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一通湖  作者: 夏乃凪楽
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七話


始まりの始まりは、たった一人の男だった。夢も希望も既に枯れ、家族を養う為に身を粉にして働く只の村人。


その男は猟師だ。雪が融けきることのない極寒の地で、絶対数の少ない獣を狩って自分や家族、村の食糧を賄うしがない狩人である。


木々の薄い山肌に生息する獣や鳥、白波立つ極寒の海辺に集まる海獣。熱心にそれらを、僅かずつでも狩っていく。そうしなければ自分が生きられないし、妻や息子も生きられない。だから、その日も狩りに出たのだ。


種類も数も少ない獣達だが、当然ながら生態がある。


少し前までは、村の近くの山に入れば、小動物を狙う中型の獣や鳥を狩れた。時期的なものである。年中雪に被われた土地でも、一応は季節があるようで、分かりにくいが時期が移ろえば山の獣がとんと姿を消す。


そうなれば勿論、猟師である彼が山に居る意味はない。何の理由があるのか知らないが、今年は獣の数が多かった。常にこのくらいの獣がいれば、食うに困りはしないのに。そう思うが、やはり時期が変われば獣は姿を消した。


山の獣が姿を消せば、彼の狩場は海辺に変わる。海辺に上がった海獣を狩るのだ。


海獣は総じて脂が多い。ランプの燃料や、人の活力等、この地で海獣の利用価値は非常に高い。獣の毛皮も当然重要だが、脂は消耗品であるから、獲れる時に獲れるだけ獲っておきたいものだ。


今年は稀にみる大狩猟かも知れない。


山の獣がそうであったように、海獣にも期待が湧く。


着古した毛皮の上着を何重にも着込み、愛用の轌を引き、彼は猟に出た。弓や短剣、縄等の道具を用意して、いつも通りに家を出た。


海獣の狩場は、村から少々離れた場所にある。村から近い海辺は、別の猟師の狩場である。少々遠いが、行かなければ生きられないのだから行くしかない。


雪の積もった山の麓を、轌を引いて歩く。脛まである雪をかき分け、岬の先にある狩場を目指す。


天気の良い日を選んでいるから、その日は頗る快晴だ。天気が良くとも、雪が融けることは滅多にないが。


毎年歩くその道無き道に違和感を覚えたのは、一つ目の山を抜けた時分だ。山を一つ抜ければ、もう一つ山を抜け、海に向かって少し歩けば狩場に着く。毎年通るのだから、多少の違いはともかく、大まかな地形は頭に入っている。


今回も記憶に沿って歩いてきた。先に見える二つの山の間を通れば、狩場は直ぐ近くのはずだ。


そのはずなのに、奇妙である。山の間に道がある。地形や風によって生じた積雪の段などではない。それはそう、村の道のように雪を掻いて作ったような、くっきりとした道である。いや、村の道より綺麗な道だ。


掻いた雪垣の高さは男の背丈の倍ほど。幅は人が三人並んで歩けるかどうか。長さは大体、山一つ分だろうか。


男が狩場に向かう為の山間。そこに、廊下のような道が出来上がっているのである。明らかに人工物である。だが、これほどの規模、人の身で成し得るだろうか。


大勢で取り掛かれば、出来るかも知れない。しかし、ここは世界の果てだ。男の住む村が、世界の果ての村だ。仮に世界の中心から大量の人がこの地に来たのであれば、村にも話くらいは届くはず。しかし、そんな話は聞いた覚えがない。


そもそも、一体何の為にこの山間に道を形成したのか。疑問は尽きない。だが、一人で悩んで解決するはずもない。そして、猟に来て一匹の成果も無しには帰れない。


長く続く雪の回廊を覗いてみるが、何か危険があるようにも見えない。自然物ではないだろう。明らかに人工的ではあるが、人工物でもないように思える。


何らかの意図の下に形成されたのは間違いないだろう。だが、形成した犯人も、その意図も、全く以てわからない。不気味だ。


やはり一度村に戻るべきだろうか。自然物ではないのだから、村の人に相談した方がいい気がする。しかし、猟に出られるのは天気の良い日だけだ。今日を逃せば次は何時になるかわからない。それに、村人に相談したところで解決するとも思えない。結局は誰かが身を以て通るという結論に至るだろう。ならば、今この場で自分が行っても変わらないだろう。


そう結論付け、彼は轌から短剣を取り出して腰に提げた。弓で仕留めた獲物を絞める為に所持しているだけの短剣だから、彼は短剣を持ったところで護身程度にしか使えない。しかし、全く何も準備無しで前方の道に向かう勇気もなかった。


