16 コーダⅠ②
千佳はふと我に返る。
白の大地と紺碧の空の間に、ただひとり。
結局、すべての努力にもあがきにも、何の成果も得られなかった。
自分は永遠に、ひとりきりなのだ……。
「だから?」
冷ややかな若い男の声が、意外なくらいすぐ近くで問う。
千佳は驚き、声の方向へ鋭く首を巡らせた。
そこに、真白の体毛に覆われた銀のたてがみ、黒曜石の輝きに似た大きな黒い瞳の馬……馬に似た生き物、がいた。
額に磨いた象牙のような、なめらかに輝く細い角があり……胴の中ほどに、一対の真白の翼があった。
「ユニコーン……」
千佳がつぶやくと、その不思議な生き物は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「まあ、角があるから『ユニコーン』と呼べなくもないがな。翼持ちなんだから、どちらかと言えば『ペガサス』だろうよ。だが、我はそのどちらでもない。わかるだろう? 斉木千佳よ。我はお前の一族の血に近しいもの。我はお前たちに……」
「ツクヨミノミコト」
千佳のくちびるがひとりでに動き、古い時代の神の名を紡ぐ。
『ペガサス』を自称した生き物が、ニヤリという感じに歯を見せた。
「わかっているではないか、はぐれた先で咲いた花よ。我はお前を寿ごう。お前の遠い祖先と同じ血を持つ、お前の苦しみを理解できる者たちがいるのだ、お前は知らなかっただろうが。お前がさっき『おかあさん』と呼んだ女、あれがお前の一族の今現在の長だ。お前が真面目に教えを請えば、お前が苦しんできたあれこれの、かなりの部分を共感してよき方へと導いてくれるだろう。ただ……」
『ツクヨミノミコト』は姿勢を正し、千佳へ鋭い視線を向ける。
「我もあの者たちも、めそめそした甘ったれは好かない。白の大地と紺碧の空の間に立ち、ただただ永遠に眠ること、それも誰かにもたれかかって眠るだけの夢に耽っている者に、正しく夢を司ることは出来ないからな」
『正しく夢を司ることは出来ない』
この言葉は何故か、千佳の心へ深く刺さった。
一族からの追放宣言、というイメージが閃く。
「自らの意思で白の大地に立ち、紺碧の空を見つめる強さを持つ者こそが『月の氏族』の者の必要にして最低の条件。お前にその意思があるか? それとも、たとえひとりきりであったとしても闇の中へと逃げたいのか? ……決めるのはお前だ。今から決める為のきっかけを与えてやる、とにもかくにも自力で我を見出した、一族の娘への我からの寿ぎだ。……乗れ」
「え?」
「え? ではない。我の背に乗れ。お前の望む『紺碧の空の向こう』を、少しだけ見せてやる」
その言葉と同時に、ツクヨミノミコトはずいと近付いてくる。
何が何だかわからないうちに千佳はいつの間にか、ツクヨミノミコトの背にまたがっていた。
「しっかりつかまっていろ。たてがみでいい。もし転がり落ちたらそこで終わり、否も応もなくお前は死ぬ。まあ、どうしても死にたいのなら止めはしない、好きにしろ。だがせっかくだからお前が夢見ている『漆黒の闇の底』を、覚めた頭でよくよく見てみろ。滅多に出来ない経験だ、堪能するがいい」
笑みを含んだ、少しばかり意地の悪い声と同時に、千佳を乗せてツクヨミノミコトは助走をつけて舞い上がった。
紺碧の空の中を白い矢のように、千佳を乗せたペガサスは進む。
高く高く高く。
大きくゆるやかな螺旋を描きながら、ペガサスは昇ってゆく。
たてがみを強く握りしめ、千佳は、ペガサス――すなわちツクヨミノミコト――の背にしがみついていた。
これが途轍もない破格の待遇であることを、千佳もおぼろげにわかっていた。
神がその背に乗せてくれるなど、特例中の特例であり、そうしなくてはならない異常事態であることもおぼろげにわかっていた。
(私、怨霊になってた……)
自分はもはや、普通のやり方ではどうにもならない、外れた存在になっている。
ようやくそれを、彼女は自覚した。
