さようなら、ふたりの異邦人
「……あのとき、あなたの忠告を素直に聞いていれば、こんなことにはならなかったのでしょうね」
エルザは便箋に向かって、小さく息を吐いた。
窓辺から差し込む午後の日差しが、机の上に広げられた何枚もの手紙を照らしている。
そのどれもが、宛名を書かれたまま、まだ封をされていなかった。
宛先は、かつてエルザに辛辣な忠告をしてくれた人々だった。
彼らは皆、エルザの親友であるミーナとの付き合いを心配していた。
『あの娘を信用しすぎてはいけないわ。蛙の子は蛙というでしょう。泥棒猫の子が、同じようなことをしないとは限らないのよ』
『あなたは善意で接しているつもりでしょうけれど、あの娘はあなたの優しさを利用しているように見えるわ』
『友人という言葉に惑わされないで。人の本性は、都合の悪いときにこそ表れるものよ』
何度も、何度も忠告された。
けれど、当時のエルザはそれらを心の汚い人たちの偏見だと決めつけ、聞き入れようとはしなかった。
ミーナは自分にとって大切な友人だった。
男爵家に引き取られたばかりで、貴族社会にも馴染めず、いつも心細そうにしていた彼女を放っておけなかったのだ。
だからこそ、ミーナを悪く言う人たちが許せなかった。
自分のこと以上に、ミーナへの心ない中傷に心を痛めていた。
彼らの言葉を悪意と決めつけ、時には面と向かって非難し、最後には自分から付き合いを断った。
今思えば、なんと愚かなことをしたのだろう。
忠告してくれた人たちは、決してエルザを傷つけようとしていたわけではなかった。
人生経験を積んだ彼らは、エルザには見えていなかったものを見ていたのだ。
そして、ただ彼女が傷つくことを心配してくれていただけだった。
それなのに、エルザは彼らの善意を踏みにじった。
自分を心配してくれる人たちよりも、自分が守りたいと思った相手の言葉を信じた。
その結果が、今なのだ。
「……本当に、ごめんなさい」
誰に聞かせるでもなく呟き、エルザは再びペンを走らせた。
『あのときは、あなたの忠告を聞き入れず、ひどい言葉まで投げつけてしまいました。今さら許してほしいなどと申し上げるつもりはありません。
ただ、あのときのあなたの言葉が、私を心配してくださったからこそのものだったと、ようやく理解できました。
今まで謝罪もせずにいたことを、心からお詫びいたします。
私はこのたび、婚約を解消することになりました。
これまでのことを振り返り、しばらく俗世を離れて静かに暮らしたいと思っております。近く、北の聖なる尼寺へ向かい、修道女として残りの人生を過ごすつもりです。
あなたのこれからの日々が、どうか穏やかでありますように』
書き終えた手紙を読み返し、エルザはそっと目を伏せた。
許してもらえるとは思っていない。
返事が来なくても構わない。
ただ、間違っていた自分を認め、きちんと謝りたかった。
かつて自分を案じてくれた人たちに、せめて最後くらいは誠実でありたかったのだ。
手紙を封筒に入れ、宛名を記す。
一通、また一通。
すべてを書き終える頃には、窓の外の空が茜色に染まっていた。
エルザは封筒の束を眺め、静かに微笑んだ。
明日には、これらをすべて発送しよう。
そして、自分も王都を去るのだ。
そう決めたとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「エルザ様、お父様がお呼びです」
侍女の声に、エルザは顔を上げた。
「分かったわ。すぐに参ります」
机の上を片付け、最後の一通を封筒に収める。
それは、もう二度と戻らない過去に向けた、エルザなりの決別の手紙だった。
このときのエルザは、まだ知らなかった。
自分を裏切った者たちと自身が、これからどれほどの代償を払うことになるのかを。
そして、かつて自分が縁を切った人々との関係が、思いもよらない形で再び動き出すことも。
◇
大広間の重厚な円卓を囲む空気は、氷のように冷え切っていた。
「……以上が、ジュリアン様とミーナの不貞を示す証拠、および今後の取り決めになります」
