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勇者と魔王50年目の最後

作者: モノ岩

 ■再会の日■

 村の朝は、いつだって静かだった。

 だがその朝は、風の匂いすら緊張していた。


 馬車が一台、村の外れに停まる。

 その扉が開き、まず黒ずくめのスーツ姿の執事が地面に足をつけた。背筋は伸び、足取りは静か。

 続いて現れたのは、黒絹のような髪を風に揺らす、美しい女だった。


 誰もが息をのむような姿。だが村人たちは、それ以上に背筋を凍らせた。

 彼女を知っていた。名を知らずとも、本能で。

かつて、世界の脅威と呼ばれた存在。

 魔王リリス。


「この辺りは……あまり変わらないな。人の匂いも、空気も」

 「半世紀前と、同じですな」

 背後から執事――カルヴァンの低い声。

 リリスは頷き、視線を一つの家に向けた。


 それは村の外れにある、瓦の欠けた小さな家。

 干された洗濯物と、手入れの行き届かない庭。

この土地に溶け込んでいる、ただの老人の住まう家。


 だが、そこに彼がいる。

 セリオス。かつての勇者。


「……行こう、カルヴァン。あの人が、目を覚ましているうちに」


執事カルヴァンは無言で頷き、白手袋が上品にドアをノックする。


コン、コン。


「はいはい。

どちら様かな」


掠れた、しかしどこか陽気な声が返ってきた。


「どうも。お久しぶりですーー勇者セリオス殿」


 薄くなった白髪を、丁寧に後ろに流した老人がゆったりとした歩みで出てきた。


「ん?……お前、カルヴァンか! 久しいな! という事は……後ろにいるのは、リリス?」


「ああ、私だ、会いに来たぞ。」


執事カルヴァンが一歩横にずれ、隠れていたリリスが静かに歩み寄った。


「……」


「どうした?まあ、何もないが、中に入りな」


「ありがとう、お邪魔するよ」


「失礼します。」


 二人が玄関をくぐると、そこには椅子と机のペア、暖炉、ベッド、土間に据えられた釜戸があるだけの、簡素な室内が広がっていた。



「……こ、これは酷すぎる……外見通りの中じゃないか。」


「狭い家ですまんなぁ」


「ちがう!こんな仕打ち……ひどすぎる!」


 リリスは自身の髪を掴み下に目を落した。

それにセリオスが、ポカンとしながら答える。


「辺境の農民は皆こんな感じだぞ?」


「お前は!そんな存在じゃ無いだろ!」


 リリスは目線をセリオスに合わせる事が出来なかった。


「おいおい、リリス、どうした?カルヴァンなんか言ってやってくれ。」


「あの勇者セリオスが、粗い麻製の下着の上にシャツのような物を羽織っている……という事実に、リリス様はたいへん動揺されておられるのです。」


 カルヴァンは真顔だった、だが、彼の白手袋の指先は硬く握られていた。


「まあまあ、そんなにしんみりしないでくれ。……あ、イスがひとつしかない。不快でなければベッドにでも腰を下ろしてくれ」



「誰が不快など!」


 我慢しきれずリリスの周囲に魔力が溢れ出す。


「リリス様……」


「……」


「力を捨てた割には、

魔力有るなぁ、……えーと」


「50年ぶりだ……」


「そーか、そんなに時は経ってしまったんだな。」


セリオスが遠くを見るような目をする。

だが、リリスとカルヴァンは、目の前の彼を見つめ続けていた。

火の粉が、ぱちり、と弾けた。

 古びた暖炉の前に、三人が静かに座っていた。


 勇者セリオスは椅子に、リリスとカルヴァンはベッドに腰をかけている。

 カルヴァンは背筋をぴんと伸ばし、座ったままでも絵になるほど姿勢がいい。


「……ずいぶん丸くなったな。お前が、人間の家で腰を下ろすなんて」


「失礼ですね。本来の私は、こうです」


「五十年も経って、新たな一面を知るとはな」


 セリオスが笑いながら、沸かした湯を湯呑みに注ぎ、それぞれに差し出す。


 「いただきます」


 「ありがとう」


 湯呑みを受け取ったリリスが、湯をひと口含み、しばし言葉を選ぶようにしてから、静かに語り出した。


「五十年前のあの日……そう、あなたが帝都を去った日。私は、あなたを止めなかった」


「……私は」


