三 (4)
葱生の部屋として与えられた「櫟の間」にて畳の感触を楽しみながらまどろんでいたら、あっという間に夕食の時間が来た。
夕食の準備を手伝うと申し出たのだが、祖母にやんわりと断られた。手持ち無沙汰になるかと思ったものの、そう感じることもなかった。何をしていたかと問われれば、ぼうっとしていた、まどろんでいたと答えるほかないのだが、時間を無駄にした感はなく、葱生は満足げに立ち上がった。
その間に、父からメールの返信が届いた。メールには「羨ましい」「お義母さんに宜しく頼む」と、二点が率直に書かれていた。葱生はあっさりと宿泊の許可を得る。母の実家であるし、父の性格であれば、断られないだろうと予想はついていたが。
祖母とともに一階に下り、「ほおずきの間」へと向かう。この旅館で一番広い和室である。
縁側から見える庭は、陽が沈み、色合いが暗くなってそれぞれの境界線を朧気にしていた。影が青からだんだんと黒に染まり、色を濃くしていく。突如、塀に沿うように置かれた灯篭が一斉に灯った。ぼんやりとした明かりが庭を照らす。
旅館の中は照明が点いて明るい。
廊下を進んで「ほおずきの間」に入る。障子は全て開けられ、敷居の取り払われた空間がある。中に一歩足を踏み入れた瞬間、葱生は驚かされることとなった。
あれだけ広いと思っていた「ほおずきの間」は、どこから現れたのかという妖怪たちでいっぱいになっていた。足の踏み場がないと言うほどではないが、葱生の予想以上ではあった。成人男性の二倍はあるだろうガタイの良い姿があったり、饅頭と間違えそうな小さなものがいたり、姿も大きさも様々である。圧倒されて、葱生は入ったすぐのところで立ち止まる。
葱生に気づいた昼間の妖怪たちが、手を振り跳ねて、全身で居場所を訴える。祖母が先にそれを見つけて、葱生に示した。
「後で行っておあげ」
笑いながら言って、広間の右奥に向かう。これだけ広い和室の中で、そちらの方に座るらしい。葱生は跳ねる彼らに軽く手を振った。後で行くよ、という意味を言外に込める。
祖母が通った後にはやはり、無秩序な空間に線を引いたように道ができていた。その道が消える前に祖母を追おうとしたところで、
「葱生さま」
背中に声をかけられる。
聞き覚えのある声に振り返ると、のとを腕に抱えた女性が立っていた。紅梅色の着物を着て、長い黒髪を下ろしている。
「昼顔さん」
昼間会ったときはポニーテールだったはず、と思いながら葱生は名を呼ぶ。
彼女は葱生に黒猫を差し出した。葱生がのとを受け取ると、のとはぴたりと寄り添うように、全身の力を抜いてもたれかかってくる。鳴き声が聞こえたが随分と頼りなかった。
「……大丈夫なんですか? のと」
思わず尋ねた葱生に、彼女はわずかに肩を竦めた。
「筋金入りの風呂嫌いだと聞きました。昼顔も苦戦したようです」
淡々と言うが、葱生は引っかかりを覚えて聞き返した。昼顔も苦戦したよう、とはまるで他人の話をしているかのようだ。
「あの、昼顔さん……ですよね?」
恐る恐る尋ねる葱生に、彼女は小さく首を振った。
横に、である。
背中の真ん中ほどまである髪が空気を孕んで広がる。
「申し遅れました。陽の暮れたこの時間帯は、夜顔が担当しております」
「……夜顔さん?」
「はい。葱生さま」
夜顔はほとんど表情を変えぬまま、唇だけを動かして答えた。落ち着いているのだが、昼顔のそれとはまた違う落ち着き具合だった。波立たない、平坦な様子は、激昂したり取り乱したりすることなどあるのだろうかと疑問に思わせるほどだ。
服装や顔立ちといった容姿は、昼顔が髪を高く結っていて、夜顔が下ろしているということ以外、違いが全くないように思える。どう見ても同一人物である。
