一話
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海藤 駿は困惑していた。
灰色の空、白い地面、頬を撫でるのは冷たい風。灰色の空からはチラチラと、白い粒が落ちてくる。
白い粒は海藤の黒い髪に止まると、一拍の間を置いて消える。それが何度も何度も繰り返される。
「………雪?」
呟いた海藤の口から、白い息が漏れる。その息を見て漸く寒さに気付いたように、海藤は全身を震わせ、自身の体を抱く。
海藤は、雪原に立っていた。何故、こんな所に立っているのか、海藤自身わからない。このような場所に立っているというのに、この場所に来るまでの記憶が何一つ無いのだ。
記憶を探ってみても、前日の夜、部屋の電気を消して布団に入った記憶から後はない。このような状況にあるせいで、その記憶が本当に前日のものであるのかどうかさえ定かではない。
とかく、何故海藤が雪原に立っているのか、海藤は理解していない。そして、ここが何処なのかさえ、海藤はわからない。
これは夢の続きなのではないかとも考えるが、全身を冷やす風の感覚が、その可能性を否定する。夢と現の判断がつかないほど平静を失っているわけではない。
これは現実で間違いない。海藤はそう結論付けるが、依然として半信半疑。現実味のある感覚はあるのに、状況はあまりにも現実味がない。
気付けば雪原に立っていたという状況そのものの異常性もそうだし、そもそも自分はどうやってここに来たのか。辺りを見渡しても雪化粧を施した山が遠くに見えるだけだ。
足下に広がる雪景色には車の通った形跡はおろか、自分の足跡すら無い。一体、どの方向からどうやってここに来たのか。これはあまりにも不可思議だ。
まさか上からここに降りて来たわけでもあるまいと、空を見上げる。案の定、厚い雲に覆われた灰色の空が見えるだけだ。
状況を把握しようとすればするほど混乱する。
「……さっぶい」
わからないことは一先ず投げ出し、暖を取ろう。海藤はそう思い立って辺りを見渡すが、当然ながら暖房機は無い。暖房設備の整ったデパートやファーストフード店はもちろん、風を避ける家だって無い。木も岩もなければ、上着も無いのだ。
海藤は、白の長袖Tシャツと黒の長ズボン、靴下無しのスニーカーという姿で、何もない雪原に突っ立っているのだ。ポケットを探っても、糸屑の一つも出て来ない。
ここで漸く、海藤の心に焦りが生まれてくる。見知らぬ土地に投げ出されたどころではない。右も左もわからないどころか、この寒さの中、後何時間生きていられるのかもわからない。
ひょっとしたら、このまま俺は死ぬんじゃないか?
海藤の額に汗が滲む。只でさえ冷たい汗だというのに、気温のせいで更に冷たく額を風が撫でる。その冷たい汗で冷静さを取り戻したかのように、海藤の頭が急速に思考を回転させる。
思い浮かぶのは、どれも最悪の事態。どう考えてみたところで、冷たくなった体で雪に埋もれる自分の姿しか想像できない。
口の中がカラカラに渇き、全身に汗が滲む。体温が急激に奪われていくが、凍える余裕すら、今の海藤は失っていた。
どうすればいい?雪山で遭難した時どうすればいいのか、テレビのニュース番組でやっていただろ。
海藤は必死に思い出し、結果として余計に絶望を味わう羽目になった。そのニュース番組では『事前に入念な準備をした上で入山した場合』の説明をしていて、前提条件として『防寒具、食料品等の所持品』を説明していたのだ。今の海藤には何もない。
自力で助かる可能性は無いと見ていいだろう。ならば期待するのは救助なのだが、それも期待できるものではない。
自分自身どうやってここに来たのか、何故ここに来たのかわからないのだ。救助隊が自分を探すとは到底考えられないし、仮に救助を始めたとしてもこの雪原に救助の手が伸びるとは思えない。
ぐるぐると回る思考で海藤が想像したのは、海藤が小学二年生の頃、実家の倉庫に閉じ込められた時の恐怖感だ。必死になって出口を探しても見つからなくて、泣き喚いても誰も気付いてくれなくて、きっと自分はこの真っ暗な空間で一生を過ごすのだろうと絶望した。
結局、その時は海藤の姿を見えないことを心配した母親が発見したのだが、今とあの時では全く深刻さが違う。幼少の頃の海藤にとってはどちらも同じ絶望だったろうが、根本的な規模は圧倒的に違うのだ。
何より、今の海藤は『ここで一生凍えているんだ』などと考えない。ここで死ぬんだ。そう考えるのみ。
死が、直ぐそこにある。それは恐らく、逃れられないものだ。
そう自覚すると、今度は恐ろしいほど冷静になる。逃れられない死を目前にして肝が座ったというのか、海藤は溜め息を吐いて頭を掻く。
「寒…………」
特に目的は無いが、海藤は歩き出す。敢えて目的を付けるとするなら、じっとしているのが寒かったから。そんな程度の理由だが、海藤の足は積もった雪を踏みしめる。
向かう先は、特に目的は無いが遠くに見える山。敢えて目的を付けるとするなら、それ以外の目印が無いから。
山を目指して歩く海藤は無表情。腕を組んで少しでも寒さを凌ぎながら無気力に、無表情で歩く。
