14 月と水とめぐる夢とⅡ①
九条円は駆ける。駆ける。
まるで飛んでいるかのように、軽やかに駆けてゆく。
白い大地と紺碧の空。
さながら、あの恐ろしい『神の庭』のような。
だが本能的に彼にはわかる。
ここは小波だ。
白い大地にも紺碧の空にも、その裏に現世の町を隠していることが。
こんなに身が軽かったこともこんなに全力疾走が愉快だったことも、かつてない。
まるで子供のようにワクワクしながら、彼は四つの脚を思うさま動かす。
自分の姿がイタい、とはもう思わない。
ここではこれが自分のデフォルト。
もちろんヒトの姿に戻ることも可能だし、おそらくスイの姿にもなれる。
スイの姿になったなら、彼の能力も使える気がする。
素晴らしい全能感。
最高の夢を見ているような気分。
(コラ俺! 浮つくな!)
隠された現世……津田高校が、白と紺碧の向こうに透けるように、見えてきた。
不穏な気配も感じる。
彼は脚をゆるめた。
津田高の校門前で立ち止まり、気を引き締め直してから彼は、ゆるやかにヒトの姿へ戻る。
オックスフォードシャツにデニムパンツ。『おもとの泉』の祠の前に集まった時の服装だ。
だが、何故か額のアイボリーホワイトの角が、ユニコーン形態の時の半分くらいの長さではあったが消えなくて、彼は困惑しつつ角を軽く撫でる。
(うーん、何だよコレ。ちょっと邪魔だな、重いってほどでもないけどさ……)
ユニコーンの時は額の角に何の違和感もなかったが、ヒトの姿に戻るとやはり持て余す。
触った感じ、角はさながら磨いた象牙のようであり、なめらかでほんのりあたたかかった。
そしてこの角にはどうやら、神経が集まっているらしい。
爪で軽く弾くだけで声が出るほど痛いだろうと思われる感じで、一種の急所だと判断できる。
(うわあ。こんな目立つ場所に急所かよ、かなわないな……)
少なくとも敵側に知られないようにしなくては。
そんなことを思っていると、不意に生温かいような風が吹いてきた。
「……九条先生」
震える声の主は、誰何するまでもなく怨霊……斉木千佳、だ。
白っぽい、寝間着のような服装で塀の陰から現れた彼女は、落ちくぼんだ目を爛々と光らせ、よろよろとこちらへ向かってきた。
最後に生身の彼女に会った時、つまり勤務先の病院で刺された時より、やつれ方がひどい。
「やっと……、やっと来てくださったんですね。やっと私が運命だと、わかって下さったのですね」
嬉しいです。
多幸感に満ちたつぶやきが、吐息と共に彼女の唇からもれた。
ぞわッと背が冷える。
「美しい……私のユニコーン。何度も何度も夢に見ました。新緑の丘に立つあなたは、風に銀色のたてがみをなびかせ、丘を登る私だけをじっと見つめていましたよね? 夢の中ではどれだけ頑張っても、私はユニコーンのそばへ行けなかったんです。悔しくて切なくって。でも……」
(……んんん?)
円は思わず眉を寄せる。
新緑の丘。ユニコーン。
詳細は違うが、何故彼女は、あの不思議な夢を知っている?
(この辺は、月の氏族の血のせいかな? 彼女も、さくやさんと似た夢を見ていたんだ)
円の思いをよそに、彼女は酔ったように語り続ける。
「病院で、初めてお会いしたあの時。発作から息を吹き返した瞬間、私はすぐにわかりました。縁なし眼鏡の奥で、気が付きましたかと私へ笑いかけたあなたの瞳が、あのユニコーンの瞳と同じ黒曜石のきらめきでしたから。……先生。九条先生。……愛しています、多分、生まれる前からずっと。あの紺碧の空の奥の奥、誰にも邪魔されない漆黒の闇の中で。私たちは永遠に、ひとつになって眠る……そのために生まれて出会ったんです。もうわかってらっしゃいますよね?」
「……参ったな」
思わずつぶやきがもれる。
改めて確信した、彼女は本気でそう思っている。
「え?」
円のつぶやきがよく聞こえなかったのか、彼女は可愛らしく首を傾げる。
「なんでもない」
そう言って曖昧に笑うと、円は踵を返す。
「九条先生! 何処へ……」
「……斉木千佳さん。望みを叶えたいんなら」
円は己れをユニコーンの姿へ変える。
「一緒についてきて。小波の最奥にある、神の領域に一番近い場所へ行こう」
そう言い、円は長い首をしゃくって合図する。
「なんなら俺の背に乗るかい? ヒトの俺じゃ、さすがに女の子背負って走れないけどね、この形態ならば易いことだし」
「……いいん、ですか?」
ひどく驚いた震える声で、彼女は確認してきた。
「ああ。その方が、早く事が済む」
ふらり、と彼女は一歩、前に出た。
「ちょっと待たんかい!」
ぶっきらぼうに響いてきたのは、円も聞き覚えのある声だ。
ここ三日ばかりの付き合いではあったが、友人と呼べる気のいい木霊の若者のもの。
「……ナンフウさん」
円のつぶやきとほぼ同時に、見覚えのあるカモフラのベストとカーゴパンツの、エキゾチックな風貌のイケメンが現れた。
「おいアンタ。ユニコーンの君。お前、何を企んでるねん」
刺々しい口調でそう言い、円を睨みつけるナンフウは、いつもとはまったく違う剣呑な気配を纏っていた。
「ウチのお嬢、騙くらかして、ヤバいトコ連れてくつもりやろ? お嬢は純粋やから簡単にごまかせるかもしれんけどな、オレはそうはいかんぞ、この不浄めが!」
「ナンフウさん!」
叫び、円はヒト型に戻る。
「ナンフウさん、俺だ、九条だよ! 」
ナンフウは恐ろしい笑みを口許に含む。
「やかまし。九条のにーさんが額に角なんか生やしてるかい!」
「え? あ、いや……そう、だけど! これには色々と……」
「問答無用じゃ!」
ナンフウは叫ぶと、両手を振りかざす。
左右の手にはいつの間にか、薄緑色に淡く輝く、長い爪が装着されていた。
「ぶっ殺したらあ!」




