ひぐらし
「ひぐらし」
「え?」
一面に広がる田んぼ。穂が右へ左へふらふらと凪いでいる。その中央を突っ切るように農道が碁盤目に続いている。
「ひぐらしが鳴くと 切なくならない?」
「ああ。なるね」
風が吹く度に さあ・・・・と穂がこすれ合う音がする。耳から脳に心地よい波が伝わる。少し肌寒い。
「私は家に帰りたくなるんだ」
「実家?」
「うん」
彼女はその場にしゃがみ込むと名前も分からない草にそっと触れた。刃物を扱うように慎重な手つき。
「でも帰るのをためらう」
傾き始めた日の光が穂の間から彼女の顔に差し込む。
「どうして?」
また波が来る。
「夜ね・・・・夜行バスに乗って自分の故郷を高速から眺める。乗り始めた時は早く会いたくて 帰りたくてたまらない。それなのに・・・・・家の明かりを見ていると・・・・こんな風にざわざわ 後悔が体中に広がる。」
「後悔?」
「変えようのない過去が町の景色とともに私の記憶に刻まれている。」
「記憶・・・・・」
「だれしも過去の失敗を悔やむ時があって でもそれをバネに頑張るでしょ。」
「うん。」
「考えている時苦しくて 惨めで 殴りたくなる。でも 一時すれば皆「今」に帰る」
彼女はその場にあった石で硬い土の上に二つの丸を書く。
「右は今 そして左は過去」
右手を今の丸に置く。
「ここに私はいる。この少し汚い丸の中に私は生きている。」
確かに右の方が少し雑だ。
「こんな日常なの。少し凹んで でもまたつなぎ目を綺麗につなげる。何度も。」
ぎざぎざした部分を消して綺麗な丸にする。
「そしてこっち」
左に手を置く。
「ある程度綺麗な丸だけど ほら」
とぎれとぎれに円が繋がっていない。
「これは円じゃない。分かってる。分かってるのに。今は直せない。」
すると彼女は ペタペタと土を叩いた。
「こうして線に触れられずに 足掻く。まるでガラス越しの再会を果たす二人のように。ようやく気付いたのに
いつだって手遅れだ。全部知っていたらいいのに。どうして何にも知らずに生まれたのかな」
「知っていたら・・・・・変わった?」
「・・・・・どうかな。多分もっと上手く立ちまわれたかな。でも・・・・」
「どうしたって変えられない 運命はある・・・って?」
「そうだね。多分変わるのは世界じゃなくて私一人の世界観かな。うん。私の世界だけだ」
何がおかしかったのか ふふと笑った。
「分かった。きっと 故郷はこの左の丸なんだ。この破れた隙間からそっと家に帰って この中心で ふさぎようのない穴を見ている。そうか。この切ない感じは この喪失感を思い起こさせていたんだ。」
静かに立ち上がる。
「私の町は今は冷たい。でも過去はこんなじゃなかった。変わったのは私か」
そう言うと 足で雑に丸を消した。
「やっぱり私には故郷なんてないのかもしれない。」
彼女の影がさっきよりもずっと長く長く足元に伸びる。
僕は上着を彼女に着せる。
「ありがとう」
せめて この寒さだけでもなくなるように。
涙がなんの役割を果たしていたのか 最近忘れがちです。
ただ 過去を思うと思わず涙がでそうな事ありませんか?
どんなにひどい言葉も慣れれば 何も感じなくなる。あるいは諦めてしまえば。
人の心だけは変えられない。期待しても何も与えられないのなら 諦めた方が利口ってもんだ。悲しいけど そういうもんだと思います。