「……もし、あのとき君が引き止めてくれていたら……残っていたかもしれない」


 リリスは湯呑みを持つ手を膝に下ろし、うつむいたまま黙っていた。


「……悪い。意地の悪いことを言ったな」


 セリオスは小さくため息をつくと、湯呑みを見つめる。


「……冗談のつもりだったけど、冗談になってないか。悪かったよ」


 ぱち、ぱち、と暖炉の火の音が、沈黙を繕うように響いた。

 その音が、部屋の空気が少しだけ冷えたように感じた。



 ――五十年前。


夕陽に照らされた王宮のバルコニー。その中心に、魔王リリスが立っていた。


「我、魔王リリスは、ここに人類との永劫の平和のため、自らの力を放棄することを誓う!」


 その言葉に、魔族と人間の双方から拍手と歓声が巻き起こる。歴史に刻まれる和解の瞬間だった。


 リリスはひと呼吸置き、バルコニーを下りると、控えていたセリオスのもとへと歩み寄った。


 「どうだった?セリオス!」


「……すごかった。堂々としてたな、お前らしかったよ、これで裏で陰口を叩いている奴は居なくなるさ。」


 セリオスの笑顔は穏やかだったが、その瞳の奥にはわずかな影があった。


 人目を避け、二人は王宮の裏手を歩いていく。花の咲く中庭、戦後処理に追われていた頃とは打って変わって、静かで平和な空間が広がっていた。


「……あなたには、感謝してるわ。私を信じてくれて。共に、ここまで来てくれて」


 「君が変わろうと決断したからだよ。」


 少しの沈黙。風が二人の間を通り抜ける。


「ねえ、セリオス。あなたは、これからどうするの?」


「……俺は、この役目を終えたら、帝都を離れようと思っている。」


 「え?」


 リリスが立ち止まる。セリオスは、その顔を見ようとしなかった。


「もう平和になった。俺がここにいる意味は、もうない。戦う力なんて、もはや恐れられるだけだ。……いっそ忘れられた方が、世界のためだよ」


 「何を……言っているの?」


 リリスの声が震える。


「あなたは、“象徴”でしょ。人間と魔族が手を取り合えた、その証じゃない……!」


「それは、お前がいれば十分だ。リリス、力を捨て、人間として生きようとするお前が、平和の象徴だ。俺は……俺の力は、その邪魔をする。それに……」


 その瞬間、リリスは言葉を失った。


 “捨てればいい。私のように”

 そう言いかけて――気づく。

 彼には、その「捨てる」という選択ができないのだと。


 世界を救うために授かった力。

 あまりにも多くを奪った力。

 その重みを背負ったまま、彼は笑っていた。


「じゃあな、リリス。あの日、お前と出会えてよかった」


 そう言って、セリオスは彼女に背を向けた。


 リリスは、一歩も動けなかった。


 あのとき、自分はただ「止めなかった」のではない。

 ――止められなかったのだ。

 彼の覚悟の重さに、触れることが怖くて。



 ーー暖炉の火は燃え続ける。


「……」


 沈黙を破ったのはセリオスだ。


「リリス、そう暗い顔をしないでくれ。……私はあの時の決断を後悔したことはない。」


リリスは一瞬、目の前の老いぼれた老人が勇者セリオスに戻ったのかと錯覚した。


「し、しかし……」


「本当だよ、あの時帝都を去る決断をしていなければ、私は自身の力に飲まれていた。」


セリオスはほうれい線を浮かべながら、リリスに語りかけた。


「……そんなことより、リリス。君が会いに来てくれたことが、何よりも嬉しいんだ」



「……もっと、早く来るべきだったのに……」


「リリス様……」


カルヴァンが口を開く。リリスは相変わらず下に俯いている、


「来られなかったんだろ……」


「人間の寿命は短いと知っていたのに……目を背けているうちに、はや50年、あなたはもう……」


「だから来てくれたんだろう?」


セリオスは笑顔を絶やさなかった。


「あとどのくらい……」


「……太陽が、あと数回沈んだら、ってところかな」



「……」


リリスは言葉が出なかった。

魔族の50年は長くもないが、短くもない。

(……時間はあったのに……もっと早く)




「リリス……一つ、願いを、聞いてくれないか」


「ええ、もちろん。」




 ■思い出の旅路■

          


