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17 コーダⅡ②

 蒼司は絶句したまま、やたら整ったヒトコトヌシノオオカミの顔を見つめた。

 彼女――イザナミノミコト――は、再び楽譜を読むところから始めている。

 ヴァイオリンをかまえ、弓を引き、輝く弦を張り……曲を奏でる、が。

 やがて弦は切れ、また最初からやり直し。


 その度に彼女は傷付いている。

 その度に彼女は、涙を流さず声も出さず、慟哭している。

 ずっと見ている蒼司にはそれがわかる。

 あまりに傷付きすぎ、無表情になってしまっていたが、だからといって彼女が何も感じていない訳ではない。

 人間ならとっくに狂っているであろう虚しくも辛い仕事を、彼女は繰り返している。

 最高の音色、最高のメロディを紡ぎ出し、楽譜に散らばる音をすべて織り込んだ極上の布を織りあげるために。


 それは彼女の使命であり、アイデンティティであろうが。

 彼女は、この虚しさと紙一重のところにある苦しい仕事が楽しい。

 もっと言うならば、愛している。


 思い通りの弦が張られたヴァイオリンを、彼女は奏でる。

 楽譜に記された音を過不足なく入れ、なおかつ彼女でなくては奏でられない曲を奏でる。

 すべてが思い通りに重なり合う瞬間は、短い。

 だがその刹那の喜びは何にも代えがたい。

 無我の境地で奏でる彼女が浮かべるほほ笑みは、美しい。

 この世の誰よりも。

 

 いつの間にか彼女は、蒼司の姉よりも年上の、美しい女性に成長していた。



「さて。君はどうだろう?」


 コンダクターは再び問う。

 蒼司の手には愛器が……初心者が使うものの中では上等であろうフルートが、あった。

 無意識のうちにかまえ、彼は楽器に息を吹き込む。

 管を震わせ奏でられる音色(おと)は、しかしどうにもこうにも深みがない。


(楽器が悪い、部分もあるけど)


 蒼司は去年、フルートの先生の紹介で、フルートやクラリネットを作るメーカーさんを訪ねたことがある。

 その時、見本として展示していた、今現在蒼司の使っている楽器の3倍強の値段がするフルートを吹かせてもらったことがあるが、音のなめらかさや深みに驚愕した。

 欲しい、と思った一瞬後、このフルートを使いこなすには自分はまだ力が足りないとも痛感した。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()も感じた。


(……言い訳するな!)


 音階を吹いて指をなめらかにした後、蒼司は、暗譜している練習曲を幾つかさらった。


「吹いてごらん」


 どこからともなく譜面台が現れ、一枚の楽譜(スコア)が乗せられる。

 ハ長調のシンプルな曲だったので、初見だったがまずまず吹けた。


「それで終わりか?」


 完全に馬鹿にしきった声音でコンダクターは言った。

 見かけの年齢が蒼司よりも下なので、偉そうに言われるとムッとする。


「終わりな訳ないやん。今のは全体、ザッとさらっただけや」


 いつもの負けん気が頭をもたげてきた。

 コンダクターは嬉しそうにニヤッとする。


「ふうん、そう。なら君、このシンプル極まりない曲をどう読んで、どう奏でる?」


 当然の挑発。

 蒼司の闘いが始まった。



 楽譜(スコア)に記された音を忠実に。

 まずやったのはそれ。


 楽器の音を、機器の一切ないここでは自分の耳だけを頼りに調律し、腹からきちんと息を出して芯の嵌った音へと整える。

 その音で曲を奏でる。

 数回で、ある程度納得できるレベルに達したが、面白くない。

 教科書に書かれている有名な詩を、自分の国語のノートにきちんと書き写しただけ、というような味気なさ。


(……つまり。表現、やな)


 楽譜を睨み、記されたメロディから浮かぶ情景を脳裏に描く。

 この曲は、一番最初にイザナミノミコトが奏でていた曲だと、蒼司は気付いている。

 朝焼けの空を思わせる、清々しい曲。


 演奏速度を変えてみる。

 開放的な明るい調子で吹いてみる。

 逆に、ささやきに近い静謐な調子で吹いてみる。

 研ぎ澄ました緊張感のある音で吹いてみる。

 逆に、優しい笑みを含んだようなリラックスした音をイメージして吹いてみる。


(違う、違う、違う!)


