五 (2)
その日はそれから、のとを祖母のもとへ残して温泉に入った。
とっくに日が沈んだ時間帯である。木々も山も黒々と闇に溶けて判別がつかない。ただぼうっと浮かび上がる灯篭だけが見える。温泉は乳白色をして、絶えず煙を立ち上らせていた。
昼間よりは気温が下がっているが、温泉に入ると心地よい。葱生は腕を出したり入れたりして、湯が滑り落ちるのを眺めていた。
他に入浴しているものはいないようだ。少なくとも、傍目には。
「……お、あんちゃん」
「河童さん。こんばんは」
案の定、水中には河童がいた。自身が語っていた通り、「温泉ばっか入ってる」らしい。葱生は河童がどこかにいるのではないかと考えていたので、さほど驚かずに済んだ。
河童は頭上の皿から湯を零しながら近づいてくる。湯気の向こうに星を眺めながら、葱生と河童は話した。周囲に人工灯が少ない分、星はよく見てとることができた。
葱生が今日訪れた客のことを話すと、河童は男性の方を見たと言った。
「あの、ちょっと頭硬そうな兄ちゃんだろう? 夕方に入りに来てたな。妙に不機嫌っつうか、釈然としない感じで浸かってたからな……」
河童は不意に、全身をお湯へと沈めた。数秒後、離れた場所に頭だけを出す。
「……こんな感じで俺ぁ顔を出してみたのよ」
河童と男性がいた時を再現してくれているようだった。水音とともに緑色の頭だけが現れた図は、解説されている側から見るとかなりシュールである。男性からすれば、ホラーでもあったかもしれない。
「やっぱり、驚いてました?」
河童の答えは、葱生にとって予想外なものだった。
「いや?」
と、河童は首を左右に振った。
「まぁ、音には驚いてたが──俺のことは、視えなかったみてぇだな」
だから、さっき「見た」と言った。「話した」ではない。
「その、見えなかったっていうのは……」
葱生は問いながら、祖母や父の言葉を思い出していた。父は、のとを見て、以前は「視えなかった」と言った。誰しもが妖怪を見られるわけではないということだ。
「ん? ああ、あのな、あんちゃんも女将も、妖怪を全部認識できるだろう? 料理人の親子もだな」
「はい」
「姿が見えるし、声も聞こえる。触れるし、話しかけられる。その存在がそこにちゃあんと在るってことが分かる。それが視えるってこった。視えねぇ奴は、一生視えなかったりする。自分の常識を外れるものは認識できねぇのよ」
河童は水かきのある手を広げながら話した。
葱生には、その姿をはっきりと認識できる。湯気があろうとその緑色は鮮明だ。たしかに驚きはするが、幻覚を見ている、実はそこに何も存在していないとは思わない。
「今日来た奴は、まぁきっかけがあれば視えるようになるかもな。俺の方見て訝しげに目ぇ細めてたし」
「へぇ……」
そんなものなのか、と葱生が尋ねると、そんなものだ、と河童は頷いた。
「あと奥の方に山猫のおっさんもいたんだけどなあ、そっちには全く気づかなかったみてぇだな」
おまけのように河童が零した一言。葱生はそっちの方に気を引きつけられた。
「山猫?」
思わず怪訝そうな聞き返し方になる。
この旅館に、のとのほかに猫がいたのか。昨日の夜の宴会では見かけなかったし、他の人の話題には上っていなかった。
のとは町にいる野良で、時折葱生の元を訪れる猫だったが、何の因果か猫又になってしまった。その山猫とはどのような猫なのだろうか。河童が「おっさん」と言うからには、わりと年を重ねた雄猫なのか。
「ん? あー、そういやあんちゃんがここに来たのも猫のためだったか? 山猫のおっさんはな、毎年春になると来んのよ。古傷が痛むっつって、療養に」
「療養……」
おうむ返しのごとく言葉を繰り返す葱生に、河童は固そうな口の端をにやりと上げた。
「山猫のおっさんはでけぇぞ。多分あんちゃんの想像以上に」
今日来た客のことも山猫のことも、深く聞きたいことは多くあったが、河童と違って、葱生にはいつまでも浸かっているのは無理だった。本当にのぼせるわけにはいかない。芯から温まった体を引き上げて、葱生は河童に挨拶を述べた。
「おう、んじゃまたな」
「はい」
お休みなさいと相槌を打って、脱衣所にて浴衣を羽織る。暖簾をくぐった後に、明日の昼には旅館を発つのだと葱生は思い出した。翌日も温泉で会うような感覚で返事をしたが、「また」はいつになるだろうか。
翌日の朝は、スマートフォンのアラームを鳴らした。二日連続で寝坊してしまっては祖母に申し訳ないと思ったからだ。
けたたましい電子音が鳴り響き、葱生は布団から片腕を出して勢いよくそれを止めた。繰り返されるリズムの一回目だった。平日の朝であれば大音量がどれだけ鳴り響こうが全く耳に入ってこないのに、旅館に来てからは寝覚めが良い。
枕はまたしても足元にあった。普段通りの睡眠なら絶対にそんな位置には移動しないはずである。
「いたずら座敷童め……」
首が痛くなったらどうしてくれる。思わずそう呟く。
と、すぐ近くで無邪気な笑い声が聞こえる。障子の向こう側に駆けていく子どもたちの影が映る。葱生は勢いよく障子を開いた。が、廊下には姿は残っていない。ぱたぱたぱた、と足音だけが遠く聞こえる。葱生はしばらく朝日に照らされた廊下を見つめた。いたずらの犯人探しは早々に諦めて、視線を部屋に戻した。
障子を開いた衝撃で、のとが身じろぎをする。
「のと、朝だぞ」
葱生が声をかけても、のとは鈍い声を返すばかりで動き始める気配がない。そもそも猫の必要睡眠時間を知らないな、と気づいて葱生はのとをそのままにして洗面や着替えを済ませた。猫又はどうなのか分からないが、猫はしょっちゅう眠っているイメージがある。人間の葱生と同じ生活リズムで動き、日中は嫌いな湯に触れているのとは、もしかしたら必要以上に疲れているかもしれない。
「先に行ってるからな」
そう断って障子を閉めようとしたところ、のとは二又の尻尾を震わせて起き上がった。その慌てた仕草に、葱生は目を瞬かせた後思わず破顔した。
葱生とのとは階下に向かい、縁側にいた祖母に挨拶を済ます。時刻は七時過ぎで、祖母とともに朝食をとることができた。祖母は、昼ごろに板倉が買い出しに行く予定だと説明した。葱生は板倉の車で、隣の駅まで連れて行ってもらう予定になっていた。それまでに身支度を済ませなければならない。もっとも、気合を入れて鞄に詰めるようなものなどほとんどないのだが。
今日の昼でこの旅館と、そしてのととはしばらくの別れになる。
気を利かせてくれたのか、昼顔は朝食の最中には姿を見せなかった。朝食を摂ると、祖母は部屋へと戻って行った。その後しばらくゆったりと過ごす。
一所にいるのも惜しいし、折角だから外へ出てみるかと、縁側を歩いていた十一時頃。
「あ、あんた!」
葱生は背中に声を投げられた。低い声だ。間違っても昼顔のそれではない。のとが咄嗟に、振り返る葱生の影へと隠れた。
「あんた、ここの客だろ?」
問いながら、声の主は近づいてくる。昨日の夕方に旅館へとやって来た男性だった。