「……懐かしい。また、この場所に来られるなんて」


 リリスが微笑む。


「さあ、早く大通りに行きましょう」


「そうするとしよう」


 ここを離れて五十年。建物の姿は変わっても、空気の匂いは同じだ。


「この道は覚えている。……あそこの商店、まだやっていたのか」


 歩みは遅いが、会話は軽やかだ。


「よく覚えているのね」


「なんせ、勇者なもんで」


「ふふっ」


 


ーー昨晩。


「……一つ、願いを聞いてくれないか」


 リリスが頷く。


「ええ、なんでも言って」


「我々のできることなら」


 セリオスは目を細め、まっすぐに彼女を見る。


「……帝都に行きたい。その後、あの場所へ……」


「勿論よ。」





 大通りは賑やかだった。子供達が楽しさにはしゃぎ、老夫婦、カップルが手を繋ぐ。

 

商店はあちこちに並び、ひたすら栄えていた。



「大通りは変わったな。」


「そうなの?」


リリスは長い髪を耳に掛ける。


「そうさ、君は平和になった後の大通りしか見た事なかったろ?」


「確かにそうね…」



懐かしくも、忌々しくもある。


「あの頃の大通りは、物資や兵士、負傷した者を通すための道だったんだ。」


「……ここが?とても見えないわ。」


 リリスは見慣れた通りをもう一度見渡した。その頃を思わせる物はもう一つも無かった。


「……私にもとても見えないさ。」


「……」



セリオスがそう言った時ーー


「……あなたは」


買い物かごを持った老人が驚愕した声で、セリオスの背後から話しかけた。


「……はい?どうしました?」


セリオスが振り向くと老人の買い物かごが、手から滑り落ちた。


「間違いない……勇者殿か?」


 突然声をかけられた事に困惑する。

 しかしこの老人のことをセリオスは知っている。

 セリオスは五十年前の記憶の引き出しの中を探る。


(確か……)


「……カールトン?」


五十年前、平和条約締結に尽力した元文官、そう――カールトンだった。


「やはり!この歳になっても忘れられるものか!生きておられるとしんじておりました!」


両手を握手しながら涙ぐむ、元文官カールトン


「久しぶりだなカールトン」


「また、もう一度ここで会えるとは!」


「この場所も、君も、私も、あの頃と比べて大きく変わったな。」


「誠に感慨深いことですな……。」


二人の再会の横で、足元に視線を落としたリリス。


「これ、汚れてしまいますよ。」


 リリスは買い物かごを手に取り、汚れた部分をはたいた。


「これは……リリス様!お久しぶりです!」

 

リリスは買い物かごを渡しながら話す。



「久しぶりですね、カールトンさん、あなたが引退して、かれこれ八年?……でしたっけ?」


「はい、もう八年ほどになりました。リリス様。」


リリスとカールトンは爽やかな笑みを浮かべた。



「お懐かしい顔ぶれだ、立ち話もなんです、私の行きつけの店があります、お時間許すなら、お二方ぜひ」


リリスが微笑みながら促すと、元文官の老人は嬉しそうに頷いた。


「セリオス殿、いかがいたします?」


「勿論付き合わせてもらおう。」


 

 元文官カールトンに案内され、三人は通りから一本入った細い路地に足を踏み入れた。人通りの賑やかさが嘘のように、そこは静かだった。


「この辺りは穀物庫が並んでいたんですが。全て新市街に移されましてね。」


 リリスが頰に手を当て、セリオスは口が開いていた。


「新市街……確か南側に建設されているはずよね。」


「その通りですリリス様、そして一番最初に移動したのがこの倉庫街です。」


「新市街……そうなのか。」


セリオスにとって何度目の驚きだったろうか。


 大通りから徒歩数分、いくつかの空き倉庫と倉庫を利用した酒屋や商店をいくつか潜り抜け、カールトンの足が止まった。



「ここです。」


 元小さな倉庫を思わせる建物にランタンや植木鉢、ちょっとした雑貨がかざられていた。

扉の上には風に揺れる小さな看板がある。


カラン。


カールトンが扉を押しベルが鳴る。


 中に入ると、ふんわりとした豆の香りが鼻をくすぐった。内装は倉庫の面影を残しており、壁には手描きの絵と古びた地図。小さなテーブルがいくつも並び、そこに控えめな音楽が流れていた。


「あ、カールトンさん、またきてくれたんですね!」


 出迎えたのは、給仕服を身に纏った獣人の少女。


「お邪魔するよミリスちゃん」


「はーい!

