12 転換Ⅱ②
水曜日。
結木蒼司は今日、フルートのレッスンの為、夕方から小波を出る予定だ。
登校前に彼は、庭木のナンフウに呼び止められ、念のため彼の身体の一部である棕櫚の木の繊維を持ってゆけと言われた。
「今日、坊の習い事は夕方の4時からで、学校が終わってそのまま行くんやろ? 帰ってくるんは5時半から6時くらいってトコやったな」
ナンフウの言葉に、蒼司はむっつりとうなずく。
「今、我々はエンノミコトの『緑蔭の癒し』最大級レベルを実行中やから、ぴったりと坊に付き添うのはむつかしけど。午後遅くまでやったら他の誰よりオレの融通が利くから、それとなく坊のガードをさせてもらうワ」
「……別にエエのに」
貰った繊維(というか、蒼司がそっとむしり取った繊維)をポケットへ入れつつ、蒼司は面倒くさそうに言う。
「あの怨霊のねーちゃんの気配、さすがにオレ、覚えたし。確かに二回引っかかってしもたけど、いくらなんでも三回も引っかかれへんで。むしろ返り討ちにしたるワ」
「それはやめとけ」
ナンフウの声に深刻さが加わる。
「いくら坊が月の若子やゆうても、ニンゲン一人で怨霊とのガチンコ勝負は自殺行為やで。まあ、日曜の朝にあのねーちゃん、草仁にどエラい雷落とされよってから、ちょっと大人しィにしてるみたいやけどな。せやけどあの手の怨霊さんが、いつまでも可愛らしィにビビッてる訳ないし。小波の外へ出るんなら、関係者は皆、警戒せんと。坊のおやっさんでさえ毎朝、大楠さんから葉っぱもらって出勤してるくらいやからな。くれぐれも言うとくけど、坊。自分だけで何とかしようとか、思いなや」
「……わかった」
不承不承ではあったが、蒼司はうべなう。
あの怨霊が自分の手に余るくらい、蒼司とて察している、悔しいけど。
放課後、蒼司はいつも通り地元の最寄り駅から三つほど離れたターミナル駅へ向かう。
終業後すぐ向かえば、レッスンの始まる20分ほど前に教室に着く。
蒼司の通っているフルート教室は、楽器店の一角に小さなレッスン室がいくつも並んでいて、各々の講師がマンツーマンでレッスンを行うタイプの教室だ。
フルートだけではなく、ピアノや電子オルガン、ギターの教室もある。
レッスン室が空いているなら早めに来て、軽く音を出してもいいことになっている。
蒼司はいつものように、レッスン前のウォーミングアップをする。
今回から新しい楽譜でのレッスンだ。
日曜からこっちバタバタしていたせいもあり、十分さらえていない。
彼は気合を入れてウォーミングアップし、一度『通し』で曲を吹く。
バッハの『シチリアーノ』だ。
『シチリアーノ』はフォーレの方が知られているし、そちらの方がメロディラインもドラマティックかもしれない。
が、蒼司個人は端正で静謐なバッハの方が好みだ。
もちろんいつかはフォーレも吹いてみたいが、まずはバッハをマスターしたい。
磨きをかけ、来年春の発表会に吹いてもいいかとも思っている。
(近いうちに、遥さんと合わせてみたいな)
彼は楽譜を読めないが、大抵の曲は耳で覚えてしまう。
まずは有名フルーティストの音源を聴いてもらい、次に蒼司の音を聴いてもらえば、冬になる前に合奏が出来るだろう。
やっとここまでこれた、と彼は思い、頬をゆるめる。
(……その前に。九条の周りでウロチョロしとる鬱陶しい怨霊、何とかせんとアカンな)
思い出すとむらむらと怒りが湧いてくる。
アレは一度ならず、二度も蒼司を謀った。
ナンフウにたしなめられたが本音を言うなら、倍にして返してやらないと気が済まない。
(これでもオレは月の鏡直系の、仮にも月の若子と呼ばれてる男やぞ)
一族の者とはいえ傍系出身の、それも成り立ての怨霊にコケにされ、黙って引っ込んでいるのは癪だ。
(アレに思い知らせるには、どうしたったらエエ? ……やっぱ『鏡』で照らしたるんが一番効くんやろうな)
『己れの真の姿を知れ』
そう言って霊力で作り出した『鏡』を向けてやる。
怨霊になった凄まじい己れの姿を見れば、『恋する乙女(笑)』の心はさぞ、傷付くだろう……。
「ストップ。どうした、結木くん」
レッスンが始まり、しばらく後。珍しく先生に演奏を止められた。
「いつもと違うねえ。音色が荒れてる」
さすがに蒼司はぎょっとする。
「スミマセン。今回は練習不足やったんで、ちょっと焦ってて……」
そう言って頭を下げると、先生は苦笑する。
「練習不足とまでは言われへんよ、ちゃんと指も動いてるし。…って言うか、いつもの結木くんやったら、バッハの曲やったらちゃんとバッハらしい音色で演奏するのに、今日は行進曲かなんかでも演奏してるみたいな、うーん、良く言うたら勇ましい? そんな音色やねん、哀愁漂うシチリアーノやのに。もしかしてこれ終わったら結木くん、河川敷で宿敵と殴り合いの喧嘩でもする予定?」
(ひええ。先生ってすごい……)
当たらずとも遠からず、今日かどうかはともかく『怨霊いてこましたる』と蒼司は思っている、確かに。
精神状態バレバレの演奏をしていたらしいのを恥じ、蒼司はひとつ大きく息を吐いて気持ちを整える。
姿勢を正し、彼は新たな気持ちでもう一度、フルートをかまえた。




