三話
暗く深い洞窟の奥。一つの灯りが点され、湿った洞窟内を照らす。光源である炎が揺れる度、洞窟の壁に映えた影が同様に揺らめく。
炎に点されているのは海藤 駿。目を閉じ未だ眠ったままだが、自身の足でしっかりと立っている。
洞窟の床には水が侵入していて、二〜三センチ程度が水に浸っている。その水が時折波を起こし、海藤のスニーカーに少しずつ染みていく。
軈てスニーカーの布地を浸食した水が海藤の足を濡らし、その冷たさで海藤は目を覚ました。立った状態で覚醒するという不自然な状況に、海藤はバランスを崩して床に尻餅を突く。当然、床には水が広がっているので、海藤は再度驚くこととなった。
「冷て……っ」
半端な冷たさではない。まるで氷水のような温度であり、海藤はすっかり覚醒した。跳ね上がるように立ち上がった海藤だが、衣服に染み込んだ冷水は依然として付き纏う。ジャージのズボンやTシャツから滴る水を見て、海藤は眉を寄せた。
「微睡を追わして冷ます冷水や 汝湖山を怨むな哉 寒き感ずること又現也 夢現に囚わる汝が識 起たさんが為の図り故 我も又戻戻と識」
「營滸?」
「久久と謂う哉 汝海藤駿 暗き冥府の畔に久しく在 正しく在て佳き哉 誠佳く惟う」
「……よかったです、ね?」
「我營滸 汝が前に貌顕す 我醜怪と認めるとも 汝擾れること勿れ」
「え、はい」
營滸が『取り乱すな』と言っている。正直なところ、海藤はそれ以外のことを理解していない。それが今のことを言っているのか、これからのことを言っているのかさえもわからない。
だから、突如として洞窟の天井から何かが降ってきたことに、海藤は驚き悲鳴を上げた。
落ちてきたものは水の広がる地面で、もぞもぞと蠢いている。炎の灯り一つでははっきりと見えないが、それが生物としての形を保っていないことだけは確認できた。
「醜穢醜怪醜陋醜悪 醜き事限り無し 我營滸湖山の精 泥土を解し魂為す物怪 界と画す形也」
「あ、これが……營滸さん?」
目を凝らしてよく見ると、次第にその姿が明らかになる。
大きさはバスケットボール程だが、形は捏ねたパン生地を踏みつけたように歪。褐色の表面は水気が多くキラキラと光り、時折意思を持って蠢く。歪んだ表面から、大きな目や口や鼻や耳が垣間見え、まるで人の頭を捏ね繰り回しているよう。
この不気味な怪物こそ、海藤を黒い空間から解放した存在。自らを營滸と名乗る、湖沼と湖山の現神である。
その余りに強烈な見た目に、海藤は言葉を失う。營滸の表面に浮上するように現れる瞳と目が合う度、自然と足が後方に動く。
「汝營滸を忌避する哉 然れど既以遅し 汝は營滸と伴に在 其は汝の答也」
「あ……いえ、と……」
恐怖したわけでも、忌避したわけでもない。ただ、グロテスクとも言える見た目の衝撃に、海藤は圧倒されていた。
蠢く褐色が一際大きく歪み、器のような形になる。不気味な動きを海藤が見詰めていると、器の底から何やら光る物が顔を出した。ゆっくりと、營滸が吐き出すように器の中に現れたのは、深い緑と紫色の斑模様の水晶だ。
不気味ではあるが、不思議と引き込まれるような妖艶な輝きを放つそれに、海藤もまた引き込まれる。妖力とでも表すべきか、その水晶から発せられる力のようなものを、海藤は確かに感じ取っていた。
「此の紫翠玉こそ迷界を素 汝を縛し冥府の穢れ 我此を『惑の珠』と称える 触穢せよ海藤駿 然れば迷界開かれる 覚悟せよ海藤駿 汝非理為す者流と成る」
營滸の警告も耳に届かず、海藤は『惑の珠』に触れる。海藤は無意識の内に触れていたのだが、『惑の珠』の持つ妖力は海藤の意思など気にはしない。
パキンッと、割れたわけでもないのに『惑の珠』が透き通った音を立てる。慌てて海藤は二歩後ろに下がったが、もう遅い。『惑の珠』から滲み出た黒い煙が、營滸と海藤を包み込む。
黒い空間を想起させる煙の中で、海藤は味わったことのない苦痛に苛まれた。