 いつもの席でいいですか?」


 獣人の給仕、ミリスがいつもの席に案内しようとするが。


「おっと。今日は三人で来ているんだ。」


「あ、そうなんですかぁ~!」


カールトンの横から二人が顔を出す。


「びゃっ、て、店長呼んできますぅ~!」


 二人を認識した瞬間、耳と尻尾をぴんと立て、物凄い勢いで厨房にかけて行った。


 10秒後カウンターの奥から、筋骨隆々のミノタウロスが鼻息を漏らしながら駆けてくる。


「おいでなさったとは……これはこれは!」


 ミノタウロスの店主が、胸元に小さなエプロンをつけて頭を垂れる。大柄な体からは想像できないほど、柔らかな声だった。


 席についた三人に、温かな湯気の立つカップが運ばれる。

店内には、焙煎中の豆と古い木の香りが静かに漂っていた。


「この店も、昔は倉庫だったんですよ」

カールトンが微笑みながら、カップを手に取った。


「とてもいい使い方だと思うよ」


 セリオスはカップの縁をなぞるように指を滑らせ、ふと窓の外に目をやった。

大通りよりもひとつ奥まったこの場所には、笑い声と、子供たちの足音が穏やかに響いている。


「五十年前、この辺りには……死の気配しかなかったのに」


「今は平和よ」

リリスが静かに答えた。


「ああ……世の中が平和になったと、実感が湧くよ」

セリオスは短く頷いた。


「君がそうしたんだ」

「あなたが、そう導いてくれたからよ」


セリオスはほんの少し視線を落とし、そして微笑んだ。

「……そう言ってくれるのか」


ふと、沈黙が訪れた。だが、それは気まずさではなく、温かく満ちた静寂だった。


「……コーヒーの味がする」

セリオスがふと呟くと、カールトンが吹き出す。


「そりゃそうでしょう、勇者殿」


 三人の笑い声が重なった。


「あの頃のことを考えると、今ここでコーヒーを飲んでいるのが信じられないな。」


「ええ、本当に。」


 戦のない世界に、平和な午後が流れていた。



 ーー空っぽの陶器のカップが、木のテーブルに小さく音を立てる。


「ここ、落ち着くわ。」


 リリスがふっと息をつきながら呟くと、セリオスも小さく頷いた。


「この店、気に入ってもらえたなら嬉しいです。」


「ああ、」


「本当に、いい所を教えてもらったわ」


 奥の厨房から、ひょっこりと獣耳と尻尾がのぞく。ミリスと、もう一人の給仕がこっそりこちらを覗いていた。


 「見て、リリス様と勇者様よ。」

 「ほんとだ……! 本物……!」

 「カールトンさんって、意外と凄いのね。」

 「ね~……!」


 ひそひそ声が普通に聞こえてくる。リリスは目を細めて微笑み、セリオスは肩を震わせて笑った。


 「まったく……失礼な子たちだ」

 「ふふっ」


 二人は会話が聞かれていたことに気づいたのか、厨房の奥へ慌てて引っ込んだ。


 「やべ……!」

 「カールトンさん、ごめんなさ~い!」

 「サービスするから、また来てにゃ~!」


 逃げ足だけは、まるで一流だった。


 「あの子たち、耳が良すぎるのよね」

 「種族的に、だいぶ性能が違うんだろうな」


 二人の会話に感心している風なセリオスとリリス。

 その視線が、自然とカールトンに向けられる。


 「さて、店長に報告しておくべきかな。」


 「怒ると凄いだろうな」

 「怒らせると厄介そうね、あの店長」


 三人の笑い声が、また一つ、店内にやわらかく広がった。


 コーヒーの香りに包まれながら、カールトンがふとカップを傾け、ぽつりと呟いた。


「……今ではあんな風な、あの子、実は戦災孤児なんですよ。」


 リリスがわずかに眉を動かす。セリオスは視線を落としたまま、耳を傾けていた。


 先程の空気がわずかに重くなる。


「道端を彷徨っている所を店長が拾ったらしいんです。」


リリスの手が、カップの縁をわずかに滑った。


「……救えなかった命は、戦争の中に数え切れないほどありました。

でも……彼女のように、戦後があったからこそ、戦後世界で生きられた子もいる。

それが何より、……だからこそ、あなた方の選択は、決して無駄ではなかった。そう、思うんです」


 セリオスは黙って頷いた。

 

