四 (1)
葱生、祖母、葛西、薬師、天狗の五人は食事を始めた。
先ほど河童は、妖怪は食事の必要がないと言っていた。が、自分たちだけこんな膳で食事をとるのは、他のものたちに気を遣わせてしまうのではないか。葱生は一抹の不安を感じて広間に視線をやった。しかしそれは杞憂だったようで、妖怪たちは妖怪たちで勝手に盛り上がっていた。そこへ、板倉が菓子や枝豆の入った器を持って現れるのが見えた。途端に、小さなものたちがわあわあと騒ぎながら板倉の足元へ駆け寄っていく。
祖母が葱生の視線を追って、口を開く。
「食事の邪魔はしないだろうし、食べ終わっても皆ここにいるだろうから、気にせず食べなさい」
葱生は頷き、まずお椀の蓋を外した。湯気がふわりと溢れる。のとが横に丸まりながら、しかし料理に興味しんしんに首を伸ばした。
お椀の中身はお吸い物だった。刻みネギと、鞠を模した可愛らしい見た目の麩が入っている。その隣に白米が盛られた茶碗があった。炊けてからそう時間は経っていないようで、まだかすかに湯気を立ち上らせ艶めいている。茶碗とお椀の間には、沢庵がちょこんと収まっていた。
奥には、刺身の盛り合わせ。刺身は鮪や鰹、細魚、海老などが大葉や菊とともに盛られていた。鮪や細魚は薄めに切られ、花びらに見立てたそれを並べることで、立体的な花が出来上がっている。鮮やかな赤や透き通る白が美しく、崩すのが勿体ない。
その隣の丸い器の蓋を開けてみると茶碗蒸しだった。つるりと喉越しの良さそうな黄色が輝いている。
それから大きな真四角の陶器には天ぷらが盛られていた。からりと気持ち良くあげられた衣の奥に、爽やかな緑色が透けて見える。ふきのとう、よもぎ、うどといった山菜である。たまねぎとにんじん、桜えび、細切れのインゲンのかき揚げもある。岩塩と抹茶塩が小さな器に入って添えられていた。好みで、天つゆでも食べられるようだ。
葱生はかき揚げに岩塩をつけ、口に入れた。さくり、と衣が音を立てる。温かさと共にたまねぎとにんじんの甘みが口に広がる。
美味しい、と思わず呟いた。
そのままの勢いで全て口に入れてしまう。これは白米に乗せ、つゆをかけて丼にしても良いだろうなと誘惑にかられる。
続けてお吸い物を啜り、刺身に手をつける。のとが葱生の太ももに前足を置いて、葱生の気を引いた。
「……食べたいのか?」
のとは箸に挟まれた刺身から視線を動かさない。ひたすらに見つめることで肯定を示してるようだ。
「仕方ないな」
まだ醤油に浸していなかった鰹をのとにやる。甘やかし過ぎだろうかと思ったときには、鰹はすでに口の中だった。のとは満足げに目を細め、二つに分かれた尻尾を波打たせる。その様子は飼い猫と何ら変わらない姿に見える。
「俺の分がなくなるからこのくらいな」
そう言って、葱生は透き通るように白い細魚を口に運ぶ。と、のとはその一挙一動をじっと見つめていた。視線が気になって首を曲げた葱生と、のとの目がしっかりと合う。振り出しに戻ったかのようだ。
まずい。どんどんこいつの舌が肥えていく。
そう思いつつ結局、鮪も細魚もあげるはめになった。
その様子を祖母や、葛西、薬師が和やかに眺めていた。料理に舌鼓を打ち、感想を言い合いながら食事をする。天狗はいつの間にか一升瓶を抱え、豪快に酒を飲んでいた。その顔は厳しく見えるが、不機嫌というわけではないらしい。あまり自分からは喋らず、人が話すのを聞いているのが好きなようだ。葛西と薬師がぺらぺらと喋り、時折天狗に相槌を求めている。
食事を終えてふと気づくと、葛西の傍らに急須と、湯飲みの入った盆が置かれていた。葛西がお茶を注ぎ、一人ひとりに手渡してくれる。満たされた胃に一口お茶を入れると、ほう、と息が漏れる。
雑談をしながらゆったりと、美味しい食事をする。満足感に浸されて、その水分でいっぱいになったような気がする。水を含んだスポンジのような重みは、心地良さを与えるものだ。
祖母も楽しそうで何よりだった。
葱生は通う高校のこと、友人のこと、父の様子、父と家事を分担していることなどを話した。祖母という本来なら近しい存在にあるはずの人に、こういった基本的なことも知らせていなかったことに今更ながら驚いた。
反対に祖母は、ほおずきの宿で自分がやっていること、妖怪のいるような宿だから客は選んでいること、それでも普通にやっていけていることを教えてくれた。
互いに相づちを打ち、頷きながら、知らないことを埋めていく。
それを葛西と薬師が面白そうに聞いていた。
お茶も飲み終えた頃に、
「ありがとう。ごちそう様」
祖母が湯のみを置いて手を合わせる。葱生も「ごちそう様でした」と声に出した。旬の食材を堪能できる、言葉通り「ご馳走」だった。