顔の右半分、後頭部、右腕、背中、右脚が、とてつもない激痛に襲われていた。あまりの痛みに呻くことも出来ず涙を流し、毛穴という毛穴から汗を流した。
痛みが混在し、最早どの部位が痛みを訴えているのかも曖昧になる。だが、右目の痛みは常軌を逸していると思われ、海藤は左手で右目の辺りを掻き毟る。
右目の痛みは更に酷くなり、頭の奥を抉るようである。しかし、それは飽くまで最も痛む右目の話。その他の部位も神経を擂り粉木で砕かれるような激痛を発している。
痛みで叫ぶことが出来ないのならば、息を吸うことも出来ない。水の溜まった洞窟に倒れ口も鼻も塞がれた海藤だが、関係はなかった。寧ろ水を吸わずに済み幸運であった。
おおよそ一分程の出来事だが、海藤は確かに地獄を見た。発狂しなかったのが不思議なくらいである。
大きく息を吐き出し、大きく息を吸う。口も鼻も水に浸った海藤が行えば大惨事である。が、何故か海藤は気にした様子はない。
水を肺に取り入れて咳き込むどころか、漸く体に残った痛みに悲鳴を上げ始める。水の中で叫んでいるはずなのに、その声は空気を揺らして洞窟中に響き渡った。
洞窟の床をのたうちまわり、海藤は幾度となく岩や壁に体を打ち付けるが、新たな痛みを感じる余裕はない。
十分か二十分か、みっともないほどに泣き叫び続けた。海藤の喉は裂け、口内を噛み切り、噛み締めた奥歯の何本かは砕けている。強く握りしめた拳は爪が食い込み、全ての指の爪が割れてしまっていた。その姿が海藤を襲った痛みの壮絶さを物語っている。
瞳の焦点は合わず、息は荒れ、口端から唾液を垂らす今の海藤を見れば、十人が十人、海藤を狂人と称すだろう。
しかし、海藤は未だ正気を失っていない。否、理性を保っていると言うべきだろう。海藤の精神は確かに一度崩壊している。
地面に手と膝と額を付け、暫く震えていた海藤だが、軈てくつくつと笑い始める。気が触れたのではない。ただ純粋に、悟った現状が愉快に思えたのだ。
海藤は未だ気付いていない。自身の身体に起きた異変、その結末として訪れた心身の変化に。あの黒い煙が、海藤の身に何をもたらしたのかを。
海藤の毛髪は激痛によるストレスで色が抜け、灰色になっている。だが、海藤の為した異形はその程度の変化が誤差と言えるほどだった。
肩甲骨の辺りから右手の指先まで、腰から右足の指先までが褐色に変わり、妖しく炎の光を反射する。それは人の肌ではなく、滑らかな泥を人の手足に似せたようである。
顔の右半分も同様の変化が起きている。だが、後頭部から右耳を隠すように、赤褐色の仮面のような物が生えていた。それは海藤の右目、口と鼻の右半分と顎を覆い、首と額を経由し、海藤の頭部に張り付いている。その仮面と覆面の中間のような物には、顔の造形を一切無視して目鼻口耳が無造作に配置されている。
その仮面こそ、海藤と一体となった營滸である。海藤の知るところではないが、營滸は海藤の右目から後頭部を貫き、頭蓋骨内で海藤の脳とない交ぜになっている。
湖沼と湖山の現神である營滸と一体と化した海藤は、既に人ではない。その証拠に、全身がぼろぼろになった海藤からは一滴の血も流れていない。
死亡の条件は人と同じであるから、一応生物と呼ぶことは出来るかも知れないが、それだけだ。
營滸と一体となった海藤には、營滸の思考が直接に理解出来る。言葉にすれば全く要領を得ない營滸だったが、思考そのものとなれば、どんな伝達法よりも効率良く伝わる。
そこで知った事実に、海藤は笑ったのである。
(こいつ、何にも知らないのかよ)
營滸が海藤を巻き込み、実行したのも營滸であることに疑いの余地はない。だが、それは營滸自身、本能で動いていたようなものだったのである。
あまりの強烈さに戦慄すら覚える事実だが、營滸は海藤が雪原で力尽きるのとほぼ同時に生まれた存在だ。言うなれば、産まれたばかりの赤ん坊が乳を飲むのと同じように、海藤を依り代として引き入れたのだ。