一卵性の双子であればここまで似るのだろうか。周囲に一卵性の双子がいないから比較対象がない。昼顔がこういう演技をしている、と言われた方がまだ納得できるだろう。
しかし当の夜顔本人は、これ以上説明する気もないようだった。何を考えているのか読み取れない目で、ただじっと葱生を見つめている。
「……夜顔さん」
「はい」
「のとのこと、ありがとうございました」
「はい」
夜顔は頷いて、礼をした。黒髪が前に流れてさらりと揺れる。
「では失礼いたします」
余計なことは一切言わず、夜顔は踵を返していった。ほかにまだやるべき仕事があるのだろうか。
葱生はその背中を見送る。
この旅館には、まず第一に「そうである」と受け入れてしまった方が良いものが沢山あるようだと感じていた。理由や理屈を求めて右往左往しているよりは、「それはそういうものなのだから、そうである」と、割り切ってしまった方が良い気がしたのだ。思考停止は現実逃避と同義だが、この場合、まず割り切らなくては先にキャパシティオーバーを起こしてしまう。何せこの旅館には不思議なものが溢れているのである。
旅館に来てから半日と経たぬうちに、葱生はそう学び始めていた。諦めの良さが大いに発揮されていたとも言える。
そういうわけで、昼顔と夜顔のことは深く考えないことにした。この二人(そもそも本当に二人なのか?)に加えて、朝顔と夕顔の二人がいてもおかしくはない。機会があれば祖母か、夜顔よりとっつきやすそうな昼顔に聞いてみようと思った。
葱生が結論づけたところで、のとが再び鳴いた。いつもに比べれば弱々しい声だ。葱生のアパートに遊びに来ていたときにも、こんなしおらしい鳴き声は聞いたことがなかった。
「のと」
声をかけても反応が鈍い。しかし夜顔に気にした様子は見られなかったので、単純に疲れているだけだろう。
「のと、温泉、そんな辛かったのか」
のとは反応しなかった。
葱生がのとを洗おうとした時は、引っかくわ、隙あらば逃亡しようとするわで大変だったのを覚えている。水は平気なのに、湯になるとなぜか嫌がるのである。
「まさか、昼顔さんを引っかいたりしてないよな……?」
そんなことをされていたら申し訳が立たない。そう思い尋ねると、びくり、と、のとが震えた。
「まさか」
葱生が繰り返し問うと、のとは強く首を振った。どうやら引っかいてはいないようなので、その点に関しては安心だが、何かあったらしい。
「まあ、お前のためにやってくれてることなんだからな」
のとは恨めしげな目線を向ける。
葱生はのとを抱えたまま、祖母のいる方へと向かった。
手招かれて、祖母のすぐ近くにあった座布団に座る。祖母が上座にあたる位置におり、それ以外に四つの座布団が置かれていた。葱生が座ることで、その全てが埋まる。
祖母以外の三人のうち、二人は既に見たことがあった。温泉に行く前に、妖怪たちの集まる部屋で見た二人だ。
葱生の正面に座っているのは、金髪の女性だった。地毛のように見える艶めいた金髪はかなり長い。背中の中ほどまではあるのではないか。髪は波打ち、広がっていた。正座という体勢からでも分かる、手足はすらりと長い。外人的な顔立ちという訳ではないのに、不思議な雰囲気を持っていた。葱生の通う高校には決して見つけられなさそうなタイプの女性だ。
葱生と目が合うと、彼女は唇で三日月を描いた。この距離にも関わらずひらひらと手を振る。
手を振り返すこともできず頭を軽く下げると、彼女は勢い良く、葱生の隣に顔を向けた。
「この反応! 初々しいわ! あたしが求めてたのはこういうのなのよ。分かる? 薬師さん!」