ーー静けさのなか、三人の前にそっと勘定書きが置かれた。

 いつの間にか、時間は夕刻に差し掛かっていた。


「……今日は、お時間いただきありがとうございました」

 カールトンが静かに立ち上がると、セリオスも、リリスも、席を立った。


「こちらこそ、時間が経つのが早く感じたよ。」



「私もです。もし妻がもう少し寛容なら、夕飯までお付き合いいただきたいところでしたが、」


「はは、家庭では女性が強いというからな」


「ええ、例にもれず、です」


 「次は、もっとゆっくり話せるといいですね」

 「……ああ、そうだな」


 リリスは、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。

 「あなたのような人が、ここにいてくれてよかったわ。ありがとう」


 「……もったいないお言葉です」

 カールトンは深く頭を下げた。


 ドアに手が伸びると同時に、深々と頭を下げた店長の声が聞こえる。


 「また、お越し下さい。

お待ちしております。」


「ああ、また必ずくるよ」


(……また、か)


 店を出ると、街はやさしい夕焼けに包まれていた。

 カールトンは静かに別れの言葉を告げ、背を向けて歩き出した。

 夕陽に照らされた石畳の上、伸びる影が、ゆっくりと彼の歩みに重なっていく。




 「……行こうか」

 セリオスが小さく呟く。


 「ええ」

 リリスも頷いた。


 行き先は決まっていた。

 誰よりも彼らの歴史を見てきた、あの場所へ。




 ■最後に見た光景■



 夕暮れの薄明の中、二人は砂利道を進む。


「民家も少なくなってきたな。」


「そうね。」


「……」


 草むらからは鈴虫の音色が聞こえ、蛍が二人の間に飛び交っている。


「静かだな」


「ええ」


「二人でこんな風に歩くなんていつぶりかしら。」


「さあ……いつぶりだろう。」


「ふふ、私は覚えてるわよ。」


「おっと、人間の50年と魔族の50年は違うからな~」


「あなたは、人間の枠外れてるでしょ?」


「手厳しいな……」


「人間なのに私の幹部達を倒しまくったのは誰よ?」


「私だな、」


「ね、」


 リリスの目元が和らぐ、その表情は、どこかいたずらっぽく、可愛かった。


「そういえば……」


「どうしたの?」


「幹部達は今なにを?」


 リリスがそれね、と手のひらを叩いた。


「あいつらね、お金出し合って辺境の土地を大量に買って今牧場してるらしいの。」


「牧場?」


「そう。私も最初信じられなかったわよ」


 想像していた斜め上の解答を聞き、呆気にとられるセリオス。


「しかも毎週わざわざ、城に牛乳配達してくれてるのよ」


「あの強面たちが牛乳配達……」


「そうよ、凄い絵面なのよ。」


 笑みを浮かべたセリオスは少しだけ顔を上げ、空を見上げた。

薄明の空には、最初の星がまたたいている。



「……ねえ、セリオス」


「…うん?」


 リリスが言葉を選びながら話す。



「……あなた、本当に後悔していないの? 帝都を去って、世間との関わりすべてを断ち切ったことを」


問いかける声は静かだった。でも、その奥には、ずっと抑え込んでいた痛みがあった。


「前にも言っただろ。俺は、後悔してないよ」


「私は――」


リリスの足が止まる。その目がまっすぐに、セリオスを見つめていた。


「私はね、あなたを引き止めなかったことを……ずっと後悔してるの」


セリオスが振り返る。言葉は、すぐには出てこなかった。


「あなたは、“力に呑まれそうだった”って言ってた。

でも……私が傍にいたら、支えられたかもしれないじゃない……支えられたはずよ。」


感情が、少しずつ言葉に乗る。とぎれとぎれだった思いが、流れるようにあふれていく。


「もっと頼ってほしかった。怖がらずに、甘えてほしかった。

私はずっと――あなたの隣にいたかったのに」


声が少しだけ震える。


「あなたはいつも、全部ひとりで抱え込んで……黙って遠くへ行ってしまう。

私が……どれだけ、置いていかれたと思ってるの」


セリオスは、目をそらすことができなかった。


「私は魔王よ?

