Bー1 刺される①
その日の朝。
九条円は何故か、白衣を羽織った。
いつもは、暑苦しいからとか邪魔になるからとかの理由で、病院のユニフォームである紺のスクラブだけで仕事をしている。
たとえ熱があっても元気?に抵抗する幼児の相手は、出来るだけ身軽なのがいい。
抱っこしたり追いかけたり、場合によっては押さえつける必要上、小さな手足で(本気で)反撃されたりする小児科医は、主に成人が相手の他の診療科以上に体力勝負だし、気も遣う。袖も裾も短い方が、機敏に動けていい。
余計な(というのも語弊があるが)ものは、身に着けないに限る。
小児科の専攻医として仕事を始めたこの半年で、自然と理解した事柄だ。
しかし今朝、急に彼は『白衣を着よう』と思った。
春からこちらで勤めるようになって以来、初めて『なんだか肌寒いな』と思ったからかもしれない。
ロッカーに常備している新品の白衣の包みを破り、バリバリと角張った硬い袖へ腕を通した。
長い袖口を巻き上げながら、彼は、頭の中で今日のスケジュールを確認する。
今日は午前中に入院患児の回診、午後から外来の診察。
回診はともかく(今のところ入院者が少ない)、外来の予約は詰まっていたはずだ。
(さあて。戦闘開始!)
頬へ張り手を入れる気分で眼鏡をかけ直し、円は、ロッカールームを後にした。
小児科病棟の扉を開けた途端、つんざくような泣き声が響いてきた。子供の泣き声に慣れている円ですら、驚くレベルの声だ。
「どうしたんですか? この声」
ナースステーションを覗き、スタッフに声をかけると
「ああ、九条先生」
と、ベテラン看護師の由川が振り向く。
「107号室の翔真君が……」
「……ああ」
円は納得した。
今年七歳になる翔真君は、先天性の疾患を複数抱えている。
生まれて以来、自宅にいるより病棟にいる方が長い。
だが最近、症状が安定しているというか小康状態だったので、一時帰宅を計画していた。
しかし帰宅前日(昨日)になって急にまた微熱が出始め……大事を取って、一時帰宅は中止になったのだ。
翔真君も、幼いながら事情はわかっている。
わかっていても、楽しみにしていた一時帰宅が中止になり、本来ならば帰宅する今日、気持ちが爆発したのだろう。
「ちょっと様子を見てきます」
誰ともなくそう声をかけ、円は107号室へ急ぐ。
107号室の中は大変なことになっていた。
掛け布団やシーツ、タオルケットなどはぐちゃぐちゃに乱れて床に落ちかけていた。
彼のお気に入りのおもちゃは室内のあちこちに散乱していたし、大好きな絵本すらページが破られ、床に散乱していた。
「翔真君」
声をかけると、彼が愛用しているプラスティック製のマグカップが飛んできた。
素早く避け、ひどい音を立てて床に転がるマグカップを拾い、円はベッドに近付こうとした。
「来るなぁ!」
泣き声まじりの叫びには、聞く者の胸を突き刺すような鋭い哀しみがこもっていた。
頬を赤くし、涙だらけの目を怒らせて翔真は叫ぶ。
彼の頭の周りに、ごく微かな、影のようなモノが揺曳しているのが、眼鏡越しにさえ見える。
「来るな来るな、来るなー! 嘘つき! 嘘つき! みんな大嫌いだー!」
痛む胸をこらえ、円はゆっくりと翔真に近付く。
「そうだよね。嫌だよね。みんな嫌いになっちゃうよね。ごめんね……」
うわーん!
激しい泣き声が再び響く。
次は枕が飛んできた。
枕を投げながら、泣きながら、意味をなさないことを切れ切れに彼は叫んでいる。
円は枕も拾い上げ、ベッドのそばまでたどり着く。
念のため、眼鏡をずらして彼の周囲を確認する。
特別に質の悪そうなのはいないと確認した後、円は、泣いている翔真の頭にそっと触れる。
(翔真を守れ)
心でそっと呟き、円は、てのひらにごく弱い光の円陣を発生させて、翔真の頭を撫ぜた。
影のごときナニモノカは音もなく消える。
彼の心を支配しようとしていた【dark】――ごく弱いながらも彼の精神をむしばむ、あえて言うなら不浄のモノ――を、てのひらの円陣が散らしたのだ。
翔真の泣き声は徐々におさまってきた。
円は彼の頭を、そっと、触れる程度に優しく撫ぜ続けた。
光の円陣はもう必要ない。
しゃくりあげながらも翔真は大人しくなってきた。
ある程度はかんしゃくも発散できただろうし……疲れてもきただろう。
そもそも彼は今、微熱があるのだから。
ベッドに落ち着き、少し水を飲んだ後、翔真はうとうとと眠り始めた。
「ありがとうございます、九条先生」
げっそりと疲れた顔をした翔真の母親が頭を下げるが、円は首を振る。
「いえ。私は別になにも。翔真君が暴れたくなる気持ちもわかります、でも……親御さんはもっとつらいですよね」
彼女は涙ぐみ、再び深く頭を下げた。
「また……様子を見に来ます」
そう言い、彼は107号室を後にした。
果たしてこれで正しかったのだろうかと、心のどこかで迷いながらも。
【dark】に心を支配されないよう、早めに手を打つことそのものは、確かに悪いことではない。
アレは、たとえるならば癌化しようとしている細胞のようなもの。
気付いた時に早めに処置する方が、本人の負担も軽く済む。
でも。
本当にそれでいいのかと、最近、円は常に悩んでいた。
【eraser】としてならそれでいいだろうが、医師としてはすっきりしない。
不浄に対する、いわゆる自己免疫力を高める機会を、奪っている可能性が頭をかすめるようになってきたからだ。
【dark】と呼ばれる不浄を散らし浄化する【eraser】の能力は、持って生まれた彼の能力だった。
今から十年以上前の初夏。
当時高校生だった彼は、この能力を最大限に発揮して、教え導いてくれた先輩にして師匠である人と共に【Darkness】と呼ばれる大いなる不浄のモノを浄化し、鎮めた実績がある。
負のエネルギーを打ち消しゼロにするため、この【世界】自体が生み出した能力者――【eraser】。
彼……九条円は。
もはやベテランと言える【eraser】であり、同時に、駆け出しの小児科医でもあった。