そうして心を殺して、何かをしていないと心が壊れてしまう。海藤の本能が導き出した答えが、海藤の体を目的無く動かしていた。
温暖な土地で生きてきた海藤に、薄くとはいえ新雪の積もった地面はとても歩き難い。一歩一歩が重く、時折バランスを崩す。それでも転倒だけはしないよう、慎重に足を運ぶ。
ただ一心に足を前に進める。まるで白く染まったあの山に何かがあるのだと言わんばかりに。当然、ここが何処かも知らない海藤はあの山に用事があるわけではないし、実際、あの山には深く積もった雪と枯れた林しかない。
ただひたすら歩を進める海藤の姿は、死に向かって歩いているようにも見える。その実、歩くことを止めその場に座り込んだとしても、海藤は死に向かって進む。統合すれば、さながら今の海藤は死場所を探す世捨て人だ。
海藤はただ、歩く。
歩き始めて何れ程の時間が経ち、何れ程の距離を進んだのか、海藤には知るよしも無い。あの山まで後何れくらい掛かるのかもわからない。
半分ほど歩いただろうか。もしかすると全くの見当違いかも知れない。
海藤は振り向くことはないが、海藤の後ろに、海藤の足跡はない。いつの間にか強くなった降雪の影響で、足跡は薄く隠されているのだ。戻る気のない海藤にとっては、何ら関係のない話ではあるのだが。
降り積もった新雪は、気付けば海藤の踝を隠すほどになっている。元々歩き難かった雪道ではあるが、ここまで積もれば最早、海藤は足を上げることすら困難だ。
慣れない雪の上を歩いた肉体的疲労。体力が失われていく毎に内から沸き上がる死の実感。思い出すのは、突如として雪原に立っていたという、過程の抜けた理不尽。
既に海藤の精神は摩耗し、崩壊寸前だった。
にも拘らず、海藤の足は何故か上がる。既に生きる望みが無いことなどわかっているのに、疲れた身体をここで休めてしまいたいのに、海藤の意思とは関係なく、海藤は歩く。頬を伝う汗も、溶けた雪で感覚のなくなった足先も無視し、海藤はひたすら山に向かう。
更に歩くこと数十分。時間感覚のない海藤には何時間も歩いたように感じる時を越え、遂に海藤は足を止めた。
疲労で足が動かなくなったわけではない。新雪と足を上げられなくなったわけでもない。無論、山に辿り着いたわけでも、救助が現れたわけでもない。
では何故、海藤は足を止めたのか。それは海藤自身にしかわからないことだが、その海藤の瞳は、ある一点を見詰めて動かない。そこは山ではないし、何かしら特筆する物や者があるわけでもない。今までと変わらず雪化粧の施された白があるだけである。
しかし、海藤はその白いだけの何もない場所を見詰め、動かない。何もない場所であるのは間違いないのに、海藤はそこに興味を持っている。
海藤は、音を聞いた。
自分が新雪を踏みしめる音と自分の荒れた呼吸しか聞こえなかった雪原で、海藤の耳に届いた別な音。音源に成りうる存在は自分だけだろうに、何かが音を立てたとなれば海藤がそれに意識を向けるというのも当然だった。
暫く音のした方向を見詰める海藤だが、待ってみても新たな音が鳴ることはない。海藤の耳に響くのは自分の呼吸と心音だけで、視界に映るのは積雪と降雪だけ。積もった雪が動くこともない。
ふらり、と海藤の体が揺れる。海藤の足が再び動き始めたからだ。だが、その足の向かう先は変わっている。山ではなく、何もないはずの雪に向かって海藤の体重は移動しているのだ。
立ち止まる前よりも更に重い足取りで、海藤は力無く足を動かす。今にも倒れてしまいそうな海藤は、実際に何度も雪に足を取られて立っているのもやっとという風情だ。
体温をすっかり奪われた手足は思うように動かないし、顔は引き吊って痛いほど。海藤自身、何故こんなになってまで歩いているのか、そもそも生きる理由すら不明だ。
それでも、やはり海藤は歩く。何かに突き動かされているわけではないし、どうしても歩きたいという意思があるわけでもない。ただ、目的が無いから、無いからこそ歩く。
どういう行動原理なのかなんて、海藤がわからないのだから他の誰かがわかるはずもない。
只でさえ重い足であったが、十歩も進めば限界が来た。足の先の感覚はとっくになくなっていたし、太股は重くてもう上がらない。この辺りは雪が深く、海藤は腰まで雪に埋もれている。
例え足に限界が来なくとも、海藤はもう動けなかっただろう。悴んだ手はまともに動かず、雪を掻き分けることも出来ない。
原因は様々あるだろうが、何れにせよ、海藤は限界である。海藤の巻き込まれた理不尽な死への道であるが、それは遂にというべきか早くもというべきか、終わりを迎えることとなる。
腰まで雪に埋もれたまま、海藤は前方に倒れる。柔らかい新雪は冷たく海藤を受け止めるが、感覚の麻痺した海藤には羽毛布団のように感じられた。
―――そんなわけないか。
引き吊った肌では、最後に笑うことも出来ず、海藤は目を閉じた。
瞬間、海藤は雪の中に消えた。正確には、雪の下の何かに引き摺り込まれるように雪の中に潜った。
深々と雪の降る雪原で、海藤の足跡は一つ残らず消されていく。まるで海藤がこの場にいた証を抹消するように。