誇りもあるし、感情を見せるのは得意じゃない。

でも、今だけは――ごまかさない」


「……ずっと、あなたに傍にいてほしかった。

戦いが終わっても、平和になっても……

私にとって、あなたは――ずっと必要だったの」


「……私を、支えて欲しかった」


ようやく言えた。

五十年分の沈黙と想いが、ほんの少しだけ溶けた瞬間だった。


「……ほんとはずっと言いたかった。

でも、あなたが何を背負ってきたのかも知ってる。だから……」


「リリス……」


セリオスは、何を言えばいいのか分からなかった。

彼女の本音を聞いて、自分の選んだ道の中に、痛みを残してきたことを知る。


「……そんな風に思っていたなんて、知らなかった」


「平和になって、戦後処理も終わって……

あとは、魔族と人間の融和。

それには、私の存在が妨げになると――」


「ええ、そうだろうと思った」


「……」


「すまななかった。リリス……」


リリスはセリオスの表情を見て、はっと我に返った。


「……あ、ごめんなさい。こんなこと言うつもりじゃなかったの」


「いや……言ってくれて、ありがとう」


セリオスは一度、深く息を吐いた。


「あの頃の自分はもう……自分が自分でなくなりそうだった。

体が震えて、血を求めていた。このままじゃいけないって、わかってた。 

でも、どうしたらいいか、分からなかった。」


リリスは黙って、彼の言葉を聞いていた。


「逃げたように見えるなら、それはその通りかもしれない。

 けどな……本当に怖かったんだ。

あのまま傍にいたら、君を、誰かを……また失ってしまいそうで

 せっかく平和になったのに。私のせいで、また……なんて事にはなってほしく無かったんだ。」


「……セリオス」


「だから、去った、自分のためじゃない。

 ……そう、信じたかった」


リリスが目を伏せ、ゆっくりと頷く。


「……わかってたのよ。あなたが壊れかけてたのも、全部。

 だから、何も言えなかった。

あの時に伝えればよかったのに……」


風が、二人の間を静かに通り過ぎる。


「……」


「リリス、」


「なあに?」


「最後に私を支えてくれないか?」


「ええ、もちろん。」


リリスはセリオスの腕に手を伸ばしセリオスを支えながら歩いた。


 やがて、二人はあの丘の上にたどり着いた。

 かつて魔族と人間が、幾度となく平和交渉を重ねた場所だ。


「ここだ……」


「着いたわね……」


 草原が広がり、周囲よりわずかに高いこの台地こそ、あの時代の舞台だった。

 風が、草の海をなでるように吹き抜ける。


「いい風だな……」


 セリオスがそう呟くと、リリスは黙って隣に腰を下ろした。

 彼の肩にもたれながら、静かに夜が深まっていく。


「ここで何度も激論を交わしたこと、覚えてるよ」


「ええ……あなたが、いつも譲らなかったから」


「二つの正義がぶつかり合っていたからな……」


「そうね……」


 風に揺れる草の音だけが、静かに二人の間を満たす。


「あのときの光景が、まるで昨日のように思い出せるよ」

 丘を囲むように張られた両陣営のテント。交わる視線。緊張の沈黙と、火花のような言葉の応酬。


「あの頃は、一日が長く感じた」


「私は、早かったように思うわ」


「真逆だな」


「ふふ……」


 リリスは空を見上げる。星がひとつ、静かに流れていった。


「……リリス」


「なあに?」


「少し、眠るよ」


「うん……」


 リリスはそっと彼の手を握った。

 その手はもう、かすかにしか力を返してこなかった。


「君が、来てくれて……本当によかった」


「当然よ。……私は、あなたの隣にいたかっただけだから」


「ああ……ありがとう」


 風が静かに止む。

 セリオスのまなざしが、夜空の星を追いながら、そっと閉じられていく。


「……セリオス?」


 彼の肩が、リリスにわずかにもたれかかる。

 すべてが静まり返った。


 リリスは彼の手を両手で包みこみ、そっと抱き寄せた。


「……おやすみ、セリオス」


 夜が明け、丘に朝の光が差し込んでいく。

 東の空が白み、草の露が光を反射してきらめいた。


 リリスは、動かぬセリオスの肩にもたれたまま、じっとその温もりの名残を感じていた。

 彼の手は、もう静かに冷えていた。


「リリス様」


 背後から、控えめな声がかかる。


「……カルヴァン。もう少しだけ待っていて」


「かしこまりました。お迎えは、いつでも」


 カルヴァンの気配が空へと消える。

 リリスは、まだセリオスと一緒だった。


「生まれ変わっても、またあなたに会えることを願ってる。……そのときも、私が先に見つけてあげる」


 そして、そっと瞼を閉じるように言った。


「……さようなら、セリオス」



朝日が、二人の影を静かに照らしていた。






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