 そんな、小手先のセコいことでどうにかなるようなものではない。

 蒼司がやりたいのは『表現』。

 この曲の持つ、そして蒼司の心が受け取ったナニカを、聴く人へ過不足なく伝えたいのだ!


「……蒼司さん」


 苛立ちのあまり楽譜を破りたくなった時。

 少し遠慮した声で話しかけてくる者がいた。


「え?」


 苛立ちを一瞬、忘れた。

 津田高校の標準服を着た、すらりとした少年。

 やわらかそうな茶色の髪、古い時代の少女漫画に出てくる王子様(ヒーロー)のような花の(かんばせ)

 メタセコイヤの遥だ。


「あの。一緒に吹いてくれませんか? 実は僕、コンダクターから楽譜を渡されたんですけど。僕、そもそも楽譜は読めませんし」


 困った顔で眉を寄せ、遥は言った。

 流れのまま、蒼司は遥から楽譜を受け取る。

 ざっと読んだ感じでは、蒼司が奏でていた譜が主旋律、遥が渡されたという譜は副旋律のようだった。

 蒼司は『副旋律の譜』を、出来るだけ教科書通り奏でて遥に聞かせた。

 何度か共に奏でているうちに、蒼司と同じくらい遥も奏でられるようになった。

 そこで蒼司は遥へ、自分が与えられた譜を『教科書通り』奏で、聞いてもらった。

 遥はぱあッと花が咲いたように笑った。


「なるほど。蒼司さんの曲と僕の曲は、一緒に奏でることでより良くなるんですね!」

 

 当たり前のことだったが、遥の言葉は何故か蒼司の心に刺さった。



 一緒に奏でる。

 さっきまでキリキリしていた蒼司だが、遥と一緒に奏で始めると不思議と呼吸が楽になった。

 遥は気負いも何もなく、暗譜した通り楽し気に奏でる。

 音楽は本来とても楽しいのだと、奏でながら蒼司は思う。

 忘れがちな部分だ。

 キリキリ苦しむ部分が九割以上であったとしても、本来楽しいから、ヒトは楽を奏でる。

 こうして、共に奏でる相手がいるのなら尚のこと。


(……オレ、は)


 『誰かと共に』をないがしろにし過ぎていなかっただろうか?

 『誰かと共に』は、軟弱者が言い訳しながら行動する時の免罪符だと、無意識で思い込んでいなかったか?


(自分ひとりで、誰にも負けず……)


 それが悪いことではない。

 だがそれだけでは成し遂げられないことが、世界にはたくさんある……。



 不意に、涼やかなヴァイオリンの音色がメロディへ加わった。

 ハッとそちらへ目を向ける。

 なんと、イザナミノミコト……蒼司の母よりも年上に見える、上品で美しいご婦人の姿であったが、確かにイザナミノミコトだ。


(蒼司くん)


 ヴァイオリンを奏でながら、イザナミノミコトは目で呼びかける。


(皆で奏でるこの曲は、君の思う『表現』が出来ているか?)


(僕が思う以上に、『表現』されています!)


 彼女はかすかなほほ笑みを口許に含み、楽しそうに弓を引く。

 その瞬間、低い弦の音とパーカッションの音が加わる。

 驚いて音の方を見ると、コントラバスを奏でる厳めしい顔の壮年の男、シンバルを鳴らすエキゾチックな容貌の青年がいた。


(大楠さん……ナンフウ……)


 彼らもほほ笑みを浮かべ、蒼司へうなずく。


(そう、か……)


 なんとなく、オナミヒメである姉ばかり、彼らは大事にしている気がしていたけれど。

 こうして目立たない形で、彼らは蒼司を支えていてくれたのだ!




「……蒼司!」


 だしぬけに耳へ響く母の声。

 乱暴に抱きしめられ、彼は驚いて息を詰める。



 斉木千佳の影響を強く受け、長く前後不覚であった彼は。

 結木蒼司は、目を覚ました。

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