侯爵令嬢エルザは、凛とした声でそう告げた。
その瞳に涙はない。
ただ淡々と、机の上に並べられた密会の報告書を見つめていた。
対面に座る婚約者のジュリアン伯爵嫡男は、真っ青な顔でうなだれている。その隣では、男爵令嬢のミーナが怯えるように縮こまっていた。
ミーナは、男爵が外で作った庶子だった。
数年前、正妻が亡くなった隙に、男爵家本邸に母親とともに押しかけ、居着いたばかりの彼女は、貴族のマナーも知らず、社交界に知り合いもいない中で、いつも心細そうに震えていた。
そんな彼女を最初に見つけ、優しく手を差し伸べたのがエルザだった。
『これからは私たちがあなたの家族よ』
エルザはミーナを自分の大切な友人グループに招き入れ、ドレスを贈り、作法を教え、まるで実の姉妹のように可愛がった。
ミーナにとってエルザは恩人であり、最愛の「お姉様」のはずだった。
だが、ミーナがエルザに返したのは、最悪の裏切りだった。
エルザの婚約者であるジュリアンの物欲しげな視線に気づき、彼を誘惑した。
そして、エルザの婚約者という立場を奪い取ろうとしたのだ。
「話し合い」は、エルザの主導で静かに、そして容赦なく進められた。
エルザの父である侯爵、ジュリアンとミーナの親たちが見守る中、言い逃れのできない証拠を突きつけられた二人は、全面的に非を認めるしかなかった。
「婚姻契約の不履行、および侯爵家の名誉を著しく傷つけた対価として、我が家が提示した額の違約金をお支払いいただきます」
エルザの父が提示した賠償額は、伯爵家の財政を根底から揺るがすほどのものだった。
ジュリアンの父は絶望に顔を歪めながらも、公にされることを恐れ、震える手で書類に署名した。
連帯して責任を問われたミーナの男爵家も、没落寸前の借金を背負うことが確定した。
「……婚約破棄の手続きは、これで完了です」
エルザは書類を確認し、静かに告げた。
「私は明日、北の聖なる尼寺へ赴きます。俗世の喧騒を離れ、神に身を捧げて暮らすつもりです」
毅然とした、しかしどこか儚げな出家の宣言に、同席していた大人たちは言葉を失った。
裏切られた被害者であるエルザが、怒りをぶつけることもなく、社交界から身を引く。
その姿は、やがて「悲劇の令嬢」の美徳として、王都中に広まっていくことになる。
◇
数日後。
エルザが静かに王都を去った後、残された友人グループの令嬢たちは、ミーナを呼び出した。
ジュリアンとの婚約が決まり、ホッとした顔で現れたミーナを待っていたのは、軽蔑に満ちた冷たい視線だった。
「ミーナ。あなた、よくもそんな顔をして私たちの前に来られたわね」
「え……? だ、だって、エルザ様は納得して身を引いたのよ? これからは私がジュリアン様の――」
「黙りなさい、この泥棒猫」
グループの中心的な令嬢が、ミーナの言葉を鋭く遮った。
「身寄りのないあなたを、エルザがどれほど大切にしていたか忘れたの!? マナーもドレスも、全部エルザが与えてくれたものじゃない! 恩を仇で返すような人間、私たちの仲間にはいらないわ」
「お姉様方、そんな……冗談でしょう? 私たち、友達じゃ……」
「友達? あなたにそんなことを言う資格があると思っているの?」
別の令嬢が冷ややかに言い放った。
「私は自分の婚約者と家族をあなたに会わせたくないの。二度と私たちの前に現れないで」
蜘蛛の子を散らすように、あの日エルザが繋いでくれた友人たちは、一人残らずミーナから離れていった。
ミーナは再び、あの頃以上の底なしの孤独へと突き落とされた。
因果応報は、それだけでは終わらなかった。
親友を裏切ったミーナと、目先の誘惑に負けて多額の違約金を背負ったジュリアン。
二人の不誠実極まりない悪評は、社交界の隅々にまで行き届いていた。
『あんな倫理観のない血筋を、我が家に迎えるわけにはいかない』
『不実な息子に、恩を仇で返す娘か。関われば我が家までどんな目に遭うか分かったものではない』
貴族たちの判断は迅速かつ冷酷だった。