(私は、九条先生に憑いて……、とり殺そうとしていたんだ)
ゆっくりと深まってゆく蒼に囲まれ、彼女は、だんだんと客観的な視点を取り戻してゆく。
千佳としては、自分と共に彼も死ぬという究極の愛の成就を、周りにいる有象無象が邪魔しているのだと思っていた。
有象無象に捕まって幻惑され、千佳の唯一の恋人である彼は正気を失っているのだとも。
(……違う)
正気を失くしていたのは私。
唯一の恋人と一緒に、永遠の眠りの中で充足する。
あれはおそらく、私が見たかった甘い夢。
私を永遠に癒して受け入れてくれるという、切なくも美しい妄想。
九条先生の瞳の中に、私は、夢の中のユニコーンを見た。
あの人は、そう思わせるだけのものを持った存在だった。
だって彼は、この世にほとんどいない天津神……ヒトの姿をした天馬、だったのだから。
彼が現実に存在しているのなら、この夢は現実に出来るのだと……否、しなくてはならないのだと思い込んだ。
「お前の見たユニコーンは、お前にとっての『ツクヨミノミコト』。お前の血に近しい氏神にして……お前自身、であるもの」
ゆっくりと羽ばたきながら、ツクヨミノミコトは言う。
「つまりお前は、お前自身に恋をしたようなものだ」
(……ああ)
何故かストンと胸に落ちた。
成就する筈などない。
千佳は、幻……自身が見出した自身の化身へ、憧れと恋心を募らせていたのだから。
ツクヨミノミコトであるペガサスは、さらに高く高く昇ってゆく。
辺りはもはや、蒼でも群青でもない。
一面の闇。無音。
自分の身体がどこにあるのかも把握できない。
自分を乗せてくれている、ツクヨミノミコトが本当にいるのかどうかもわからない。
上へ上へ昇っていると思っていたが、もしかすると下へ下へ降りていたのかもしれない。
動いているのだと思い込んでいたが、ひょっとしたら静止しているのかもしれない。
(……『死』とは、この闇の中へ溶けてしまうこと)
不意に千佳は覚る。
(闇に溶け、『自分』というものがゆっくりとほどけてゆくこと)
それはとても気楽なことだと千佳は思った。
自分がしでかしたすべての罪も、他人へ与えてしまったすべての迷惑も、死んでしまえばあやふやだ。
……でも。
(そうしたら……謝る、ことも出来ない)
一言でいい、九条先生に、結木蒼司君に、そして木霊のナンフウに。
この騒動で迷惑をかけた、すべての人たちに。
一言でいいのだ、ごめんなさいを言いたい。
謝ったからといって、許してもらえるとはとても思えない。
むしろ自分が謝ることで、かえって彼らは腹を立てるかもしれない。
でも、このまま逃げるように死んでゆくのは何かが違う。
『死』とは、生きるのが嫌で逃げる場所ではない。
きちんと生き切った先にある、ある種の褒美。
精一杯生き切ったからこそ、気持ちよく死ねる。
今生の自分を生き切ったからこそ、笑って自分をリセットできる。
そういうもののような気がする……。
「斉木千佳。千の佳きことがその身に降るものであれかし、と名付けられし者よ。疾く戻りなさい」
静かな声が不意に、無音の闇の中で響く。
ハッとした次の瞬間。
すさまじいまでの光の中へ、千佳は投げ出された。
「おかえりなさい、斉木千佳さん」
ようやく見えるようになってきた視界に、髪をひとつにまとめた作業着姿のおばさん……否。
月の一族の長である『月の鏡』が、ぺたんとしゃがみこんでいる千佳のそばに片膝をつき、目線を合わせてそこにいた。
「あなたはもう、怨霊ではありませんよ。おかえりなさい、一族の子。ご自分の身体へ、可能な限り早くお戻りなさい。そして……今度は現世で、お会いしましょう」
現実離れした言葉。
だけど何故か、千佳はその言葉が信じられた。
素直にうなずき……彼女は『帰る』と念じた。
ゆっくりと目を開けると、白い天井と医療機器につながれた数多の線が見えた。
長い悪い夢にも似た世界から、千佳は、現世へ戻れたのだ。