本能として、この後何が出来るのかを理解しているが、具体的な方法や内容はわからない。そんな理不尽に実際に巻き込まれたことが、海藤には可笑しく思えた。
「湖山の際にて迷界を開闢せよ 其が我命にして汝が命 今際の界を紫翠に染めよ 其こそ彼我が運命」
「耳元で喋るなよ。わかってる」
傍らに落ちている『惑の珠』を拾い、海藤は立ち上がる。
「やるぞ、營滸。こんなことに巻き込んだのを許す気はないが、解放してくれたことには感謝してる」
「我礼無し 又謝も無し 結び果しが信条也」
「期待せずに居るよ」
紫と碧の斑の水晶。それを持ち、海藤は洞窟の奥に向かう。あれほど冷たく感じた足元の水が、今は冷たいと思わない。それは營滸と一体になったことで辺り一帯の地形が海藤の味方となったからであるが、海藤は気にも止めない。
營滸と海藤は一体となって尚、別の存在ではあるのだが、個体としては一つ。營滸にとっての当然は海藤にとっても当然であり、海藤にとっての異状が營滸にとっての異状。そこから生まれる矛盾は無意識の内に両者に都合の良い状態で落ち着かせている。
海藤は、辺りの地形が味方であるという營滸の常識を自分にも適用することで、当然に洞窟の前後を把握している。洞窟の奥に何があり、そこで何をするのかさえ、海藤は知っていて当然と認識する。
「其の珠丁重に扱うべし 彼我が此所に在るは其の庇保」
そんなことは言われるまでもない、と海藤は營滸の言葉に返さないが、『惑の珠』の扱いはどこか粗略だ。右手で掴んでいるだけであり、今に手を滑らせても可笑しくない。
しかし、自らの四肢を持たない營滸にはその危険性が理解出来ず、それ以上何かを言うことはない。
洞窟内に海藤が水を蹴る音が響く。どういう原理か、海藤を照らす炎は、一定の距離を保って海藤と共に移動している。正確には、海藤の持つ『惑の珠』に追従して動く。
洞窟の床は極緩やかに下りになっており、少しずつ少しずつ深水が深くなっていく。気温、水温共に低下しているが、海藤が凍えることはない。
軈て床の水が海藤の膝程度まで深くなり、海藤は立ち止まる。二歩も歩けば、足場を失うように急激に深くなっていて、これ以上進めないのだ。しかし、海藤が困惑することはない。
ここが洞窟の最奥。海藤と營滸の目的地だからだ。
「それにしても広いな。洞窟の中、それも大分歩いた後だってのに、向こう岸まで一キロくらいか?洞窟内の湖か」
「我此の底より出でり 迷府の如く暗き底 畔より覗い碧と想う 我此を美景と謂う」
「なんか、無駄口が増えたな。別にいいけど」
とはいえ、海藤も湖を美しいと言う評価には賛同する。炎一つの灯りしかないにも拘らず、光を透し、反射する湖は全体が輝いて見える。それは綺麗な碧色をしているが、陽の光で照らして見れば尚更綺麗に見えただろう。
「汝開闢の刻来たり 我等此に迷界の始期を刻まん」
「……あぁ、やろう」
海藤が『惑の珠』を持った右手を後ろに引き、力強く振り切る。途中で放された『惑の珠』は、湖の半ばまで飛び、小さな水飛沫を上げて湖に沈んでいった。
慌てたのは營滸である。
「汝存外愚かなること限り無し 彼の紫翠玉我等が魂に平 汝識る所為らざる哉」
「わかってるよ。別にあれくらいじゃ壊れないだろ」
「汝悉く愚に尽く也 我意呆にて喋出でず」
海藤と營滸の言い争いを余所に、湖の底に辿り着いた『惑の珠』に変化が表れる。それは海藤の目に映ることはなかったが、珠の変化は海藤達にも影響を与える。
この洞窟の外。人が生活を営む場所では一般的に“迷宮化”と呼ばれる現象が、辺り一帯と海藤の身に起きたのである。“迷宮化”という言葉は知らずとも、その影響自体は、海藤自身が身を以て理解している。
極寒の地、山河重なる世界の端で、一つの迷宮が生まれた。そのことを知る者はまだ一人もいない。
海藤と營滸ですら、自分達が『迷界』と呼ぶモノの正体を理解していないのである。