多くの貴族が、ジュリアンの伯爵家とミーナの男爵家に対し、家族ぐるみでの付き合いを一切断つことを決めた。
夜会への招待はすべて途絶え、こちらからの訪問は門前払い。
そればかりか、両家が営んでいた商売の契約は次々と打ち切られ、他の兄弟たちの縁談もすべて破談となった。
侯爵家との縁を失ったことは、単なる婚約破棄以上の意味を持っていた。
両家がこれまで築いてきた信用まで失われたのだ。
社会的にも経済的にも孤立した二人の実家は、見る影もなく没落の道を転がり落ちていく。
ジュリアンとミーナは、互いに支え合った。
しかし、かつて燃え上がった恋心などとうに消え失せていた。
残されたのは、後悔と先の見えない生活への不安だけだった。
◇
それから一年後。
緑豊かな北の尼寺で、エルザは穏やかな朝を迎えていた。
ここには社交界の嫉妬も、裏切りもなく、心ない噂も届かない。
ただ静かで、穏やかな時間が流れている。
「エルザ様、王都からお手紙が届いていますよ」
修道女が笑顔で運んできたトレイには、何通もの封筒が載せられていた。
その中には、かつてエルザが自分から縁を切ってしまった人々からの手紙もあった。
最初に届いた返事は、短いものだった。
『あなたが自分の過ちを認め、謝罪してくれたことを嬉しく思います。あの頃のことは、もう気にしていません。どうか新しい場所で、あなたらしく幸せに暮らしてください』
その言葉を読んだとき、エルザは思わず涙をこぼした。
許されることなど望んでいなかった。
それでも、こうして温かい言葉を返してもらえたことが、何より嬉しかった。
そして、手紙には王都の近況も記されていた。
ミーナとジュリアンがどのような末路を辿っているのか。両家がどれほど困窮しているのか。かつての友人たちが、今どのように暮らしているのか。
「ふふ……みんな、相変わらず賑やかなのね」
エルザは微笑みながら、手紙を大切に胸に抱いた。
もう、過去に囚われる必要はない。
自分の過ちを認め、謝ることができた。
そして、失ったと思っていた縁も、少しずつ結び直すことができた。
かつての忠告を無駄にしないためにも、これからは人の言葉に耳を傾け、自分自身の目で人を見ていこう。
澄み渡る青空の下、エルザの心には穏やかな光が満ちていた。
そんなある日、エルザは王都から届いた別の封筒を手に取った。
差出人は、ジュリアンとミーナだった。
ずっと読む気になれず、机の引き出しにしまっていたものだ。
エルザはしばらく封筒を見つめた後、ようやく封を切った。
そこに書かれていたのは、予想していたとおりの謝罪だった。
自分たちの行いを悔いていること。あのときはどうかしていたこと。できることなら、もう一度話をする機会が欲しいこと。
言葉だけを見れば、殊勝な内容だった。
けれど、読み終えたエルザの心には、何も響かなかった。
怒りが湧くわけでもない。
悲しみが込み上げるわけでもない。
ただ、遠い国の知らない人から届いた手紙を読んだような、奇妙な感覚だけが残った。
「……私は、どうしてあんなにミーナを大切に思っていたのかしら」
かつては妹のように愛していた。
彼女のためなら何でもしてあげたいと思っていた。
困っていれば助け、悲しんでいれば慰め、彼女が笑えば自分まで嬉しくなった。
あの気持ちは、決して偽りではなかった。
それなのに、今となっては不思議でならない。
同じものを見て、同じように笑い、同じ言葉を交わしていたはずなのに、二人は何も共有できていなかったのではないか。
エルザはふと、以前新聞で読んだ記事を思い出した。
ある男が、旅行の間、仲の良い外国人の隣人に愛犬を預けたという話だった。
隣人とは家族ぐるみの付き合いで、互いに信頼し合っていた。
男は大切な愛犬を安心して預け、旅行から帰ってきた。
ところが隣人は、男の顔を見るなり、こう言ったのだそうだ。
『あのお肉はたいへん美味しかったですよ。ごちそうさまでした』
男が預けた犬を、隣人は贈り物と考え食べてしまっていた。
彼にとって犬は家族だったのに。
