四 (3)
調理場の暖簾をくぐり、板倉に声をかけて遅い朝食をとる。四角いお盆を渡されて、板倉の勧めでほおずきの間とは反対の方向に向かう。入ったのは、昨日の昼間に妖怪たちが集まっていた部屋だ。今は襖が開かれていて、中も閑散としている。皆いつもここにいるというわけではないらしい。畳に並べられた細長い座卓の隙間を、昨日見かけた大福のような白い何かが行進していた。
「ああ、坊ちゃん! お早うございます」
「おはようございます」
手前に薬師が座っていた。彼も遅い朝食を摂っているところだったようだ。
薬師は今日も顔の前に半紙を下げていた。昨日はそれに「薬」と書かれていたのに、今日は「楽」に変わっていた。顔から半紙を下げた状態で、素顔を晒さず器用に箸を口に運んでいる。葱生の視線に気づき、
「楽しい一日になるようにってね」
楽しそうに、薬師は解説してくれる。それから推測するに、半紙の文字は毎日変わるらしい。
葱生は薬師の近くの座布団に座る。
朝食は白米に味噌汁、ほうれん草のおひたしに鰆の塩焼き、卵焼きだった。卵焼きを口に入れて、素朴ながらその美味しさに目を細める。甘いのかしょっぱいのかと気になっていたのだが、一切れは砂糖入りの甘いもので、もう一切れは出汁巻きだった。一口大を舌に載せるとやわらかく崩れていく。
寝起きが決して良くはなく、朝食を摂ったとしてもカップスープや薄いトースト一枚だけで済ませることの多い葱生にはこの朝食は重そうに見えたのだが、箸をつけ始めてみればそうでもなかった。味噌汁もおかずも優しい味で、かと言って淡白で物足りないとは感じない。この時間では出来立てでないだろうが、そうでなくとも美味しかった。
味わいながら、ゆっくりと食べる。食べ終わった頃に、また温かいお茶が出された。それを啜りながら、同じくまったりとしている薬師と過ごす。のとは寝足りないのか、座布団を一枚占領して丸くなっていた。
テレビもないし、喋りっぱなしというわけでもない。それでもその沈黙を苦痛には感じなかった。話したいことがあれば話す。その間の静寂を、微かな生活音がぽつりぽつりと埋めていく。
葱生が湯飲みを空にしたのを見計らったように、昼顔が姿を現した。着物に、昨日と同じく髪を高い位置で一つにくくった姿である。
「おはようございます、葱生さん、のとちゃん」
にっこりと笑う昼顔を見て、目を開いたのとが身を硬くした。そんなのとの変化になど気づかなかったように、昼顔が両手を広げる。
「それでは、のとちゃん。今日も行きましょうか」
対して、のとは僅かに後ずさった。昨日温泉から戻ってきたときもそうだったが、驚きの怯えぶりである。
その様子に昼顔が眉尻を下げる。
「困りましたね……あの温泉が良いんですよ。昨日一日浸かってお分かりになったでしょうけれど」
のとは座布団にべったりと体を密着させて動かない。葱生はそれを剥がすようにしてのとを持ち上げた。のとが抗議の声を上げる。葱生はそれをそのまま昼顔へと渡した。
「お手柔らかにお願いします」
葱生がそう言うと、
「はい。承りました」
昼顔は使命感に満ちた表情で頷き、すぐ近くの女湯の暖簾をくぐって行った。濁点のついた鳴き声がフェードアウトしていく。
「思い切りますねえ」
事態を静観していた薬師がおかしそうに言った。
やがて、そろそろ部屋で仕事をすると薬師が席を立ったため、葱生も立ち上がった。お盆を調理場へと返しに行く。
そのまましばらく、調理場の中で板倉親子が下ごしらえをしているのを眺めていた。
板倉の父の方は相変わらず無口で、淡々と一つ一つの作業をこなしていた。その背中は、何十年もこの姿勢でやってきた、と語っているように思われる。対して息子の方は気さくに葱生に話しかけてきた。その間も手は動いていたし、気を遣わせているといった印象も受けなかったので葱生は安心して好きに話しかけることができた。昨日の夕食や今日の朝食について尋ねると、板倉は淀みなく答える。
