安堵の胸を撫で下ろしたように見えた。短く刈られた髪を掻く。


「それって、今日のいつ頃だ?」

「今日?」

「ああ、今日の話だが……」


 沼田の視線が、再び宙をさ迷う。


「まさか、今日じゃないのか?」


 沼田が訝しげに言う。このままでは埒が明かない。そう感じた葱生がふと気づいて足元を見ると、のとがいなかった。曲がり角の先へと視線を滑らせると、仲居の昼顔がのとを抱えていた。昼顔は、微笑みとともに浅く礼をする。そして指ですぐ近くの部屋を示すと、そちらへ着物を翻していった。そこでのとの相手をしてくれるらしい。


 のとにも不満そうな様子はなかった。沼田が猫又を認識できるかは分からない。ただ、以前は妖怪を視られなかった父がのとの変化には気づけたことを鑑みるに、警戒するに越したことはないだろう。不用意に沼田とのとを接触させて混乱を招きたくはなかった。


「あの、何かあったんですか?」


 葱生は縁側に座り込んだ。沼田もその隣に、渋々といった感じで胡坐を掻く。


「菜穂が部屋にいないんだよ……。一緒に朝食を摂って、それぞれの部屋に戻って、十五分くらいしてから菜穂の部屋に行ったんだ。そうしたらいなくて」


 葱生はどう反応すればいいのか困りかねて、ただ少し肩を竦めた。


「探し始めてどのくらいですか?」

「ええと、一階をぐるっと回って……二十分くらいだ」


 沼田はワイシャツの袖をまくって腕時計を確認した。

 つまり、先庭菜穂という女性が部屋を空けたのは、長くとも三十分程度だと言える。葱生が昨日盆で見た先庭は、二十歳は越えている女性に見えた。大人びているように感じられただけかもしれないが、少なくとも年端のいかぬ少女というわけではなかった。沼田のこの反応は、いささか過敏ではないだろうか。


「失礼ですが、先庭さんは沼田さんの……?」

「菜穂は、…………か、……っ」

「か?」


 沼田は心なしか顔を赤くして視線を泳がせる。続きを言おうとし、突然咽せてごほごほと咳を重ねた。しばらくして落ち着いて、しかし目線を落としたまま答える。


「……従兄妹(いとこ)だ」

「仲、良いんですね」

「……まぁな」


 一転してまんざらでもなさそうな声音で答える沼田。


 二十代を越えていても、異性二人で泊まりに来るほど仲の良い従兄妹もいるらしい。葱生には親しい従兄弟というものがいないのでいまいち実感が湧かない。母は一人娘だったようだし、父方の伯父は独身である。沼田と先庭は交際している訳ではないのか、と思ったがさすがに無粋だと感じて尋ねなかった。


「朝食の時に、温泉街の方に観光に行かないかって誘ったんだ。でも断られて……で、その後で部屋に行ったらいなかった。俺は菜穂を見つけなきゃならない。手伝ってくれないか」


 葱生はしばし逡巡した。そう極端に広くはない旅館だ、一度部屋を出てしまうと簡単に戻って来られないという訳でもない。山といった自然の中ならまだしも、大の大人を探す必要があるのか。


 しかしあまりにも思いつめた様子で沼田が「見つけなければいけない」と主張するので、少しばかり手伝おうかと頷いた。もともとろくな用事もないのだ。


「分かりました。沼田さんは、二階は確認してないんでしたっけ?」

「ああ……」

「じゃあ二階をお願いします。俺は、まず──仲居さんにお願いして、大浴場にいないか見て来ます」


 一通りの確認を終えたら、またこの縁側に戻ってくること。それを取り決めて、葱生は立ち上がった。沼田が階段へ向かったのを確認して、先ほどのとを預かってくれた昼顔が指し示していた部屋に向かう。


 障子が開かれているところを覗き込む。昼顔が話しかけて、のとが鳴くことでコミュニケーションをとっていたようだった。のとは二足歩行をするように後ろ足だけで立っていて、その前足を、正座をした昼顔が支えている。思わずくすりと笑いたくなるような、妙に微笑ましい光景だ。どんな経緯でそんな形になったのか。この後何をするつもりなのか、気になりつつも葱生は口を開いた。


「昼顔さん。ありがとうございます」


 機転を利かせて、のとを目の触れないところへ連れて行ってくれたことに礼を言う。


「葱生さん」


 昼顔はのとを下ろして、微笑んだ。傍らののとはなぜか誇らしげな顔をしているように見える。


「ご用事はお済みでしょうか」

「ああ……いえ、すみませんがお願いしたいことが」

「何でしょう」


 葱生は昼顔に、女湯に先庭がいないか見てきてほしいと頼んだ。昼顔は快く承諾してくれた。すっと赤い暖簾の奥へ消えていく。ちょこちょこと小走りに、のとも後をついて行った。昨日も今朝もあんなに嫌がっていたのに、入浴目的でなければ苦手な温泉にも立ち入れるようだ。


 葱生は大浴場の入り口の前で腕組みをして待った。捜索のためとはいえ、まさか女湯の暖簾はくぐれない。

 先庭という女性は、温泉に入っている可能性が一番高いと考えていた。温泉の湧く旅館に来て、日に何度も入りたいと思うのは何ら不自然ではないだろう。休暇をとって旅館まで来ているのだから、温泉三昧の一日を過ごしたって文句を言う人はいない。湯治という文化だってある。


 先庭が本当に温泉に浸かっているとして、それを沼田に告げていかなかったのは気にかかるが、彼女だって子どもというわけではない。わざわざ告げなくたって構わないと考えるかもしれない。先庭と沼田の関係性、距離感が分からないためにその辺りは推測でしかなかったが。


 葱生はぼんやりと思いを巡らせて、はたと気づく。


 なぜ沼田は、まず自分に声をかけてきたのだろう。


 店舗でも旅館でも、こうしたことは従業員に尋ねるのが普通であるはずだ。この「ほおずきの宿」であれば仲居の昼顔がいる。一般客に見える葱生よりは確実に旅館に詳しいだろうし、宿泊客にも気を払っているだろう。現に今こうして葱生が昼顔に用を頼んでいるのだから、結局のところこれは二度手間なのだ。


 沼田が仲居の姿を見つけられなかった、あるいは先庭以外の女性を苦手としていたとする。それでも調理場には板倉親子が常駐している。見つけやすいし、息子の方は気さくだから声もかけやすいだろう。


 自分に話しかけてきたのが不快だとか、面倒だからきちんと従業員に声をかけて欲しいだとか、そういうことを言うつもりはなかったが、改めて考えてみるといささか不思議だった。思わず首を横に傾けると弾みで音が鳴った。まずいと慌てて首の向きを直す。


 そうこうしているうちに昼顔が戻ってきた。足元にのとを携えてはいるが、その後ろに先庭はいない。


「ぐるりと回って、奥まで行ってみたのですが……いらっしゃいませんでした」


 お役に立てずすみません。そう言う昼顔に、謝ることはないと礼を述べる。


「先庭さんを見かけたら教えてもらえますか」


 重ねた頼みに、昼顔は大きく頷いて、二階の方向へと去って行った。丸一日姿を見せないという話ならば別だろうが、さすがに通常業務もあるだろうから付きっきりになってもらうわけにもいかなかった。


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