代わり映えの無い永久凍土の地で産まれ育った男である。物心付く頃には生活に必要な全てを理解していた。だから、知らなかった。


未知の物が、これほど恐ろしいとは。


もしかすると、それは男の好奇心というものが枯れているだけなのかも知れない。好奇心旺盛な人物なら、好奇心に胸を踊らせ、喜び勇んで突入したのかも知れない。


しかし、現在、そのような些事は関係ない。重要なのは、彼が眼前の未知に恐怖したことと、その対処の仕方を知らないこと。


誰かに相談するでも、慎重に調査するでもない。ただ、自身に危険が迫れば咄嗟に動こうという気概だけを持ち、彼は轌を引き始める。


それは正しく、死へのカウントダウンだ。無論、彼はそのような自覚はない。ただただ無知に、仕掛けられた罠に足を向けるだけである。


一歩、また一歩と雪を踏みしめる。


近付いて観る雪道は、荘厳さ漂う。純白の床と壁。丁寧に均してあるのか、磨いた宝石のように陽の光を反射している。


その美しさに気を取られながら、雪道を歩く。高い壁に圧迫感があるが、白一色の道であるから、距離感すら曖昧だ。実際は感じている圧迫感以上に狭いのかも知れない。


もしもこの壁が崩れれば自分は生き埋めだなと、ろくでもない想像が浮かぶ。これだけの雪、一体どれほどの重量があるのか。


そう考えながら、固い床を踏み歩く。溶けた雪が凍ったわけではないが、床は固い。丹念に踏んで固めたのだろうか。


固いのに滑らない奇妙な雪を見ながら三歩ほど歩いた。雪道の入り口からは二十歩程度だ。


突然、踏み出した男の足が、雪の中に埋まった。まるで、そこだけが新雪だったかのように。


左足だけが、膝まで埋まっている。あまりに突然であったから、右足は膝立ちになり、両手は前に突いている。その両腕は雪の床を突いているから、どうやら本当に男の左足の部分だけが新雪のようになっていたらしい。


足を抜こうとするが、きれいに嵌まった足は簡単に抜けない。何より、体勢が悪いのだろう。嵌まったのだから、抜けないはずがないのだ。


四つん這いのような体勢から、一度体を起こして尻餅を付く。右足を支えにして真っ直ぐ引き抜けば、何も苦労はない。極寒の地で産まれ育った男だ。雪に嵌まった経験は一度や二度ではない。


右足を支えにする為に一度尻餅を突いた状態で、顔を上に向けた。別に気配があったとか、何となくとか、そういったものではなく、人体の構造状の問題で、男は空を見上げた。


そして、何かと目があった。雪垣の上、白い景色に紛れるように、何かがいる。


切れ長の黒い瞳、雪のように白い体毛。そして、赤い口内と白い牙。


男は、そう獣を、よく知っている。毎年毎年、男が狩っている存在だ。その獣の毛皮は防寒具として優秀で、男が着用している上着もその獣の毛皮で作った物だ。


低い声で唸るその獣は、飢えているのだろう。口の端から唾液を垂らしている。


男はその獣を知っているから、よくわかる。アレは飢えれば、武器を持つ人にさえ平気で襲い掛かることを。


慌てて足を抜こうとするが、慌てたせいで上手く抜けない。


男が手間取る間に、その獣は雪垣の上から男の近くに飛び降りた。近付いたことで男の鼻に獣臭さが届く。


睨み付けてくる獣に対し、男は牽制しようと手を振る。だが、その手にあるはずの短剣は、少し離れた場所に落ちていた。足を取られて転んだ時に手離してしまったらしい。


男の視界から外れるように、獣は男の背後に回る。飢えているだろうに、その獣に油断はない。


男は直感で悟った。自分が生き残る術はないのだと。深い雪に被われた世界の果てで、運良く誰かが通り掛かって助けてくれるはずがないのだ。


だから、男は抵抗を端から諦めた。男は知っているのだ。この獣は、この白い狼は、獲物の喉に噛み付いて、楽に逝かせてくれることを。無駄な抵抗は苦しみを引き延ばすだけだ。


そして、当然のように男の背後から獣が襲い掛かり、男の意識は直ぐ様途絶えた。


断末魔の一つもなく、新たな『悪惑天』その最初の侵入者は犠牲者と化した。後にはただ、男の亡骸を貪る一頭の獣が残るだけである。



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