皆の言葉を受けて、膳がぴょこりと一度屈伸をした。そして空の食器を載せたまま、一斉に厨房へと向けて歩き始める。五膳の行進は、少しずつ少しずつ離れていく。
膳が目の前からなくなって、葱生は広間にふと目をやった。妖怪たちがちらりと目線をこちらに向けている。
「行っておいで」
祖母の言葉に背中を押されるようにして立ち上がると、のとも体を起こす。動かす足に寄り添うようにしてついて来る。
妖怪たちは輪になっていると言うよりは、いくつもの固まりを作ってめいめい過ごしているようだった。集団で丸まっているだけに見える、意思疎通をとっているのかも分からないような集まりもある。昼間も話した背の低い老人が葱生を迎え入れ、「坊ちゃん」と呼んでは紹介して回った。
昼顔や夜顔には「葱生さま」と呼ばれ、この老人には「坊ちゃん」と呼ばれ。自身にそぐわない敬称にむず痒さを覚える。しかしそれを訂正する暇もなく、次から次へと新しい集団に移っていくので、のとのことを紹介するのに精一杯だった。
その相手はやはり「何だかよく分からないもの」がほとんどだ。しかし祖母の宿にいる存在でもあるし、失礼には当たらないよう頭を下げて回った。ぴょこぴょこと跳ねられたり菓子を出されたりしたので、歓迎されたことは確かだろう。お猪口だけは、中身の分からない怖さから断らざるを得なかったが。
そのうち葛西や薬師、天狗も席を立って混ざり、気づけば板倉親子も加わっていた。ほおずきの間はますます、そこかしこで人や妖怪が騒いでいるという状態になった。
何を話したのか、葱生は実際よく覚えていない。別に酒は摂取していないので酔ったはずはないのだが、浮かれていたのかもしれない。
時折ちらほらと母の話が出たのは覚えている。それは父と出会う以前の話で、旅館の人々にとって、母の思い出はほとんど幼い頃と学生時代のもので占められているようだった。葱生の記憶に残る快活でしっかりした母の姿とその話の「お嬢」の姿は微妙に異なっていて、懐かしさよりも思わず笑ってしまう箇所が多かった。
飲み物も食べ物もなくなっても、随分と長い間皆盛り上がっていた。その中にいながら葱生は忍び寄る眠気を覚えて、名残惜しい気持ちを抱えながらも離脱した。
祖母に休む旨を伝えると、明日の朝のことなどを細々と言われ、「おやすみ」と締めくくられた。その声に、一斉に周りの「おやすみ」が重ねられる。
「お休みなさい」
葱生は目を白黒させながらも答える。こんなに大勢に就寝の挨拶をされるなど初めてのことだった。父との二人暮らしに慣れていたから、急に大家族の元に居候することになったような感じでどこか落ち着かない。しかし、居心地が悪いというわけではなかった。慣れるまでにはしばらくかかりそうだったが。
廊下に出て、階段のある方へと向かう。灯篭が幻想的に光る庭を見ながらゆったりと歩を進めていると、いつの間にかのとがやって来ていた。
「お前も寝るのか?」
尋ねると、のとは尻尾をゆらりと揺らす。肯定のようだ。
祖母の話では、妖怪の活動が最も活発になるのは日暮れから明け方までということだった。やはり夜の方が動きやすいらしく、この宴もしばらくお開きにはならないだろうと言っていた。だから葱生も解散を待たず抜けることにしたのだ。
昼寝をしたというのに夜になるとしっかり眠くなる。どうにも自分はロングスリーパーのきらいがあるなと葱生は思う。
「でもお前は眠くないだろ」
楽しげに尻尾を揺らし続けるのとに言うと、のとは葱生の顔をじっと見つめた。それから目を細めも鳴きもしないので、さすがに何を考えているのか読み取れない。分かりやすいサインを示すまで見つめ返してみたが、のとは噛み合った視線をぱっと外して先へ駆けて行ってしまう。あくまで葱生と一緒に抜けるつもりらしい。
アパートに時折顔を見せていた頃は、いかにも缶詰目当てといった感じで懐いている様子もさほど見せなかったのに、どういう心境の変化だろうか。猫又になったのが大きな転換点だったのか、はたまた温泉が何かを洗い落としたのか。まるで普通の猫と変わらない行動をとるが、しおらしかったりおとなしかったりするから不思議だ。それを口に出したら毛を逆立てそうなので言わないが。
葱生が眠い頭でそんなことを考えていたとき、ちり、と首筋に何か走るものを感じた。
内側の痛みというよりは皮膚の表面を静電気が渡っていったような程度のものだった。が、唐突なそれに違和感を覚える。
「……?」
左手で首を押さえる。違和感は一時的なものですぐに去っていった。葱生はしばし立ち尽くしていたが、妖怪がいて、何でもありなこの旅館ではこんなこともあるかもしれないと、理由づけてそう気にしないことにした。
葱生がそれを感じた瞬間、のとが勢いよく庭の方を向いて、それからしばし庭を見つめ続けていたことには、気づかなかった。