16 コーダⅠ①
少年の姿をした大いなるものは、輝く指揮棒を高く振り上げた。
(【世界】が私を拒絶した……)
大地に倒れ伏し、最初に千佳が思ったのはそれ。
何故? 何故? 何故?
夢の丘でユニコーンは、いつも千佳が登ってくるのを静かに待っていた。
大きな黒い瞳は美しく、深淵そのもののように深い。
彼(そう、ユニコーンが『彼』であることを千佳は知っていた)は千佳を、ずっと辛抱強く待ってくれていた……筈。
なのに今更、何故拒絶する?
千佳にはどうしても理解できない。
身体中がじくじくと痛む。
彼は、急所である自らの角を自らで折り、角から噴き出す鮮血を浴びていた。
角を折ることで彼は、千佳が設定した彼の真名『全き形の世界にして、私のすべて』を打ち消した。
そしてすさまじい痛みをものともせず、折り取った角に最大級とも言える拒絶の意思を乗せて、彼は千佳に投げつけてきた。
細かく四散した角の欠片は拒絶の礫となり、千佳の全身を打ち、突き刺さる。
さながら、鋭利なガラスの破片のように。
(痛い、痛い、痛い!)
何故?
ユニコーンだけは私を傷付けないと信じていた。
仮に、世界中のすべての人が私を傷付けたとしても、ユニコーンだけは私を受け入れ、癒し、共にいてくれる、筈。
そう信じていた。
でなければ、あの不思議な夢は何だったのだ?
何故あのユニコーンが、私を拒絶して傷付ける?
私の周囲の、他の誰もがそうであるように!
声も出せず、涙も出ない。
生きながら死んでいる、そんな状態の千佳を何かが、優しくそっと抱き上げた。
柔らかであたたかい。
痛みがゆっくりとぬぐわれてゆく。
(おとう、さん……)
実の父親ではないが、抱き上げたその人は『おとうさん』と呼ぶべき存在だと、心の隅で千佳は思う。
抱き上げられたと思っていたが、実は大きな白い鹿の背に、うつ伏せで乗せられているのに気付く。
大地を踏みしめる、規則正しい蹄の音。
心臓の鼓動にも似た音を聞きながら、千佳は、半分眠っていた。
このまま蒼の底、漆黒の闇へと溶けてゆけたらそれはそれでいいと、心の隅でチラッと思う。
「斉木千佳」
呼びかけられ、千佳はぼんやり覚醒する。
鹿の背に乗ったまま顔を上げ、声の主を確認する。
真白の髪、真白の巫女装束を身につけた、鮮やかな赤い瞳の美しい少女がそこにいた。
少女はまたたく間に、髪を後ろでひとつにまとめた、作業服姿のおばさん……おばさんにしては美人だったが、オシャレでも垢抜けてもいない、普通のおばさんになった。
彼女は少し痛ましそうに小さく笑い、よく通る声でこう言った。
「あなたの真名の意味するところを、正確には知りませんが。あなたの親御さんはあなたの名前に、おそらく、千の佳きことがその身に降るようにとの願いを託されたのでしょう。我は今、月のはざかいの主としてあなたを寿ぎましょう。斉木千佳。千の佳きことがその身に降る者であれかし、と名付けられし者よ。月の鏡に映る己れを見……己れの、真の姿を知れ」
おばさんはいつの間にか、大きな青銅の鏡を抱えていた。
さっき千佳が抱えていた鏡より幾分かは小ぶりに見えたが、ゆがみのない、非常に美しい鏡面の鏡であることは見て取れた。
(おかあ、さん?)
もちろん、彼女は千佳の実の母とはまったく違う人であったが。
遠い遠いどこかで繋がっている、『おかあさん』と呼ぶのが一番相応しい存在だと、千佳は感じていた。
『おかあさん』に命じられるまま、千佳は鏡を見た。
真白の大地。
紺碧の空。
他には何もない。
遠い日、見たことがある光景が広がっていた。
ここは生死のはざま。
誰に教わるより先に、千佳はそのことを自覚していた。
(初めてここに来たのはいつだったろう?)
白の大地に立ち尽くし、紺碧の空をぼんやり見つめて千佳は思う。
すさまじい孤独。
永遠の孤独。
誰とも出会うことのない、ひとりきりの世界。
たとえ周りに何人いようとも、千佳の世界は、この生死のはざまと何も変わらない。
千佳の見えるもの、聞こえるもの、感じるものを、芯から共有する者などこの世にはいない。
十数年生きて、千佳は思い知った。
その頃になると千佳はもう、生きているのに疲れてきていた。
何も感じることなく永遠に眠り続けたいという願いが、そろそろと心の中で顕在化するようにもなってきていた。
(その願いに応えるように、私はユニコーンの夢を見始めた……)
ユニコーンは新緑輝く初夏の丘にいて、きらめく黒曜石の瞳でじっと、丘を登ってくる千佳を待っていた。
待っていた、としか感じられなかった。
千佳へ向けるユニコーンの瞳は、あまりにも真っ直ぐ、彼女だけを見ていたから。
何故『彼』は千佳が登ってくるのを待っているのだろう?
ああそうか!
彼女は不意に納得する。
『彼』もきっと、疲れているのだ。
疲れ切って、永遠の眠りを欲している。
でも、ひとりきりで眠るのはあまりにも寂しい。
今までずっとずっと寂しかったのに、最後の最後まで寂しいなんて耐えられない。
そう思う心がふたつ、今ここで奇跡のように出会う。
……いや、そうじゃない。
これは運命。
生まれる前からさだめられたこと。
寂しい魂がふたつ、出会って溶け合って、永遠に充足する。
そのために生まれ、これから出会うのだ!
「……気が付きましたか?」
優し気な声の問い。
眼鏡のレンズの向こう側で静かに、でもきらめくように輝く黒い瞳。
ユニコーンの瞳と同じだと、千佳には一瞥でわかった。
過呼吸のせいで失神したのは初めてで、慌てた親が救急車を呼んだ。
余計なことをと思っていたが、救急搬送された先の医師が、まさか『彼』だなんて!
あまりにも出来過ぎた状況に、彼女はむしろ気が抜けてしまい、茫然としたまま退院してしまった。
『彼』ときちんと会わなくてはと思うようになったのは、それから一ヶ月近く経ってからだ。
『彼』だってきっと、千佳が千佳だとわかった筈だと彼女は信じていた。
近いうちに必ず、バラの花束を手に千佳に会いに来てくれるだろうと。
バラの花の色は真紅。永遠の愛のしるしだ。
だけどいくら待っても彼は来なかった。
業を煮やして病院へ訪ねてみると、彼はいなかった。
今日は休みなのかと翌日も翌々日も訪ねたが、いなかった。
彼はいつの間にか、病院を辞めていたのだ。
そこから先、彼女の記憶は曖昧だ。
途轍もない絶望に心が死んだ。
心が死んだ千佳の身体を、得体のしれないモノが支配した。
誰が自分をどう扱おうが、あるいはどう評価しようが、今の千佳にとっては意味のないことだった。
勝手にすればいい。
唯一からも見放され、忘れ去られた自分に、価値などない。
だがそう思う一方で、もしかすると『彼』もそんな風に、得体のしれないモノに支配されているのではないかとも、思うようになってきた。
ならば会いにゆき、彼を救わなければ。
二人の、幸せな永遠の愛……永遠の眠りのために!
千佳は動くことにした。