しかし隣人にとっては、食べることのできる動物にすぎなかった。
隣人に悪意があったのかどうかは分からない。
ただ、両者の間には、決して埋められない価値観の違いがあったのだ。
その話を読んだとき、エルザはなんて愚かな飼い主なのだろうと思った。
大切な家族を、どうしてそんな相手に預けたのかと。
けれど、今なら分かる。
「……私の方が、もっと愚かだったのね」
ミーナを妹のように愛していたのはエルザの勝手だった。
自分が注いだ愛情と同じものが、相手から返ってくると思い込んでいた。
相手も自分と同じ価値観を持ち、同じように友情や恩義を大切にするはずだと信じていた。
けれど、そうではなかった。
ミーナはエルザとは違う世界に生きていた。
大切なものも、許されないことも、何を裏切りと感じるかさえ違っていたのかもしれない。
彼女はエルザにとって、最後まで理解できない異邦人だったのだ。
悪気がなかったのなら、なおさら始末が悪い。
相手にとっては何でもないことでも、自分にとっては取り返しのつかないことがある。
その違いを理解せず、相手を自分と同じだと思い込んだ。
結局、付き合う相手を見誤り、距離を間違えた自分にも責任があったのだ。
もちろん、裏切ったことまで許せるわけではない。
ただ、もう彼女を理解しようとする必要も、分かり合おうとする必要もなかった。
エルザは二通の手紙を机に置いた。
そして、もう一通の手紙に目を向けた。
差出人は父だった。
そこには、意外な話が書かれていた。
四十を過ぎた再婚の子爵との見合いを考えてみないか、というものだった。
以前のエルザなら、ふざけるなと怒っただろう。
初婚の侯爵令嬢が、そんな条件の相手と結婚するなどあり得ない。
けれど、今のエルザには、その条件を笑うことすらできなかった。
貴族社会において、家同士の初婚は重要な意味を持つ。
そして初婚の花嫁が純潔でないという事実は、相手の家にとって大きな問題になる。
よほど事情を理解し、受け入れてくれる相手でなければ、まともな縁談は望めない。
ジュリアンとの関係を許してしまったこと。そして破談した事実。
それは、エルザ自身が望んだことではなかったとしても、貴族社会では簡単に消せるものではなかった。
だからこそ、彼女は尼寺に来たのだ。
傷ついた心を癒やすためだけではない。
王都に戻ったところで、かつてと同じ立場には戻れないことを、誰よりも理解していたからだ。
父の手紙には、無理に勧めるつもりはないとも書かれていた。
ただ、もし本人が望むなら、少しでも穏やかな暮らしを送れる相手を探してやりたい、と。
エルザは手紙を読み終えると、窓の外を眺めた。
四十を過ぎた子爵。
再婚相手。
以前なら、到底受け入れられなかった条件だ。
けれど、今の自分には、それを断ることが贅沢な高望みのように思えた。
それでも、まだ返事をする気にはなれなかった。
これからどう生きるのか。
何を望み、何を諦めるのか。
それを決めるのは、もう少し先でいい。
エルザは机の上に置かれたジュリアンとミーナの手紙を手に取った。
かつてなら、どんなにひどいことをされても、二人の言葉を信じようとしただろう。
今なら分かる。
許すことと、再び受け入れることは違う。
謝罪を受け取ることと、関係を取り戻すことも違う。
そして、誰かを大切に思うことと、その人に自分の人生を委ねることも違うのだ。
エルザは庭へ出た。
乾いた小枝を集め、小さな火を起こす。
そして、二通の手紙をその中に投じた。
紙の端が黒く縮れ、文字が炎に呑まれていく。
ミーナの名前も、ジュリアンの名前も、やがて見えなくなった。
「さようなら、ふたりの異邦人」
立ち上る煙を、エルザはいつまでも見上げていた。
過去は戻らない。
失ったものも、取り返せない。
けれど、これから誰を信じ、誰と生きていくのかは、自分で決められる。
それだけは、もう間違えたくなかった。
北の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。