「──葛西さん。やたらと青少年をからかうもんじゃないですよ」
葱生の右隣に座っていた男性が、やや呆れた口調で言う。しかし、本当に彼が発言したのかは定かではなかった。
彼は顔の前に、半紙を下げていたのである。書写の授業で使うような、A四サイズの半紙を。紐に半紙を括りつけ、その紐を頭に結ぶことで、顔が綺麗に見えない形にしているようだった。短い黒髪に、葱生と同じ浴衣と丹前。顔を隠す半紙以外に気になる点はなく、それゆえに顔が見えないのがひどく奇妙だ。半紙には、書写の教科書に載りそうな整った字で、「薬」と書いてあった。
その字の通り「薬師」と呼ばれた男は顔を葱生の方に向けた。
「坊ちゃん、初めまして。私は『薬師』と呼ばれてるもんです。職業と呼び名と、ごっちゃになってる感じですね。どうぞよろしく」
「葱生です。よろしくお願いします」
差し出された手を握り返す。握手している間も、彼の顔の前で揺れる半紙が気にかかる。
二人が自己紹介し合ったのを見て、
「あっ、ずるい! あたしも入れてよ」
金髪の彼女が声を上げた。
「あたしは葛西。『葛の葉』の『葛』に『西』で、葛西よ。よろしくね」
「はい」
葱生は、今度は自分から手を差し出す。それを掴みながら、葛西は首をわずかに傾けて微笑んだ。
「そんな堅くならなくていいわよ。別に普段の口調で喋ってくれていいし」
「はい」
思わず丁寧語で答えてしまった葱生に、薬師が吹き出す。それを見た葛西がなぜか憤慨し、しかしすぐに気を取り直した。葱生との握手を終えると、自分の左側を示す。
「で、葱生、こちらが」
「天狗だ」
その男は頷いて、口を閉じた。その様子は満足げで、それ以上語るつもりはないらしい。
体躯はかなり大きく、葱生がこれまで見たことがないほどだった。二メートルはゆうに超えているのではないだろうか。その大きな体を、芥子色をした山伏の服装で包んでいた。顔は真っ黒で、覗く両目は金色に輝いていた。そして口のところが、鳥の嘴のように硬く突き出ている。一度見たら忘れられそうにない。
「天狗っていったら、赤い顔に長い鼻を想像するでしょ。それと違っても、ちゃんと天狗さんだから」
葛西が面白がるように言う。天狗がまた頷いた。天狗の顔は、見た目が人間とかなり違うということを置いておいても厳つく強面に見えそうだったが、その満足げな様子が恐さを緩和させていた。
彼らは葱生よりもだいぶ年上に見えた。少なくとも、十代ではないだろう。天狗にいたっては、もしかしたら百歳を超えているかもしれない。
それでも彼らの接し方は、年齢の隔たりを感じさせないものだった。彼らの発言が幼稚だったり葱生が見栄を張ったりしたということではなく、特に薬師を中心とした自然な気遣いが、くすぐったいと同時に心地良いものだったのだ。
やがて、膳に乗せられた料理が運ばれてきた。
いや、膳が料理を運んできた、と言った方が正しいだろう。
朱塗りの大きな膳が五つほど列をなして、四足をちょこちょこと動かしながら、こちらへと向かってくるのである。
「……歩いてる」
「部屋食のときはおとなしく運ばれるんだけどね。今日は張り切っているようだね」
含み笑いしながら祖母が解説してくれる。
会話をしている間にも膳は近づいてくる。先ほどの徳利と違って目がある訳ではなかったので、床をすいすいと動くロボット掃除機のような、そんなものに似ているという印象を受けた。
五つの膳は五人の前にそれぞれ収まると、ぴたりと動きを止めた。ここまで歩いて来れば、自分の仕事は達成したと言わんばかりである。
「いただきます」
「いただきます」
祖母の言葉に合わせて手を揃える。他の三人の声もそれに重なった。