「葱生くん、料理好きなの?」
「まあ、はい。家では父と分担してるんで」
「へえ」
「あと時々、お菓子作ったりするのも好きで」
「へえ!」
板倉の顔が輝いた。葱生を手で招いて、調理場のより奥を見せてくれる。料理仲間だと認めてくれたらしい。葱生は好機と捉え、一般家庭には絶対に置けなさそうな大きさの、銀色に輝く業務用冷蔵庫などをまじまじと見る。
その間にも、板倉が続ける。
「それは嬉しい……うちの女性陣は料理しないから。あ、女将は時々するかな。全くしないとさすがに腕がなまるって。ただ、他はね……彼女たちに包丁持たせると凶器だね」
「……凶器ですか」
思わず息を呑む。
「うん。だったら包丁使わせなきゃいいんじゃないかと思ったんだけど、それで済む問題でもなくてね。料理と名のつく全てが駄目っぽい」
神妙な態度で板倉が言う。その雰囲気に押されて何気なく板倉父の方を見ると、話は聞こえていたようでしかと頷いた。思わず二人で噴き出してしまう。
「……あー、あーでも、今の話、本人たちには内緒ね……! ほんとに包丁が凶器になったら困るから」
「はい」
「湯けむり殺人事件はごめんだからさ」
板倉が冗談めかして笑う。
それから板倉親子の仕事をしばらく眺めて、葱生は調理場を離れた。
旅館の中を自由に回ってみる。部屋にはそれぞれ樹木からとった名前がつけられているようだった。葱生の部屋の名前は「櫟」で、祖母の部屋は「桂」だ。「松」や「楓」といった馴染みのある木も用いられていたが、「楡」など読めないものもあった。廊下を歩き、障子と障子の間の柱に下げられた木札を確認して回る。
妖怪は見かけなかった。朝から煙や白い大福のようなものは見たものの、それくらいだった。昨日の晩には「ほおずきの間」に目を瞠るほど集まっていたのだが。やはり妖怪は基本的に、夜に現れるものなのだろうか。
昨日感じた「かくれんぼ」に似た感覚を思い出す。あの時は隠れているものにこっそり見られているような感じがしたが、今は葱生が鬼の側となって探しているようだ。彼らは遠くに出かけているのか、はたまた隠れるのが上手いのか、一向に見つからない。
時間を気にせず旅館の中をうろついていると、意外に時間が経過していた。縁側に座って、少しずつ少しずつ沈んでいく太陽が庭の色を変えていくのを眺める。
のとはまだ帰ってきていない。
何気なくスマートフォンを取り出して画面を点灯させる。時刻を確認して仕舞いこんだとき、
──からん。
軽やかな鈴の音を聞いた。
とても小さな音なのに、近くで鳴らされたという感じがしない。直接脳内に届けられているような、不思議な感じを覚える。
「……これ」
からん、ころん。小さな音は続く。音の間隔は、誰かが急かしているように狭くなっていった。不快感は覚えないものの、あまりにも鳴らされるので風流には思えなかった。
「ほおずき?」
葱生は自身のパーカーのポケットへ手をやった。中には祖母がくれたほおずきが入っている。この旅館に入るときに鳴らしたものだ。指先で少し転がしてみると音はしたが、脳内に直接響くような感覚はない。
廊下の奥から誰かが歩いてきた。ウェーブのかかった金髪の女性。葛西だった。
「あら、葱生くん。ほおずきが鳴ってるから、皆逃げるようにそこの部屋に集まってるわよ。一緒に行かない?」
「葛西さん」
葛西は首を傾けた。さり気ない挙動がなぜか様になっている。
「集まってるって、何でですか? この音って」
葱生が尋ねると、葛西は一度瞬きをした後、得心したように頷いた。
「ああ、葱生くんは旅館の中で聞くの初めてよね。この宿に入ってくるときに、ほおずきを鳴らしたでしょう。それよ」
葛西は旅館の門がある方向に思いを馳せるように、目を動かした。
「新しいお客さんが来るってこと」