17 コーダⅡ①
少年の姿をした大いなるものは、輝く指揮棒を高く振り上げた。
結木蒼司は仰向けに寝転がった状態で、ぼんやりと空を見ている。
蒼司の心そのもののように、重苦しい曇天が広がっていた。
身を切られるような羞恥。すさまじい悔恨。
そして何より、怨霊にすっかり騙され、いいように『使われた』自分自身への激しい怒り。
荒れ狂うような感情に翻弄された彼は、かえって気が抜けたようになっていた。
(オレ……オレ……)
恥ずかしい。悔しい。腹立たしい。もう……死にたい。
生まれて初めて、彼はそう思った。
「……なんだ、つまらない。君はこのメンバーの中で一番尖っていて、一番面白い子だと私は思っていたのだがな。ここへきてめそめそと自滅を望むなんて、私の買い被りだったのかな?」
嘲笑を含んだような声。
蒼司はぎくりと身じろぎした。
声の主は例の、少年の姿をした大いなるもの。
指揮棒を持ったまま軽く腕を組み、ニヤニヤしながら蒼司を見下ろしている。
「オナミの水神の息子にして、月の若子。私は君を、その御大層な血筋から否応なく持たされた己れの立場に負けないだけの、実力とポテンシャルを有した向こう意気の強い子だと見ていたんだが。実際は、一度や二度つまずいたくらいでヘロヘロ自滅を願う、脆い子だったようだな」
「……なッ」
挑発だとわかっていたが、あまりにもズケズケ言いたい放題に言われ、蒼司の頭に血が上る。
ふふ、と少年は、不敵な薄笑みを口許に含む。
「おやおや、腹を立てたのかい? まあ、そのくらいならギリギリ見込みがありそうだな。……結木蒼司。君は月の若子なんだろう? 国津神の中でも一番といえる気難しくも誇り高い、あけすけに言って偏屈な神の、流れを汲む末裔なのだろう? その血に相応しい……コーダを。聴かせておくれよ、永遠に続くような単調な音色に倦んでいる、この憐れなコンダクターへ」
彼は組んでいた腕をほどき、ゆるやかに指揮棒を振った。
「君ひとりでは難しいというのなら。君にとってこの上ない先達、そしてやがては共演者になるであろう奏者の練習風景を、まずは見てもらおう。お立ちなさい、結木蒼司」
穏かな口調ではあったが、それは確実に命令だった。
我知らず、蒼司は素早く立ち上がっていた。
コンダクターを自称する彼が、ゆるやかに振っていた指揮棒をすっと横へ動かし、一点を指し示す。
つられ、蒼司の視線がそちらへ向く。
(……あ!)
そこにいたのは、黒髪に黒いワンピースを身につけた、小学校高学年くらいの綺麗な女の子……すなわち。
イザナミノミコト、だった。
ただ、彼女にはこちらが一切、見えていない風だった。
非常に真面目な顔で彼女は、譜面台に乗った楽譜を眺めている。
そしておもむろに傍らから木目も美しいヴァイオリンを取り上げた。
しかしそのヴァイオリンに弦は張られていない。
彼女は何もないそこへ、用心深く弓を落とす。
すると、どこからともなくキラキラと輝く粒子が寄ってくる。
粒子を拾うような仕草で彼女は、弓を引く。
弓にからめとられた粒子はいつの間にか、一本の、光り輝くヴァイオリンの弦になっていた。
ルォーン、とでもいう、かすかでやわらかな音が鳴る。
彼女はホッとしたように少し笑んだ。が、すぐに真顔に戻って再び弓を引く。
ルォン。フォン。ローン。
弓を引くたびにヴァイオリンには弦が張られ、様々な音色を奏で始める。
「これは彼女が、君たちの言う【高天原】で行っている仕事を、君にとってわかりやすい形へ翻訳したものだ」
指揮棒を振りながら少年の姿をした大いなるものは言う。
「楽譜と楽器本体は上位存在から与えられる。楽譜にある通りの音であれば、どんな音色でどんな速さ、あるいはどんな曲調で奏でるのかは、彼女たち【管理者】の裁量に任される。さあご覧、彼女は満足のいく弦を張り終えた。今から楽譜にそって曲を奏でるよ」
ヴァイオリンは『声』を上げる。
若々しい、みずみずしい声だ。
弓を引く。弦が震え、歌う。
朝焼けの空を思わせる、清々しい曲だった。
しかし音楽は突然止まる。
前触れのない、何かが弾けたような不穏な音がして、ヴァイオリンから弦が消えたのだ。
彼女は深いため息を吐くと、かまえていた弓を下ろし、楽器も下ろした。
しばらくじっと、彼女はどこか遠くを見つめていた。
涙はなかったが、泣いている。
蒼司は胸が痛い。
やがて彼女は、楽譜を読むところから始める。
ヴァイオリンを肩に乗せ、弓を引く。
弓で粒子をからめとり、光る弦が張られてゆく。
弦が震え、音が響く。
音は重なり、やがて曲が奏でられてゆく。
そして……また弦が切れる。
繰り返し。繰り返し。
彼女は、さながら寄せては返す波のように同じことを繰り返す。
時には楽器を投げ出し、疲れ切った顔でしゃがみ込むこともあったし、かなり長い時間、放心したように小さな椅子に座っていたこともあった。
「だけど彼女はヴァイオリンを弾き続ける」
もう幾度目になるのだろうか。
思い直したように再びヴァイオリンを取り上げ、かまえ、弓を引き始めた彼女を見ている蒼司へ、コンダクター――ヒトコトヌシノオオカミ――は言う。
「それが彼女の性だから、そう言うのは簡単だ。だが、いくら性だとしてもこんな苦行を倦まず弛まず続けているのは、並々ならぬ努力だとは思わないかい?」
「何故、彼女はこんなにも……」
呟くような蒼司の問いに、彼は答える。
「さっきも言っただろう? ひとつはそれが彼女の性だからだ。強いて言えば、君たちが生きるために呼吸をするようなもの。ただ……君らも時に、呼吸し続けるのに倦む場合もあろう? ……さっきの君のように」
意地の悪い笑みを含んだヒトコトヌシノオオカミの言葉。
蒼司は一瞬、たじろぐ。
倦んだのならさっさとやめればいい、と言わんばかりの目で彼はこちらを見ていた。
「だがもうひとつは。単純に彼女がヴァイオリンを愛しているから。ヴァイオリンを奏で続けたいから。最高の音色で最高のメロディを奏でたいから、彼女は努力し続けている。それが……結局は一番の理由だろうな」
何故か羨ましそうな声音で、ヒトコトヌシノオオカミは呟いた。
そして不意に彼は、蒼司へ鋭い視線を向けた。
「さて。君はどうだろう?」




